今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

はじめに

 もうはるか昔になりますが、平成7年11月から4年半にわたり、とある歌舞伎愛好会の会報誌にて、私家版歌舞伎史「今昔芝居暦(いまはむかししばやのうつろい)」大正・昭和版なる連載をさせて頂きました。

 執筆の経験などまったくない素人なのに、「大正時代なら15年と短いから、1回3年分として5回で終わるから大丈夫」と編集会議にて励まされ、無謀にも始めてしまった連載でしたが、「せっかくだから続きを」と言われるがままに長い長い昭和に突入し、何度となく心が折れそうになりながらも、どうにか最後まで書き続けることができました。

 連載中は早稲田大学の演劇博物館に通いつめ、3年分ずつ「演劇界」その他の関連資料を毎回大量にコピーし、まず資料の内容を時系列に並べた年表を作成し、それから記事を書くのですが、当時は法律事務所のスタッフとして残業残業の日々。さらに諸事情により大学に進学せずに社会人になった私は、某大学の通信課程で学び、卒論の執筆中でもありました。その結果、1日の大半をパソコンの前で過ごすことになり、長時間キーボードを叩き続けて腱鞘炎になり、湿布とテーピングが欠かせず、病院で安静が必要と言われても、仕事と卒論と会報の3つの締切に常に追われていましたから安静どころではなく、腱鞘炎は悪化するばかりでした。

 まず先に卒論を書き終え、無事に卒業することができ、次に会報の連載が終わり、腱鞘炎は徐々に治りましたが、勤め先では、私の腱鞘炎は仕事のし過ぎということになっておりました…。

 その後、勤務先を離れてフリーランスとなり、自分のホームページを作って「今昔芝居暦」の記事をデータ化して掲載していましたが、いつしか更新するのは日記のみとなり、歌舞伎関連のページは長らく放置していたところ、ヤフーからHP作成サービスを終了するとの通知が届き、あんなに苦労して書き綴り、せっかくデータ化までした記事がすべて消えてしまうのは忍びないので、このような形で残すことにしました。

 読み返せばおそらくたくさん手直ししたくなるに違いないのですが、発行部数がごく少ない会報誌とはいえ、一度は刊行物として世に出たものですから、あえて加筆修正を一切しないことにしました。

 当時その会報誌を発行していた愛好会も今はもう存在していません。平成という時代も終わろうとしています。芝居に限らず、何事も移ろいゆき、やがては今は昔…。

(記:2018年10月2日)

(無断転載等はご遠慮ください。)

 

追記:

 この「今昔芝居暦」はいわば過去の連載記事のデータ保管庫なので、今後更新することはありません。日々の日記は、はてなダイアリーからはてなブログに移行し、「まるぶろぐ 」として書き綴っています。

(2019年3月30日)

 

大正元年~3年

 大正初期の各座の筋書をみると、市村座は表紙も中味もすべて勘亭流の文字で、少々読みにくいが、いかにも芝居らしい味わいがある。帝劇と歌舞伎座はすでに活字を用い、帝劇は美しい錦絵の表紙が特徴で、80年余り経った今でも色褪せていない。歌舞伎座の筋書きはスポンサーの影響力が甚大で、楽屋話の欄でも役者に宣伝文句を語らせている。三越がまだ呉服店だった時代で、当時の広告を眺めるだけでも十分に面白い。

 たとえば味の素の広告には「旅行の時、御観劇のとき、味の素の一瓶をオペラパックにポケットに携帯して至る所に口にかなった美味珍味を味わい下さい」とあり、ステッキ片手の紳士が背広のポケットに味の素の瓶を忍ばせるイラスト付き。しかも「味の素を茶にまぜて呑めば番茶が玉露」と続く。

 肝心の芝居の内容も、現在とは全く違う演出や今では見られない場面を伺い知ることができ、興味は尽きない。

 これらの筋書きや、古くは「演芸画報」「演芸倶楽部」などの専門誌を手がかりに、近世の歌舞伎の歴史を駆け足でたどってみよう、というのがこの連載のねらいである。

 團菊左なきあとの大正の世は、五代目歌右衛門、六代目梅幸、十五代目羽左衛門、七代目幸四郎などの名優もいまだ劇界をリードするに足る芸域に至っておらず、いわば群雄割拠の時代であった。新派の隆盛や新劇運動の高まりを背景にしながら、既に明治43年1月に新富座を、7月には本郷座を手中にしていた松竹合名社は着々と東京進出を果たし、大正2年には歌舞伎座が、また明治の末に二代目左團次から伊井蓉峰の手に渡っていた明治座は大正8年に松竹の所有となった。

 さらに、菊・吉をはじめとする若手の熱演で人気を集め「二長町時代」を築いた市村座は昭和3年に、壮麗な建物と目新しい女優劇で一時は飛ぶ鳥も落とす勢いを示した帝国劇場も昭和5年に松竹傘下に入った。歌舞伎俳優もほとんどが松竹の専属となり、かくて明治末から昭和の初めにかけて松竹の一大帝国が出現するに至る。

 大正元年4月、帝劇はマチネー興行を始めた。毎週土日と祝祭日の午後のみの女優劇である。帝劇は本興行にも次々と女優を出演させ、松井須磨子川上貞奴、森律子らが人気を集めた。女優熱が高まる一方で、女優と女形の要不要をめぐる論議が盛んに展開された。所詮行き着くところのない議論であったが、新作はともかく、純粋な歌舞伎劇の女性を女優が演じると何となく違和感がある、というのが一般的な見方だったようである。

 女形の未来が問われ、真女形の払底が嘆かれる中で、六代目市川門之助は逝った。鉛毒による脳充血であった。門之助は出雲の漁村に生まれ、田舎廻りの芝居で坂東秀之助と称し、大阪の市川右團次(のち斎入)に入門して市川福之丈と改め、明治18年に初めて東京の舞台(春木座)に上がった。そのとき九代目團十郎の目にとまって入門し、明治21年に二代目女寅、同43年に門之助を襲名した。歌舞伎座の幹部に出世した後も、良い役は梅幸に、梅幸が帝劇に移った後は歌右衛門に取られてしまい、常にワキに徹しながらも決して不満をもらさず、控えめな女形に徹した。しかし、内心は 「実に女形ほど人知れず辛いものはないので、倅はどうか一本立ちにしたい」 と願い、生前から息子男寅を六代目菊五郎の手に委ねた。菊五郎はその願いによく応え、男寅を引き立て面倒をみた。16歳で父門之助に別れた男寅、のちの三代目市川左團次である。

 小宮麒一編 「歌舞伎・新派・新国劇 上演年表 第五版」 によれば、大正元年から3年までの28か月間、帝劇は実に24か月も歌舞伎の興行を開いているが、マダムバタフライのあとにお夏清十郎、吃又のあとに 「ダンス春の宵」 といった具合で、女優陣を出演させるための無理が感じられる。それでも時代の流れにのった帝劇に他の劇場は押され、歌舞伎座の歌舞伎興行は28か月中15か月半でようやく半分を超えたが、市村座は12か月、明治座に至ってはわずか5か月という有様であった。

 連載の始まりにふさわしい華やかな話題として、大正3年4月の 「勧進帳三座競演」 をとりあげてみたい。三座とは、歌舞伎座、帝劇、市村座である。歌舞伎座では十五代目羽左衛門(当時41歳)が初役で弁慶に挑戦し、二代目左團次(同35歳)の富樫、二代目歌右衛門(同50歳)の義経。帝劇は、明治39年5月に初めて弁慶を演じて以来、既に十余回の興行を重ねている七代目幸四郎(同46歳)が六代目梅幸(同45歳)の富樫と七代目宗十郎(同40歳)の義経で幕を開けた。対して市村座は、当時30歳の六代目菊五郎の弁慶、28歳の吉右衛門の富樫、33歳の七代目三津五郎義経という一世代若い顔ぶれであった。

