今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和26年~28年

 戦火に焼け落ちて以来5年半余を経て、歌舞伎座はようやく、昭和26年1月3日に待望の新築開場式を挙行した。柿落しの演目は、三津五郎猿之助時蔵の『寿式三番叟』と豪華な顔ぶれの『華競歌舞伎誕生』。5日初日の初興行には吉右衛門の当たり役『二条城の清正』をはじめ『六歌仙』『二人三番』『籠釣瓶』などの華やかな演目を並べ、2月23日まで延続された。景気づけに積み上げた酒樽は4種各48樽、計192樽を数え、プログラムには、当初の3万部に限り、劇画院の名手の競筆による歌舞伎双六のおまけつき。初日から「満員御礼」の垂れ幕がはためき、その懐かしい風景はこの日を待ちかねたファンを大いに喜ばせた。歌舞伎を上演する劇場がほかにいくつあろうと、やはり歌舞伎座は特別なのだ。

 歌舞伎座の復興を喜ぶ松竹にとっての痛恨事は、この興行中に創立者のひとりである白井松次郎会長が病没したことである。享年73。双子の弟、大谷竹次郎社長とともに、歌舞伎はもとより文楽、映画、芸能諸分野の隆盛に尽くした一生であった。

 白井会長の死から1か月後、初代中村鴈治郎亡き後の関西歌舞伎を長老として支えてきた二代目實川延若が逝った。享年73。万能役者と呼ばれ、『仮名手本忠臣蔵』の師直、由良之助、勘平、平右衛門、与市兵衛、戸無瀬、定九郎の7役をひとりで勤めて大喝采を博したこともあり、「動く錦絵」と賞賛された『楼門五三桐』の石川五右衛門は映画として残されている。決して器用ではないが大きく明るい芸風に加えて、何より大阪の匂いを濃厚に体現するところに延若の魅力があった。白井会長と延若とを相次いで喪ったことが関西歌舞伎の衰退の引き金になったとも言われている。

 白井会長が生前、力を尽くしたのがこの年3月にまず大阪歌舞伎座で、秋には東京の歌舞伎座で披露された片岡我當改め十三代目片岡仁左衛門の襲名であった。いずれも大盛況で、父十一代目の人徳と評され、十三代目自身も折々そう語った。十三代目の数々の当たり役の中でも、特に晩年の『菅原伝授手習鑑』菅丞相はまさに神々しいばかりの至芸であったが、十三代目が90歳で長逝してから3年余を経た平成10年は、十三代目の三男孝夫改め十五代目片岡仁左衛門の襲名披露で幕を開け、しきりに「亡き父のおかげ」と語る新仁左衛門のさわやかな笑顔は、代々受け継がれていく伝統の重みとぬくもりを感じさせた。

 26年のもうひとつの慶事は、中村芝翫改め六代目中村歌右衛門の襲名である。先年から話はあったが、父である先代が永く歌舞伎座の座頭であったことから、どうしても歌舞伎座で披露をしたいという本人の強い希望もあり、新築開場を待って4月・5月の50日興行となった。吉右衛門は「襲名の芝居も今は花ざかり」という句を贈り、若き新歌右衛門のまばゆいばかりの口上姿を描いた表看板に自ら筆をとって記した。この貴重な表看板が盗まれては一大事、と歌舞伎座は警護を厳しくしたそうだ。久保田万太郎も「春風やまことに六世歌右衛門」という句を寄せた。この襲名の意義は次の言葉に尽くされている。「かつて、五代目歌右衛門が長年にわたって君臨した歌舞伎座であってみれば、当時の歌舞伎ファンの胸中には、いまわしい太平洋戦争を中にはさむという苦難の時代のあとだけに、歌舞伎座歌右衛門と共にもどってきた、平和と共にもどってきたのだ、というなつかしさやうれしさがこみあげてきたにちがいない。歌右衛門という名前は、人々に夢を与え、平和の象徴となったのである」(中村歌右衛門山川静夫著「歌右衛門の六十年」岩波新書)。

 その後も、市川寿海と養子縁組した市川莚蔵改め七代目市川雷蔵(6月大阪歌舞伎座)、市川茂々太郎改め五代目市川九蔵(9月歌舞伎座)、市川笑猿改め十代目岩井半四郎(10月歌舞伎座)、中村吉三改め中村萬之丞(27年1月歌舞伎座)、坂東簑三郎改め市川市十郎(同1月中座)、市川男女蔵改め三代目市川左團次(5月歌舞伎座)、中村梅枝改め六代目中村芝雀(のち四代目中村時蔵)・中村種太郎改め二代目中村歌昇(のち廃業し四代目中村歌六追贈)(28年4月歌舞伎座)、市川八百蔵改め八代目市川中車・市川高麗五郎改め九代目市川八百蔵・市川喜太郎改め市川春猿(6月歌舞伎座)、澤村訥升改め八代目澤村宗十郎澤村源平改め五代目澤村訥升(のち九代目澤村宗十郎)(9月歌舞伎座)と、嵐のように襲名が続く。

 若干のエピソードをあげれば、映画界に転じて時代劇スターとなった雷蔵は、市川九團次を父に持ち、襲名披露興行には女方としても出演しているが、「将来は、女方もしたくないといふわけではなく…」という本人の言葉からすると、女方は決して好きではなかったとみえる。

 半四郎の名は、八代目の歿後70年も絶えていたのを、八代目の未亡人の最期に居合わせた坂東鶴右衛門が何とかこの江戸時代から続く名家を再興しようと獅子奮迅し、笑猿を後継者に選んでようやく実現したもので、不遇のうちに病歿した八代目の孫、粂三郎に九代目を追贈し、笑猿は十代目を継いで現在に至っている。

 左團次名跡については、笑猿や訥升をはじめ数々の候補者が挙がり、その行方は混沌としていたが、二代目の13回忌を機に男女蔵に決した。男女蔵は永く六代目菊五郎の薫陶を受け、当時も菊五郎劇団の幹部であったから、菊五郎と二代目左團次とがついに同じ舞台に立たなかったために「菊五郎劇団から新左團次が出ようとは」と驚く声も少なくなかったが、男女蔵の父門之助は、初代・二代目と二代の左團次と同座し、初世の歿後まもなく二代目が新たに一座を旗揚げした折り、若くして後ろ盾をなくした孤独な新座頭を支えた数少い同志のひとりであったから、縁薄からざる襲名といえる。楽屋に出された次のような貼り紙に新左團次の茶目っ気が見える。

 「サイン練習中に付當分ノ間御辞退申上ゲマス」

 訥升の宗十郎襲名には、高助・田之助という2人の兄との間で若干の調整を要した。大谷松竹社長の立会いの下、手打式を経てようやく解決をみるが、この時点では、訥升の次に宗十郎を継ぐべき者の決定が社長に一任されている。「幕間」昭和28年9月号はこの襲名の特集を組み、戸部銀作が「宗十郎三代」と題する一文を寄せた。その中の、例えば「先代宗十郎は率直にいへば、『表現力』のない、『間』の拙い、『せりふ』の悪い、『形』のきまらない下手な役者だったが、欠点をさへ押し隠すだけの長所を、天は与へてゐた。容姿と色気である」というような反語的な物言いが気に障ったか、新宗十郎は翌月の「幕間」誌上で猛然と反撃する。「父のことをああも悪く書かれた上で、お祝ひの言葉など頂いてもちっとも嬉しいとは思ひません。(中略)私にはただ戸部さんが、御自身を売出したいばっかりに、あんなことをお書きになったのだとしか考へられません」と、襲名の挨拶文にはそぐわない激しさである。ことの是非はともかくとして、当時の演劇誌には、劇評に限らず、歯に衣着せぬ率直なやりとりが克明に記述されていて興味深い。

 27年にはラジオドラマの人気が沸騰し、美空ひばりが歌った「リンゴ園の少女」の挿入歌「リンゴ追分」の大ヒットに続き、菊田一夫原作の「君の名は」が一大ブームを巻き起こし、翌年、岸恵子佐田啓二の主演で映画化された。そして28年2月1日午後2時、満を持してNHK東京放送局が日本初のテレビ放送を開始する。事実上最初の番組となったのは、菊五郎劇団の『道行初音旅』であった。大卒サラリーマンの初任給が平均7~8千円だった当時、テレビ受像機は18万円前後もしたから庶民にとっては高嶺の花で、都内・近郊50余箇所に設置された街頭テレビが人々を釘付けにした。

 8月には日本テレビも開局し、初日の記念番組に歌右衛門は『鷺娘』を踊った。当時の技術では白い色のテレビ写りが悪いため、顔を緑青のような色に塗り、浅葱の着物に薄鼠の帯。歌右衛門は「かっぱになったような気持がして」踊りにくかったという。9月には、勘三郎歌右衛門の『稲妻草紙』で初の舞台中継が実現した。

 その2か月後、またもや未曽有の出来事に劇壇は大いに湧くこととなる。天皇皇后両陛下の歌舞伎座御観劇である。明治20年の天覧歌舞伎は井上伯爵邸で催されたもので、劇場での天覧はこのときが歴史上初めての栄誉であった。日本赤十字社が両陛下を御招待した慈善興行で、その趣旨を汲んで陛下も1枚千円の観劇券を自ら購入されたと知り、関係者は感銘を深めた。これに先立ち、2月に皇太子殿下(今上天皇)が歌舞伎座を訪れた際、「勿体ないことです。世の中が変わったので、皇太子さまの方ではお気楽な態度をおとりになるとしても、私たちがそれに甘えたりするのは、それこそ勿体ないことです…」と、言い終わらないうちに目をうるませたほど、皇室を敬ってやまない吉右衛門にしてみれば、両陛下に『盛綱陣屋』を披露した感激はいかばかりであったか。もうひとつの演目は歌右衛門の『京鹿子娘道成寺』。歌右衛門は36歳の若さで、父と二代にわたる天覧歌舞伎出演の光栄に浴した。戦時中は自国の軍事内閣により、また戦後は占領軍によって抑圧された苦しい時代が嘘のように、歌舞伎はこうして、ようやく再生・安定の時期に入っていく。