 そもそも、なぜこの月に三座が揃って勧進帳を出すことになったのか。当時、勧進帳を出すためには、市川宗家の許可を受け、1千円ないし3千円の版権料を納めなければならなかった。その上、衣装も堀越家から借りなければならず、その借料が加わるから興行主にとっては大した出費である。しかも、この月の興行を前に、歌舞伎座羽左衛門のために新しい所作舞台を造らせ、帝劇は幸四郎のために花道をつけたという(今では当たり前の花道も当時はそうではなかった)。それほどまでして興行を打つからには、必ず成功して投じた費用を回収しなければならない。しかし興行主の側には確かな勝算があった。この月、上野で開かれた大正博覧会である。というのも、明治40年4月に東京博覧会が開かれた際、歌舞伎座は高麗蔵(のちの七代目幸四郎)と2代目段四郎の日替わりによる勧進帳で当てた実績がある。三座は2匹目のドジョウを狙った。そしてドジョウは確かにいたのである。農家の手が空き、花見頃の4月とあって、地方からも博覧会目当ての観光客が押し寄せ、その余波は十分に三座の勧進帳に集まり、三座とも初日以来連日 「満員売切」 の札を出したという。

 弁慶は歌舞伎座羽左衛門、帝劇の幸四郎市村座菊五郎であるが、劇評は 「幸四郎の柄、羽左衛門の力に対して、菊五郎の弁慶は器用さで見せていた。才気に富んだ人だけに、何をさせても器用ではあるが、あの柄と、あの声とでは、余程出し物の選択に心を用いなければならぬ。弁慶は無論失敗であった。後半は派手に面白く踊ったけれど、前半は気の毒な程であった」 (中内蝶二氏・演芸画報)と菊五郎に手厳しい。

 残る2人は、まず素質の点では、幸四郎はやがて1600回以上の上演記録を樹立する弁慶役者であるから、当時すでに、生来の堂々とした顔や体格と太い声に加えて、舞と踊りの素養においても弁慶にふさわしい条件をほぼ完全に満たしていた。一方、羽左衛門の方はというと、その細い顔もやせ型の体も弁慶を演ずるには不向きと言わざるを得なかった。素質の違いは花道揚げ幕から出る一瞬にあらわとなる。幸四郎の堂々とした立派な出端に対し、羽左衛門の見た目の若さも持ち前の損であった。

 しかし、素質の違いはもとより羽左衛門その人こそが身にしみて分かっていることであり、あえて幸四郎を向こうに初役で弁慶を勤める羽左衛門の意気込みは相当なものであったという。3月3日の晩に突然段四郎を訪ねて教えを請い、翌日の昼過ぎまで夢中で稽古を重ね 「平素に似合わぬ熱心さに驚きましたよ」 と段四郎に言わせている。さらに市川新十郎について九代目團十郎の呼吸を呑み込む努力を積み、その上で迎えた初日であったが、何事にも動じない鷹揚さが持ち味の羽左衛門でもこのときばかりは緊張し、別人のように小心翼々として演じた。しかし、その緊張は心の張りとなり、全身にみなぎる力となって羽左衛門の弁慶に魅力を与えた。既に手に入っている弁慶役を余裕で演じる幸四郎に対し、初役の意気込みと緊張感で芯から張りつめた羽左衛門は、彼の強みである度胸でこの大舞台をものにし、気力で素質の不備を補ったといえる。

 勧進帳の読み上げや三段の舞について、評には 「羽左は幸四郎に及ばざること遥かに遠し」 とある。が、幸四郎には味があるものの 「余りに味を持たせようとして間延びになるのが此優の難」 と続き、幸四郎の弁慶も満点ではない。面白いのは弁慶が義経を打擲するくだりの評で、羽左衛門は金剛杖を振り上げる形が素晴らしく、幸四郎には打ち下ろすときに深い趣があったという。「判官おん手を取り給ひ…」 の場面は歌舞伎座の方が遥か に心に沁みる出来だったというから、羽左衛門の健闘ぶりが伺われる。これに続く語りの部分では、努めて踊りにならないようにと苦心する羽左衛門と、手に入りすぎた役ゆえに踊りになろうとする幸四郎。あくまで対照的な二人であった。

 次に、富樫は歌舞伎座左團次、帝劇の梅幸市村座吉右衛門で、意外なことに最年少の吉右衛門が最も高い評価を受けている。台詞がやや間延びしたものの、いちばん見応えがあったという。左團次にとって富樫は、九代目團十郎の追善興行で段四郎の弁慶を相手に勤めて以来であった。そのときに較べて余裕ができ立派になった分、細かいところで欠点が目立った。ただし 「真の理想の富樫役者として、先代の名を辱めないやうに、一層の鍛錬を望んで置く」 とあるから、先代の当たり役ゆえに評が辛くなった面もあるかもしれない。梅幸については 「一言にして云へば失敗である」、大切な台詞をぬかすは 「言語道断」、さらに 「不心得」 「まづい」 「形も悪い」 と散々であるが、押し出しは左團次より立派で品位もあり、山伏との押し合いの意気と形や引っ込みの前の表情が良かった、と辛うじて褒められている部分もある。

 義経は、歌舞伎座歌右衛門、帝劇の宗十郎市村座三津五郎で、これはもう、團菊左の間に入って福助時代から折紙付きの歌右衛門に他の2人がかなうはずがない。劇評は歌右衛門の賛美に尽き、宗十郎三津五郎については 「悪くはない」 と言うにとどまっている。

 何はともあれ、花見月のひととき、三座の勧進帳を総なめにできたら、さぞ幸せな心地がしたに違いない。

 ちなみに、この月の各座の観劇料は、歌舞伎座が特等席3円30銭、3階桟敷50銭、帝劇は特等席3円、4等35銭、そして市村座が桟敷2円、大入場30銭であった。歌舞伎座の上等弁当が40銭、うなぎ鮨が50銭という時代である。

大正4年~6年

 大正4年初春正月、帝劇で三代目松本金太郎が満6歳で初舞台を踏んだ。父七代目幸四郎の山姥に快堂丸で 「親譲りの目千両」 と大喝采を浴びたこの少年がのちの十一代目團十郎である。男らしい名を、と選ばれた金太郎は父の本名でもあり、もともとは藤間の曽祖父が七代目團十郎の門に入ってもらった名だという。快堂丸は九代目團十郎明治天皇の御前で山姥を演じた際に父幸四郎が勤めた光栄な来歴のある役で、干支の卯年にちなんで大勢の子役が兎の姿で舞台を賑わせた。近所の子供を集めては芝居の真似事に興じ、常に座頭役で御満悦だった腕白坊主がやがて一世を風靡する名優となり、宗家襲名からわずか3年半後に56歳の若さで逝ってしまったのは周知のとおりである。

 翌5年11月には三代目中村米吉のちの十七代目中村勘三郎市村座で初舞台を飾った。年の離れた長兄吉右衛門の幡随院長兵衛に菊五郎権八という 「花川戸噂の爼板(通称:爼板長兵衛)」 で長兵衛の伜長松役。口上の席で菊五郎が 「吉右衛門の伜」 と脱線すると、吉右衛門も 「私の伜、いや弟でござりました」 と大真面目な顔で受け、見物の中には 「実の父親は歌六のはずだが…」 と当惑した御仁もあったとか、なかったとか。

 今回とりあげた3年間には、四代目芝翫17回忌、五代目菊五郎13回忌、初代左團次13回忌、九代目團十郎15五回忌と追善が相次ぎ、大正6年11月歌舞伎座團十郎15年祭は、座付俳優に左團次一座と市村座連を加えた総勢300人の大舞台であったという。帝劇も同じ月を團十郎の追善興行とし、5つの候補狂言の中から観客の投票で選ばれた4つ(茶臼山凱歌陣立、大森彦七勧進帳、お夏清十郎)と山姥を舞台にのせた。

 追善によせて、名優の素顔を語るエピソードが当時の演芸画報に多数掲載されている。例えば五代目菊五郎について、十五代目羽左衛門はこんな思い出を語っている。

 羽左衛門が玄蕃、芝翫時代の五代目歌右衛門が松王丸を勤めた勧進帳をみて、菊五郎芝翫のしめていた紫縮緬の病鉢巻はいけないと言った。女形芝翫縮緬では優しくなりすぎるというのである。助六や保名のように恋人がいる色男の役のときには鉢巻も少しダラリとさせて色気を見せる必要があるが、武家の浪人なら黒八丈の袖口の古い品に限る。結び方もきちんとしなければならない、と教えは続く。鮨屋の権太の鉢巻に至っては、上にツンと出る部分の寸法が菊五郎の場合は何寸何分とキッチリ決まっていたという。舞台上の道具の寸法にもうるさく、弟子は物差しを片手におおわらわ。凝り性で有名だった菊五郎らしい逸話である。六代目もこの種のエピソードに事欠かないところをみると、まさに親譲りというところか。

 その芝翫福助時代の思い出は傑作だ。大阪の浪花座に乗り込んだ際、熱狂する群衆に帽子を脱いで会釈を返す福助に、菊五郎が小声で 「オイ福さん! 後生だから帽子を脱がねえでくれ」 と言う。隣で福助が帽子を取っているのに菊五郎が被ったままでいるわけにはいかない。しかし菊五郎は帽子を取りたくないのだ。禿頭を気にしているのである。「小父さんの心持ちでは、芝居が明けば若い綺麗な男になって見せるのに、その前に頭の禿げたところをお目にかけは色消しだという注意からであった」 と、福助菊五郎のために付言している。

 また、息子の六代目梅幸によれば、菊五郎が逝く2年ほど前、名古屋の芝居に出て数日後に父が脳溢血で倒れたことを知り、中1日の休場を幸いと駆けつけたが、菊五郎はそんな息子の顔を見るなり 「何をしに帰ってきた!」 と頭から噛みつくような一喝。泣く泣くその夜のうちに名古屋に戻った梅幸は汽車の中で一晩泣き通した。ようやく千秋楽を終えて東京に戻り、おそるおそる父の病間を訪ねると 「よく無事で帰ってくれた」 と思いもかけない優しい言葉。驚く梅幸に、菊五郎はニコニコしながら 「この間は忙しい中からよく見舞いに帰ってくれた。俺もそのときは実に嬉しかった。が、お前は先方にとっては大事な看板だ。戦でいえば大将だ。その大将たる者が、いくら親の病気だといって戦場から勝手に帰って来る法はない。お前をそばへ引きつけておきたいのは山々であったが、そんなことをして先方の人気でも落としては太夫元にすまないと思ったから、わざとあんなに酷いことを言ったのだ」 と本心を明かし、梅幸はただただ涙にくれたという。梅幸はこの思い出を 「忘られぬ慈愛」 と題している。

 昔の役者にはなぜか火事好きが多い。菊五郎もそのひとりだが四代目芝翫も相当なものだ。ある日のこと、火事の知らせをきいて芝翫がそれっと駆けつけると、火事はとうに消えた後。これに怒った芝翫は居合わせた消防士をつかまえて 「ヤイ! なぜ俺の来ねえうちに消してしまった」 と怒鳴りつけたそうな。

 こんな話もある。世界地図を見ているところへ芝翫が現れ 「日本はどこだい」と言うので番頭が日本列島を指さすと 「フム、そして九州はどこらだい」 ときく。「この小さな点がそうです」 と答えると 「そんな馬鹿なことがあるものか。俺が九州を回ったとき幾日かかったと思う。第一、日本がそんな小せえ筈はねえ」 と大の不機嫌。中国大陸の大きさにも承知しない。「べら棒め、人が知らねえと思っていい加減なヨタばかり飛ばすな。唐がそんなに大きくて日本がそんなに小せえわけはねえ」 と口をとがらせる芝翫に、息子の福助(五代目歌右衛門)が見兼ねて 「日本はこれですよ」と北アメリカ大陸をさすと、芝翫は 「うむ、そうだろう。何といったって日本はどうしてもそのくらいはなくっちゃあならねえ筈だ」 とニコニコし、ようやくその場が納まったという。

 その福助がある日、芝翫を瀧の川へ紅葉狩に連れ出した。ところが秋はまだ浅く樹々はさっぱり染まっていない。それでも芝翫は帰宅するなり家人に 「青々としたいい紅葉であったよ」 と大満足の様子。これが大真面目なので一同は笑いをこらえるのに四苦八苦。「芸以外のことには無頓着で子供のような無邪気な人」 と父を評して福助は言う。「お大名」 と呼ばれた役者、四代目芝翫の鷹揚な人柄があざやかに伝わってくる。

 相次ぐ追善を機として襲名も目白押しの3年間である。六代目彦三郎を継いだ栄三郎は五代目菊五郎の二男、現羽左衛門の父であり、五代目福助となった児太郎は五代目歌右衛門の長男、現歌右衛門の兄。三代目時蔵は三代目歌六の二男で、勘三郎にとっては兄、現時蔵にとっては祖父にあたる。堀越福三郎は九代目團十郎の長女の夫として市川家の養子となり、九代目の没後に31歳で初めて舞台に立った。没後に十代目團十郎を追贈されている。

 話は変わり、大正4年2月歌舞伎座の市川斎入(初代右團次)引退興行を仁左衛門が休演したことから、仁左衛門は兄我童を狂死に至らしめた襲名の一件に斎入が関わっていたことを怨んで休んだのだといううわさが広まった。しかしこれは事実無根で、名古屋興行への出演を病気休養のために断った手前、その後に引退興行の話を知った仁左衛門は出演したくともできなかったのである。興行を終えた斎入を東京駅で見送りながら、仁左衛門は 「斎入は引退しても、その技芸には引退させて下さるな」 と熱く語ったという。その仁左衛門の願いも空しく、斎入は翌5年2月に不帰の人となった。享年74歳。皮肉なことに、引退興行の筋書に斎入自身が 「引退後に長生きをした役者は数えるほどしかいない」 と述べている。

 当時は各劇場が座付俳優を抱え、歌舞伎座歌右衛門羽左衛門を主力とし、帝劇では梅幸を座頭に高麗蔵、宗十郎松助らを中心としながら帝劇が育てた女優連を盛んに共演させていた。明治座には左團次が一座を構え、市村座には菊五郎吉右衛門三津五郎、勘弥などの若手が連日の熱演で小屋を湧かせていた。

 そのような状況の中で、大正4年10月の市村座でアルテミス神殿を舞台とするギリシア悲劇 「軍神」 に川上貞奴が王妃アルタイ役で出演している。座元の田村成義貞奴の後援者の申入を安請合いしてしまい、断りきれずにやむなく出演させたものだが、そんな経緯を知ってか知らずか、貞奴は毎日着飾って楽屋入りをし、出番になると必ず多量の香水をふりまいて、ウイスキーのストレートを一杯。度胸をつけるためでもあっただろうが、当人は 「西洋の名女優はみんなこうして舞台に出ます」 と上機嫌だったという。このエピソードは演芸画報川尻清潭が語っている。

 この頃すでに、菊・吉を争わせて観客の興味を引こうとする田村の戦略によって双方のひいき連が対立し、その激化につれて両優の関係が険悪となりつつあった。吉右衛門市村座を去るのは大正10年のことである。

 最後に、当時の生活を偲ばせるものとして冷蔵器の広告をあげてみた。まだ電気式でなく、冷蔵用の氷が毎日配達されるところがミソである。懐かしさを覚える方もおられることと思う。ちなみに、大正4年末現在、自動車数は全国で1200台を超え、自転車も60万台をゆうに上回る一方、人力車の数も12万台を超えていた。翌5年にはチャップリンの映画が人気を集め、この年、大学は4校(学生数7千人強)、高校は8校(学生数6千人強)あったという。大正3年8月に対独戦線布告をして第一次世界大戦に参戦した日本はこの頃、大戦景気の波に乗っていた。

大正7年~9年

 大正7年1月の歌舞伎座は、中村芝雀改め三代目雀右衛門の東京披露興行で幕を開けた。 新雀右衛門がお光を勤める「野崎村」の2日目、駕舁きの猿之助亀蔵羽左衛門の久松を乗せて仮花道に 掛かったところで客席に転げ込み、危うく久松も一緒に落ちるところを観客に支えられてようやく難を逃れた。翌 日から手慣れた村右衛門と羽太蔵が駕屋を代わり、久松もやっと一安心。

 7月の歌舞伎座で上演された「星合露玉菊」には不思議な話がある。吉原の芸妓玉菊が愛用していた人形が 夜な夜な持ち主の夢に現れるので、気味悪くなって玉菊の菩提所に納めようとした矢先、歌右衛門が玉菊を演 じると知り、持ち主はこの人形を歌右衛門に贈った。歌右衛門の家では、この人形をしまい込んでおくと必ず家 人に病人が出るため、常に床の間に据えておき、陰膳を供えることを家例としたという。人形には魂がこもると いうが、玉菊の寂しさを人形が宿していたのだろうか。

 話は変わって、坪内逍遥を長とする文芸協会の解散後、これを母体として生まれた芸術座、舞台協会、無名 会の3劇団のうち、芸術座を主宰していた島村抱月が大正7年11月に急逝し、その後を追って、翌8年1月、有 楽座で「カルメン」を上演中であった松井須磨子が芸術倶楽部の大道具部屋で縊死による自殺を遂げた。享年 34歳。演芸画報の追悼記事に小山内薫が次のような詩的な一文を寄せている。

 「須磨子は抱月氏がその醸した酒を注ぎ込む酒瓶でした。その酒は既に枯れたのです。骨董品として珍蔵さ れる事の外、その酒瓶にもう存在の理由のない事は明かな事です。抱月氏が桜の木の根なら、須磨子はその 根から生ひ立った桜の幹であり、枝であり花であったのです。その根は既に枯れたのです。桜の花や枝や幹が どうして自分だけで生を続けることが出来るでせう。 役者としての須磨子と舞台監督としての抱月氏との関係は、実にこれ程理想的に密接であったのです。」

 須磨子の死とともに芸術座は解散した。

 新劇運動において上記3劇団よりさらに大きな推進力であった小山内薫左團次自由劇場は、この年9月 、長い眠りから目覚めて久しぶりに第九回公演の幕を開けたが、これが自由劇場の最後の公演となる。自由劇 場の解消はすなわち第1期新劇運動の終止符であった。

 第9回公演に臨んで、小山内薫は新たな決意を述べつつ、日本人の手による新しい創作脚本を熱望し、翻訳 物に頼らざるを得ない状況を嘆いている。一方、左團次のみならず松蔦、左升、壽美蔵、荒次郎、宗之助など、 自由劇場に参加した役者は異口同音に翻訳劇の台詞の苦労を訴えている。西洋との間に現代の我々には想 像もつかないほど大きな隔たりがあった時代に、歌舞伎の水で育った役者が毎月の舞台の合間に見よう見ま ねで外国人の扮装をし、仕草を工夫し、慣れない言葉で綴られた膨大な台詞を必死で覚える。片仮名の名前だ けでもわずらわしいのに、調子も違えばイントネーションもままならない。姿勢や足取りひとつとっても洋服と和 服では動きが全く違うため、女形は長年の修行でようやく身につけた撫で肩や内股の歩き方を意識して変えな ければならない。歌舞伎にはないこれらの苦労は筆舌に尽くし難く、誰もが少なからず神経衰弱に陥るほどであ ったという。

 遡ってこの年5月17日、三代目中村歌六が逝った。吉右衛門時蔵、米吉(勘三郎)兄弟の父である。享年71 歳。かつては五代目菊五郎と威勢を争い、持っていた珊瑚珠を菊五郎に偽物と言われた悔しさに、その場で金 槌で打ち砕き「どうだ、中まで赤いぞ」と見せ付けたというが、 この逸話が伝える通りの勝気な性格から、歌六は周囲と衝突しては座を転々とし、ついに永住の小屋を得なか った。晩年は市村座吉右衛門の後見的役割を果たし、その老巧な芸が観客を喜ばせたという。

 唐突ながら「大根役者」という言葉は、大根は生で食べても食あたりしないところから 「芝居があたらない役者」をいったものだそうだ。歌六信州善光寺前の芝居に出た初日、見物からしきりに「 大根、大根」と声が掛かり、楽屋で一同しょげ返っているところへ太夫元が挨拶に来て、大入り間違いなしとホ クホク顔。合点がゆかずに訊ねてみれば、当時の信州は大根が不作なために非常に大事がる土地柄で、うま い役者には「得難いもの、尊いもの」という意味で「大根」と声を掛ける由。聞いてビックリ、所変われば何とやら 。一同さぞ安心したに違いないが、「大根」の掛け声が乱れ飛ぶ中、御満悦で見得を切る歌六の姿を想像する と何ともおかしい。

 5月29日には浅草観音の境内で團十郎「暫」の銅像除幕式が盛大に行われた。参会者の数3千余。明治38 年9月の追善興行以来その純益で記念物を作ろうという話はあったものの、 三升文庫の製作、写真帳の出版など様々な案が出て棚上げされていたところ15年目にしてようやく銅像建立に 決まったものである。袴羽織の立像では平凡すぎるし、弁慶や助六は商家の広告に用いられていて紛らわしい というので、「暫」の元禄見得の形となった。この銅像は戦争中に行方知れずとなっていたが、当代團十郎の襲 名を機に昭和61年に復活され、現在も浅草観音堂の左手奥に威風堂々と立っている。

 大正7年春から世界的に流行したスペイン風邪は、15万余の死者を出した。翌8年には流行性脳膜炎が1400 人近い人命を奪い、その中に市村座の立女形、三代目尾上菊次郎がいた。同座ではほんの2週間前に若女形 河原崎國太郎が病没したばかり。2人とも余りに若すぎる最期であった。

 菊次郎の享年は記録上は38歳とされているが、本当は2つ上の40歳。本人と両親以外には妻さえ実年齢を 知らなかったという。亭主役の菊五郎吉右衛門が自分より年下なので、少しでも若い女房でいたいという心が つかせたいじらしい嘘。立女形の地位を得たのちも、菊五郎女形をするときには必ず衣裳つけを手伝い、身 の回りの細々としたことにも気を遣った。平素から女房役に徹しようとする女形であった。

 三津五郎が言う。

「あの人の舞台には、溢れるような人情がありました。私はいつもその人情に打たれて、惚れ惚れとするのが 例でした。役者には、殊に女形には、惚れまいと思っていても、自然に情が移ってきて惚れ切れる人と、幾ら惚 れようと思ってもどうしても惚れられない人とがあります。岡田君(菊次郎)は前の方で、きっと惚れさせなけれ ホ承知しない方でした。また私はいつも惚れられずには居れませんでした。」

 吉右衛門もまた「こうひしひしと、喰い入るように迫ってくる情愛と云ったらありませんでした。つまり芸の力で す。それが恐ろしい位に舞台を流れていました。」と語っている。

 翌9年3月19日には、初代中村又五郎が36歳の若さで没した。子供芝居では吉右衛門と人気を二分し、成人 してのちも羽左衛門金閣寺の久吉をすれば雪姫を勤め、團十郎への書き下ろしである「鏡獅子」を初めて許 されて演じたほどに将来を嘱望されていたのだが、紆余曲折を経て浅草の公演劇場に移ってからわずか3年後 の死であった。最後の1年だけで12もの新作を手掛けた開拓精神と、恐ろしいまでの気迫のこもった舞台で観 客を魅了する一方、平素は温厚で柔和な人柄であったという。全く危なげのない舞台、達者な技芸、熱心さ、控 えめで、本来なら受け入れがたい役を振られても事情を話せば快く引き受けてくれる気の良さ…。追悼に寄せら れたこれらの言葉はそのまま、わずか5歳で父に別れた当代又五郎丈に当てはまるような気がする。

 将来ある若き俳優の死が相次ぐ中、大正8年10月の帝劇で松本幸四郎の三男、豊が6歳で初舞台を踏んだ 。「出世景清」の力若を勤めた松本豊、のちの尾上松緑であるが、松緑のみならず、その息子である初代辰之 助さえも既に亡いのは寂しい限りである。

 大正も中期にさしかかると、いわゆる「舶来品」の勢いがめざましく、7年1月のパイロット万年筆発売に続き、 10月には森永ミルクチョコレート、9年にはメンソレータムと、現在もおなじみの製品が続々と登場してくる。

 大正8年の発売後まもなく演芸画報に掲載されたカルピスの広告には、コピーライターというべきか、与謝野 晶子が2首の歌を寄せている。

   カルピスは幸しき力を人に置く 新しき世の健康のため

   カルピスを友は作りぬ 蓬莱の薬といふもこれに如かじな

大正10年~12年

 大正11年1月、歌舞伎座は、歌右衛門羽左衛門をはじめとする座付に左團次を加えて大々的大入を記録し 、市村座では当代中村又五郎丈が「茲江戸小腕達引(腕の喜三郎)」で吉右衛門演じる喜三郎の倅喜之松とし て初舞台を踏んだ。5月には四代目尾上丑之助(七代目尾上梅幸)が同じく市村座で「嫩草足柄育」の金太郎 として、10月には三代目坂東亀三郎(十七代目羽左衛門)が帝劇で「名月八幡祭」の鶴吉として、また翌11年 10月には三代目中村児太郎(六代目中村歌右衛門)が新富座真田三代記」の内記で初舞台を飾り、平成歌 舞伎の大幹部が大正の劇壇に勢揃いする。

 一方、大正10年6月には、関西劇壇の長老として恬淡とした芸で鴈治郎の舞台を支えてきた二代目中村梅玉 が逝った。芸暦70年余、81歳の大往生であった。

 11年2月には、当代猿之助丈の曽祖父にあたる二代目市川段四郎(初世猿之助)が67歳で没した。立師坂 東三太郎の伜として生まれ、坂東羽太作の名で子供芝居の初舞台。長じて山崎猿之助を名乗り、のち九代目 團十郎の門人となり、明治5年に市川猿之助と改名するが、翌6年、師匠に無断で「勧進帳」の弁慶を演じたた めに破門され、松尾猿之助と称して各地の小芝居を転々とした。大劇場への復帰を許されたのは実に17年後 の23年10月。歌舞伎座で團菊左が顔を揃えた舞台であった。当時は大劇場と小劇場の格式差が歴然としてい て、一度でも小芝居に出た者が大劇場に復帰する場合には、たとえ名題格の者でも一興行は名題下として使う という決まりがあったので、猿之助もトンボをきる役から再出発をした。翌24年の春、窃盗犯に喉を傷つけられ、 以来、声の調子を損じたという。明治43年10月、猿之助の名を長男團子(猿翁)に譲り、自分は二代目段四郎 と改めた。舞踊の名手で、滋味にあふれた芸風であったという。

 大正10年3月、吉右衛門市村座脱退は大きな波紋をよんだ。菊・吉の育ての親とも言うべき田村成義の死 からわずか4ヶ月後の脱退劇に、忘恩の徒と激しく非難され、菊五郎との不和も取り沙汰される中、吉右衛門 はただ「病気療養のため」とのみ称して口を閉ざした。しかし、周囲の予想通り、吉右衛門はまもなく松竹傘下 に入り、6月に新富座で旗揚げをした。菊五郎中心の市村座のやり方に不満を抱いていたのは吉右衛門だけ でなく、三津五郎も11月に辞表を提出し、紛糾の末、翌11年6月に吉右衛門の後を追った。菊・吉の丁々発止 の競演も、名コンビと評された菊・三津の踊りも失い、市村座は以後、菊五郎の弧城となる。

 一方、歌舞伎座は、大正10年10月30日、11月興行の総浚いという日の朝まだき、電気室の天井から漏電発 火し、折からの西北風に煽られ、わずか40分で全焼してしまった。突然の大損害に市村座が助け船を出した。 幸い11月は菊五郎が狩猟に行くため休座の予定だったので、小屋を提供したのである。この好意を受けて、歌 舞伎座はそっくり市村座に引越して幕を開けた。 その後は新富座を本拠としていた吉右衛門の快諾を得て、歌舞伎座が再建するまで新富座を一座の根城とし て確保することができた。歌舞伎座は11年6月に起工し、翌12年5月に上棟式をあげ、8月20日過ぎに大量の 桧材を場内に運び入れた。そして、運命の9月1日午前11時58分44秒、マグニチュード7.9の大激震が関東地 方を襲う。

 関東大震災は9万余の人命を奪った。行方不明者4万余、罹災者は348万人にのぼり、46万5千戸の家屋が 全壊焼失した。お昼時で火を使っている家庭が多かったため、地震直後に150余ヶ所で火災が発生し、水道管 が破裂して消防は進まず、強風に勢いを増した火の手は3日間燃えさかり、関東一円をなめ尽くした。猛火を避 けようとした市民の大群は隅田川に押し寄せ、川面を黒い死体が埋めた。物的損害は当時の額で65億円超。 翌2日には東京と神奈川に戒厳令が敷かれ、心ない流言飛語から6千人もの韓国人が虐殺される悲劇も起き た。一説には、この流言は戒厳令を敷くために政府が流したものだという。

 最初の大激震の直後に上がった火の手はまず帝劇を呑み込み、新富座、有楽座、明治座も次々に焼失。歌 舞伎座は、夜に銀座方面から迫ってきた火が場内の桧材に移り、鉄骨の梁が飴のように曲がって屋根が落ち た。外部には損傷がなく、桧材さえ運び入れていなければ或いは被害を免れていたかもしれないが、すべては 後の祭り。市村座、本郷座、公演劇場、宮戸座、御国座、寿座、中央劇場、開盛座、神田劇場等、警視庁管轄 下の劇場28ヶ所がことごとく焼失し、わずかに麻布の南座と末広座を残して、東京の劇場はほとんど全滅して しまった。

 これほどの災害でありながら、歌舞伎関係者に犠牲者がなかったのは不幸中の幸いであった。 松竹はまず、震災に耐えて残った麻布南座に手をつけた。数年来、活動写真館として使用されていたのを全面 的に改修し、震災後の東京で初めての大歌舞伎を南座で開けた。市川中車を上置に板東秀調、片岡亀蔵らの 若手を揃えた座組で10月31日に「熊谷陣屋」「壺坂霊験記」「黒手組助六」を並べて初日を開けたところ、満員 の大入。牛込会館では震災直後の10月17日から5日間、新派の若手連による「震災慰安劇」が連日満員を記 録し、帝国ホテルの演芸場でも11月初旬に三津五郎福助らが2日間「操三番」「二人猩々」「鏡獅子」を踊り、 娯楽を渇望する市民を喜ばせた。また、12月中旬には松坂屋演芸場で3日間、菊五郎・彦三郎らが「素襖落」「 草摺引」を演じた。いずれも満員大入の大成功であったが、大道具、小道具、衣裳や鬘の一切が焼失した直後 の興行だけに、出し物が替わる度にほとんど全てを新調しなければならない。その苦労は並大抵ではなかった 。また、この震災のために焼失した無数の劇書や錦絵、舞台写真などの歴史的価値は計り知れない。

 東京の劇場が改築を急ぐ中、松竹は傘下の役者を西に送った。名古屋には澤村訥子、京都には吉右衛門三津五郎の一座、道頓堀の中座には歌右衛門、浪花座には秀調、角座には花柳一門、神戸には中車と猿之 助、九州には片岡仁左衛門という具合で、関東大震災の余波で関西劇壇が湧いた。

 震災による俳優の西下は、十一代目仁左衛門と初代中村鴈治郎の27年ぶりの和解という思いがけない産物 を生んだ。明治29年11月の浪花座、当時我當仁左衛門の師直、鴈治郎の判官による忠臣蔵の三段目「鮒侍 」の件で、我當が入れ台詞で鴈治郎を罵ったことからそれまでの対立が決定的となり、以後、両優は一度も同 座したことがなかったのである。和解の舞台はこの年11月、中座の「沼津」。仁左衛門の平作、鴈治郎の十兵 衛に四代目高砂屋福助(のち三代目梅玉)のお米という配役で、当時千代之助の十三代目仁左衛門も池添孫 八で出演した。両優の共演が人気を呼び、凄まじいばかりの大入だったという。

 震災後3ヶ月で復刊した演劇雑誌は、震災当時の役者の様子を様々に伝えている。

 菊五郎は、市村座で稽古中に大激震にあい、梁の下敷きになったが幸い怪我もなく、日頃から用意の火事装 束で大活躍の末、余震が一段落した後も軍服に着替えて自警の任にあたった。左團次は、駿河台の家を焼け 出されて中野の野方に移転したと報道されるやいなや、見舞いの品が山をなしたが、先代が愛した仏像も、自 分が集めた錦絵や古書もみな焼失してしまった。尾上松助は身一つで焼け出され、神社の境内に仮住居。老 いの身に降りかかった難儀を嘆いているところへ尾上幸蔵が見舞いを持参で訪ねると、人の情けが嬉しいと言 って声を上げて泣いたという。幸運だったのは歌右衛門福助父子で、地震の際は揃って伊香保に避暑中。し かも豪邸は焼け残った。向島の別荘で病後の静養中であった訥子は、家人が何と言っても逃げようとせず、床 の上で一心に祈り続け、火の手が迫り川岸の火の粉が飛んで来てもなお動こうとしなかった。訥子の祈りが通 じたか、焼け残った門前に等身大の石地蔵が、あたかも身代わりになったかのように真二つに割れていたそう だ。変わり種は市川三升。築地の自宅焼跡にバラックを建て「成田屋食堂」を開業した。一目でそれと分かる三 升染の暖簾が目を引く上、九代目の忘れ形見、翠扇・旭梅の2人の娘もたすき掛けで立ち働き、大いに繁盛し たという。

大正13年~15年(昭和元年)

 大正12年9月1日の大震災で焦土と化した東京では、各劇場が復興を急ぎ、震災に耐えて直後の10月から 興行していた麻布南座に加えて、末広座も麻布明治座と改め、翌13年1月から左團次一座の『鳥辺山心中』等 で開場した。2月の明治座歌右衛門が当たり狂言の『沓手鳥弧状落月』を出し、にわかに芝居の中心地とな った麻布は大いに賑わった。

 四谷の大国座でも、1月に友右衛門を座頭とする一同が古式にのっとり初開場の口上を述べ、吉例の『式三 番』で幕を開けた。3月には、本郷座で左團次一座が『志賀山三番』に続いて『修禅寺物語』『大菩薩峠』等で新 築開場の幕を開け、赤坂の演伎座は澤田正二郎新国劇で開場し、浅草の観音劇場は勘弥一座に帝劇の女 優陣を加えて初開場を飾った。4月には、御国座改め浅草松竹座が歌右衛門吉右衛門三津五郎を迎えて華 々しく開場し、『一谷嫩軍記』『吉野山』『実録先代萩』等の演目を並べた。5月には、常盤座が新派の河合武雄 一座で新築落成を飾り、旧開盛座は千歳座として三升、新之助らの成田屋一門が『義経千本桜』等を上演した 。由緒ある新富座は、5月6日に三津五郎時蔵の舞踊『子寶』で開場式を祝ったが、映画館として再スタートを 切り、昭和14四年の廃座までついに芝居は掛からなかった。

 同じく5月に再築なった市村座は、2階席も廻り舞台もないバラック建築で、雨が降ればトタン屋根がザーザー と音を立て、防音装置がないため隣の印刷会社から毎日決まった時間にサイレンが鳴って舞台が中断されるよ うな状態であったが、市村座の櫓を死守することを観客に誓った菊五郎の熱演は好評を博した。

 6月に入ると、震災直後の乾きをいやした麻布の両座はその役目を終えたかのように、南座は映画館に転向 し、明治座も末広座に復名改築され、やがて映画館となる運命にあった。

 震災の思わぬ産物というべきか、演出と俳優養成の研究を志して10年滞在の予定で渡欧していた土方与志 が震災の報を受けて急遽帰国し、震災で全財産を失ったつもりになって残り8年分の滞在費をあて、小山内薫 と組んで建設したのが築地小劇場である。土方が家族伯爵の御曹司であったことからお坊ちゃん連中の道楽 仕事と見る向きもあり、翻訳物の上演には批判もあったが、6月13日の開場から15年3月の第44回公演まで翻 訳物で押し通し、演劇史上特筆すべき成果をあげた。

 7月には新派の河合武雄一座による寿座の開場に続き、人形町で市蔵、猿之助らが『操三番』で日本劇場の 幕を開けた。邦楽座は吉右衛門三津五郎福助時蔵らで『金閣寺』『夏祭浪花鑑』『勢獅子』を出し、福助初 役の雪姫が大好評を博した。

 10月5日に開場式を迎えた帝国劇場は、震災以来帝劇に礼を尽くして東京の劇場には一切立とうとしたなか った幸四郎のほか、中国から梅蘭芳一座を迎え、華やかに初興行の幕を開けた。

 歌舞伎座は12月15日にようやく竣工し、1月4日、計5千人の来賓を招待して盛大な開場式を行った。吉例の 『式三番』に続き、歌右衛門仁左衛門左團次羽左衛門らの大一座による初興行は、歌右衛門徳川家康 に扮する『家康入国』で始まり、『連獅子』では羽左衛門の倅竹松改め七代目市村家橘(十六代目羽左衛門)の 襲名が披露された。同じ月、帝劇では七代目幸四郎次男純蔵(白鸚)が『奴凧廓春風』の太鼓持ち順孝役で初 舞台を踏んでいる。

 4月には新橋演舞場花柳界の練習場として新築開場し、「あずま踊」で幕を開けた。翌15五年1月に再築 開場のときと同じ澤田の新国劇上演中に失火焼失した演伎座を除き、震災後1年半にして東京劇壇の新しい 時代の舞台がそろったことになる。

 一方、震災では幸いにして犠牲者を見なかった歌舞伎界であったが、大正13年4月7日、大国座の『壺坂霊 験記』に出演していた澤村宗之助がお里の扮装のまま舞台で倒れた。39歳の急逝であった。英語劇もこなす 器用な優で、帝劇女優劇の補導役としては世話好きな面を発揮し、芸に対する厳しいまでの熱心さには定評が あった。10月の帝劇新築開場に際し、長男恵之助が二代目宗之助を襲名し、次男雄之助とともに出勤したが、 長子の小伝次に続いて宗之助にも先立たれた父七代目澤村訥子の失意は深く、宗之助の三回忌を待たず、 15年3月26日に67歳で没した。麻酔なしで盲腸の手術をし、全快直後に本物の鉄棒を使って大立廻りをするな ど、猛優の名にふさわしい逸話を多く残した小芝居の大物であった。翌4月の帝劇で、訥子にとっては甥にあた る七代目宗十郎三男源平が四代目訥升を襲名している。のちの八代目宗十郎。九代目宗十郎・二代目藤十郎 兄弟の父君である。

 大正15年1月には、四代目坂東玉三郎(のちの十四世守田勘弥。現玉三郎の養父)が帝劇序幕の『鞍馬山』 牛若丸の役で三世坂東志うかを襲名している。

 大正15年5月の市村座は、菊五郎の次男右近(九朗右衛門)が『助六曲輪菊』の福山の役で初舞台を踏み、 梅幸松助を加えた音羽屋一門総出の興行となったが、6日の夜、梅幸のもとに、呼吸器疾患で療養中の長男 栄三郎の容態が急変したという知らせが届いた。夜11時近くに芝居を打ち上げ、次男泰次郎をつれて金沢の別 荘に駆けつけると、栄三郎は前年4月に生まれたばかりの息子のことをくれぐれも頼むと言い残し、翌朝早く逝 ってしまった。わずか27歳の夭折。涙が渇く間もなく東京に引き返し、舞台に立った梅幸の胸中はいかばかりで あったか。何を演じても形が良く、台詞の歯切れの良いことは無類で、生世話物でタンカの切れるイキな女形と して、いずれは菊五郎の女房役になることを期待されていた栄三郎のあまりにも早すぎる死であった。

 大正13年11月、吉右衛門が大阪の中座で亡父歌六の七回忌追善興行を開くにあたり、30年来絶えていた船 乗込みが催された。当時の大阪は不景気続きで芝居の成績も思わしくなく、吉右衛門の久々の興行が不入り では気の毒だから、との配慮による企画であったが、これが大変な大当たり。大伝馬船七艘立てで、本船には「 中村吉右衛門一座」と勘亭流で大書した行灯を飾り、緋毛氈の上に時蔵・米吉兄弟も行儀良く並び、紋付袴姿 で挨拶をする。中之島を発して堂島川、木津川、長堀川、東横堀、道頓堀と回り、えびや橋から上陸するまで、 行く先々の熱狂的な歓待に、見守る吉右衛門の母親と妻女はもちろん、下船した一行を迎えた支持者ともども 、吉右衛門は感涙にむせんだ。歌舞伎座でも昔は船乗込みがあったというが、近代化とともに永遠に失われて しまった情緒豊かな風景に、深い憧憬を覚える。

 この時期、警視庁の取締は厳しさを増し、大正13年5月、本郷座で『摂州合邦辻』が上演されると、嘘を趣向 の根本にした不倫の恋は風俗を乱すものであるから今後一切上演不可との通告がなされた。岡鬼太郎は演芸 画報の連載「漸太平記」の中で、このような当局の態度を「時代錯誤」と評し、「素ッ裸に風呂敷を着たやうなる 洋装婦人」の服装をこそ取り締まるべきだと皮肉っている。15年1月の明治座左團次が『鳴神』を復活した際 も、鳴神上人が雲絶間姫の色香に迷う場面が風紀に触れるとの干渉を受け、ようやく上演許可が出るまで再三 にわたり台詞の訂正を余儀なくされた。当局のお達しとあればやむなしとはいえ、例えば新派が侠客物と警官 の美談を並べて出したときには、侠客物は血も刺青も御法度としながら、警官に襲いかかる凶漢には毒々しい 刺青も滝のごとき流血も厭わず、盛んにやれとの勝手な言い分。殉職警官の家庭のわびしさを見せて観客の 同情を引けとの指図までついた。そうかと思えば、邦楽座の『嬰児殺し』に対しては、巡査の食膳が貧しいと惨 めに見えるから、もっと裕福な食事をとらせろと横やりが入る。戦時中の全面的禁止ほどではないにしても、こ れが当時の現実であった。もっとも、今でも芸術と猥褻の境界線をめぐる当局の干渉はなくなってはいないが… 。

 大正13年1月26日、裕仁親王久邇宮良子様御成婚。14年5月には大正天皇が銀婚式を迎え、演芸画報が「 私が結婚した当時の憶ひ出」と題する奉祝の特集記事を組んでいる。その中で歌右衛門いわく、大正天皇の御 成婚日に生まれた長男に、慶事を祝してつけた名前が「慶次」。銀婚式当日はすなわち「慶ちゃん福助」25歳の 誕生日であった。

 梅幸羽左衛門とは、二人とも明治三六年暮に結婚式を挙げたことから、15年目の大正6年に、二人一緒の 意を洒落て「同婚式」をすることにした。ところが、招待状の注文を受けた活版屋が「銅婚式」の間違いだろうと 気を利かせ、勝手に直して印刷してしまった。「それじゃあ面白くないじゃないか」と梅幸。結局直させ、帝国ホ テルでめでたく披露とあいなった。

 銀婚式からわずか1年半の大正15年12月25日に大正天皇崩御。昭和歌舞伎の幕が上がる。

昭和2年~4年

 昭和元年がわずか1週間で明けたのち、2年1月の市村座で現雀右衛門丈が大谷広太郎を名のり、6歳の初舞台を飾った。『菅原伝授手習鑑』を子役用に書き直した『幼字劇書初(おさなもじかぶきのかきぞめ)』で八重丸(桜丸)の役。「車引」の場では故梅幸丈の千代童(松王丸)、九朗右衛門丈の春王(梅王丸)とともにセリ上がる大がかりな舞台であった。四郎太夫(白太夫)には菊五郎、菅丞相だけはそのままの役名で、父友右衛門が演じた。雀右衛門丈は、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」の中で当時を回想し、芝居の途中で緊張の余りおしっこをしてしまい、厚手の繻子地のくくり袴をはいていたため、外へ漏れずに足首のところでタボタボする気持ち悪さをがまんしながら最後まで務めた、と微笑ましいエピソードを披露している。

 華やかな襲名興行ではあったが、市村座の経営不振は深刻で、俳優への給金の不渡りから1日初日の予定を延期せざるを得ず、菊五郎が興行主に代わって俳優を説得して回り、ようやく開幕にこぎつけた。3月の金融恐慌を皮切りに不況の嵐が吹き荒れる中、市村座に回復の術はなく、翌3年1月、松竹に合併され、菊五郎一門もとうとう松竹の軍門に下った。

 2年11月の本郷座『高野物狂』では当時10歳の中村児太郎こと現歌右衛門丈扮する花若丸の可憐な姿が大評判を呼んだ。ある日、贔屓連が花若丸をめがけて菊の花を大量に投げ入れ、その小さな身体が埋もれるほどであったという。

 この月、中座で『本蔵下屋敷』に出演していた三代目中村雀右衛門が三千歳の扮装のまま脳溢血で人事不省に陥り、11月15日に急逝した。血圧を上げた原因は鉛毒といわれる。嵐璃笑の子で先代雀右衛門の養子となり、立役から女形に転向し、大正6年10月浪花座で養父の名を襲った。健康状態がすぐれず不満足な舞台が続いていたところ、ようやく体調が回復し、久しぶりで気力が充実した三千歳の好成績に喜んでいた矢先の死。常々「舞台で絶命するのが夢」と語っていた同優の最後の花道であった。

 明けて3年2月の歌舞伎座は、2つの芝居が見物の興味を引いた。1つは岡本綺堂の新作『雷火』。大阪城天守閣が雷火に焼かれた折、番士中川図書が炎の中から持ち出した家康の馬標を我が身を犠牲にして守り抜いた史実を劇化したもので、大詰天守閣火事の場は2分ほどの短い幕であったが、本物の火焔が評判を集めた。花火師に命じて危険率の少ない仕掛物を選び、鉄板の大天上を張って万全の準備を整えていたのだが、ある日、中川図書に扮した左團次の袴の裾に火がついた。驚いて天守閣から飛び降りた左團次の身体に大道具の棟梁が馬乗りになって火をもみ消したおかげで、火傷をすることもなく無事に済んだものの、その後は火勢を弱めざるを得ず、せっかくの火事場の評判も本物の火事騒ぎで立ち消えになってしまった。

 もう1つは小山内薫作『円タクの悲哀』で、当時1円の均一料金で市内を走り「円タク」として親しまれていたタクシーの運転手に羽左衛門が扮し、新聞の三面記事を喜劇風に仕立てた一幕。舞台の上でタクシーを走らせる趣向であったが、自動車が大好きな羽左衛門も自分では運転したことがない。にわか稽古ではどうにもならず、あれこれ試行錯誤の末、本物の運転手が黒衣姿で隠れて下からハンドルを操作する工夫をしたが、いかにも危なげな様子に羽左衛門夫人から待ったが入り、やむなく運転は中止となった。散切り物が数多く上演された時代ならではの話。

 今日では海外旅行などめずらしくもなくなってしまったが、当時は役者が洋行するとなれば一大事件。中でも3年3月の羽左衛門夫婦の欧州漫遊の旅は出発前から大がかりであった。歌舞伎座がわざわざ送別記念興行を打ち、大切を『春霞旅行橘』と題し、羽左衛門羽左衛門に扮して観客全員を送別気分に抱き込む珍しい趣向。送別会の場は、さんざん騒いだ上に羽左衛門を胴上げして幕を閉め、続く横浜出帆の場では、前もって観客に渡しておいた小旗を見送りよろしく振らせるという念の入れようで、千秋楽では羽左衛門が伜家橘を残して行くので何分頼むと口上を述べた後、余興の手品まで飛び出した。本興行の一幕としての上演であったから、さすがにやりすぎという声があがる一方、船上の羽左衛門のネクタイピンがよく光るという評判さえ立ったというあたりが、愛嬌たっぷりな舞台で愛された羽左衛門ならばこそ。

 このお祭り騒ぎとは対照的に、同年7月、ソビエト政府に招聘されてロシアで初の歌舞伎公演を実現し、11月に帰国した左團次を待っていたのは、海外に歌舞伎を紹介する芸術使節の役割を果たした功績を認めるどころか、左團次のロシア公演は共産主義の宣伝に利用されたのだと言い立てる暴徒の攻撃であった。当局が思想への介入を強め、三月には共産党員が大量に検挙されたばかりで、共産主義反対を叫んで左團次の自宅や松竹本社にねじ込んでくる者もある。それが高じて、12月1日の歌舞伎座は、3階から「日本国民諸君よ」と題して左團次を攻撃するビラを撒布する青年があるかと思えば、1階席では反共産主義者が仕掛けた縞蛇が這い廻り、場内総立ちの大混乱となった。50匹もの縞蛇が風呂敷に包まれて置き去りにされた中から3匹だけが這い出したのだというが、もし50匹すべてが動き廻っていたら…と、想像するだけで身の毛がよだつ。

 その騒ぎも収まらないうちに、12月25日、左團次自由劇場をともにした小山内薫が49歳の若さで他界した。父と同じ医学の道を志していたが、雑俳の師匠宅で左團次と知り合い、帝大入学後、劇界に転じ、多くの作品と功績を残した。晩年の拠点であった築地小劇場には、4年1月元旦付で「観客諸君に懇願す。日本唯一の新劇常設館である築地小劇場を支持して下さい」との絶筆が残されていた。その切なる願いにもかかわらず、小山内の没後、大黒柱を失った築地小劇場は分裂し、幾度かの再編を経たものの、小山内の理想を再現するには至らないまま、戦災でついに姿を消してしまう。

 冬から夏に遡り、2年8月の歌舞伎座は『東海道中膝栗毛』を出し、初日に先駆け、国民新聞では漫画の募集をし、座方は各新聞に弥次喜多の宿泊地を当てる懸賞を出すという大がかりなキャンペーンを展開したところ、応募ハガキが12万通に達する大当たり。友右衛門と猿之助弥次喜多は人気を呼び、二人の道中はこれ以後、夏の定番となる。

 9月5日には、大阪出身でありながら江戸世話物の名人と言われた長老、尾上松助が泉下の客の人となった。享年86歳。父が高麗蔵(五代目幸四郎)の男衆だった縁で高麗屋に入門し、松本小勘子を名乗り河原崎座で初舞台。のち権十郎門下から家橘(五代目菊五郎)門下に移り、橘五郎、梅五郎を経て明治十四年に松助を襲名した。その恬淡とした芸とにじみでる愛嬌で好劇家に愛された名脇役の死は、劇界にとって大きな痛手であった。

 明けて4年4月、歌舞伎座では片岡千代之助が四代目我當(十三代目仁左衛門)を襲名し、帝劇では松本金太郎改め九代目市川高麗蔵(十一代目團十郎)の披露が賑々しく行われた。不況にあえぐ世間とは別世界さながらに、両劇場の楽屋には祝儀の品々が山のように積み上げられ、目もくらむばかりに絢爛豪華であったという。松島屋の口上は、父仁左衛門の大時代な口調から一転して、我當が世話にくだけた調子で笑いを誘う。一方、高麗屋は生真面目な性格そのままに簡潔明瞭な口上で、高麗蔵本人は終始無言のまま、時折おじぎをするのみ。対照的でありながら、いずれも父親の喜びが率直に伝わってくる口上に、両劇場はめでたく満場御礼続きとなった。続いて10月の明治座では、中村勘三郎が米吉から四代目もしほを襲名している。

 12月の歌舞伎座は、師走恒例の忠臣蔵物『赤穂義士快挙録』を出した。屋上の雪の場で、従来の雪布ではどうも実感が出ないというので、あれこれ試した末、猿之助の発案で屋根一面に塩を敷き詰めることになった。その厚さ3寸5分。1回の舞台に20俵近い塩を使った。「豪儀な舞台だね」と揶揄する声に答えて曰く、「赤穂は塩の産地ですから」。

 この当時、市村座のみならず帝国劇場も営業成績が悪く、負債額が70万円を超過し、自立回復を断念せざる得ない状況に追い込まれていた。そこで、松竹が保証金と月々の小屋料を払って10年間、帝劇の経営を引き継ぐことになり、松竹は遂に東京の7大劇場を独占し、すべての歌舞伎俳優を傘下に掌握するに至った。松竹歌舞伎王国の完成であった。

 歌舞伎界の外の動向を見ると、女優岡田嘉子の恋の逃避行と長谷川一夫の映画デビュー(2年3月)、嵐寛寿郎鞍馬天狗シリーズ」第1作封切(4月)、リンドバーグ大西洋無着陸横断飛行成功(5月)、初の地下鉄(上野・浅草間)開通(12月)、大相撲ラジオ実況放送開始(3年1月)、初の普通選挙(2月)などが目につく。一方、3年6月の張作霖爆死事件に続き、4年10月にはニューヨーク株式市場の大暴落を機に世界恐慌が猛威を奮い始める。昭和は動乱期を迎えつつあった。