 若々しい新芽も次々に育ち始めていた。27年2月の尾上松緑長男左近(のち初世辰之助)の初舞台に続いて、翌年10月には現團十郎が本名の夏雄のまま父に抱かれて初舞台を飾る。ここに、すでに初舞台を終えていた現菊五郎とあわせて、初代の三之助が舞台に出揃ったことになる。そして、こののち約40年を経た平成10年1月には、それぞれの子息が弁慶・富樫・義経という大役を勤めて浅草の初春歌舞伎を盛り立てた。父の、あるいは祖父の面影を探しながら、新しい世代の成長を保護者のような心持ちで見守る楽しさも、歌舞伎の醍醐味のひとつに違いない。

 

昭和29年~31年

 昭和29年2月封切の美空ひばり主演時代劇「ひよどり草紙」で、中村(のち萬屋錦之助が銀幕デビューを飾った。この頃、大谷友右衛門(現中村雀右衛門)は舞台を離れて映画界にあり、中村扇雀(現鴈治郎)も年に数本の東宝映画に出演して扇雀ブームを巻き起こしていたが、東映の専属となった錦之助に続いて市川雷蔵大映入りし、2人は時代劇スターへの道を邁進していく。1年遅れて錦之助の弟賀津雄が、またその翌年には岩井半四郎猿之助劇団を飛び出して2人の後を追った。そればかりではない。歌舞伎界でもこれまでに『紅葉狩』『鏡獅子』『勧進帳』などの記録映画が撮影されていたが、この頃から歌舞伎俳優の商業映画への出演が激増する。演劇雑誌で紹介されている作品だけでも、年間10本余りの映画に菊五郎劇団、坂東簑助(八代目三津五郎)、三代目中村時蔵・二代目中村歌昇親子らが出演し、松本幸四郎白鸚)も毎年7月は映画を撮るのが恒例となっていた。このような風潮を議論したところで、映画隆盛の波にあらがいようはない。カラー映画が「総天然色作品」と呼ばれた時代。ヘップバーン・カットの流行を生んだ「ローマの休日」や、ジェームズ・ディーンの事故死直後に封切られた「エデンの東」などの洋画に加えて、東宝特撮映画「ゴジラ」も誕生する。すでにテレビ放送も始まっている。娯楽の多様化に伴い、歌舞伎のあり方を問い直す必要が生じていた。

 封建的と批判の的となっていた松竹の体制に最初の一石を投じたのは、3月末に2日間、歌舞伎座で開催された中村歌右衛門の研究会「莟会(つぼみかい)」の自主公演である。『鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)』で傾城の歌右衛門、赤っ面の尾上松緑、若殿の市川海老蔵(十一代目團十郎)の3人がセリ上がると、その錦絵のような美しさに場内は異様な興奮に包まれた。歌右衛門吉右衛門劇団、松緑菊五郎劇団、海老蔵菊五郎劇団の客分であったから、劇団制に固執していた当時の松竹の支配下では実現不可能な顔合わせ。もちろん観客は大いに喜び、賞賛の拍手を贈った。しかし、従来の様々な研究会と異なり、多くの作家や裏方の支持を得た規模の大きさや内容の濃さに危機感を抱いたものか、松竹は莟会を支援しようとはしなかった。

 さらに、8月興行終了直後、坂東鶴之助(現中村富十郎)の松竹脱退声明は関西歌舞伎界を揺るがす事件となった。役への不満が原因であるとか、ライバル扇雀への対抗心とか、様々な憶測をはらんで報道が過熱した。一時は和解して鶴之助の舞台復帰が予定されるものの、二代目鴈治郎が同座を拒否したために取り止めとなり、この鴈治郎の態度に憤慨した簑助が人権侵害を理由に訴えるまでの騒ぎに発展する。鴈治郎鴈治郎で、すべての原因が自分であるように言われるのは心外、と松竹に無期休演を申し入れた。鴈治郎は約半年後に南座に復帰して関係者を安堵させたものの、感情的な内紛が日々報道される状態で観客を魅了する舞台ができようはずはない。結束のもろさを露呈した関西歌舞伎の将来を危ぶむ声が高まったのも無理はなかった。

 そして痛恨の9月。東京では中村吉右衛門が、大阪では阪東寿三郎が帰らぬ人となった。吉右衛門は、菊五郎の死後めっきり衰えたとの評判もあったが、4月の『佐倉義民伝』で見せた木内宗吾は神がかりとまで言われ、7月の『熊谷陣屋』で演じた生涯の当たり役が最後の舞台となった。享年68。体調には人一倍気を遣い、病弱を看板にして始終あちこちの故障を訴える吉右衛門に周囲もすっかり慣れてしまい、いつものことと軽く考えられていただけに、まさに不意打ちのような急死であった。だが、実は十数年も前から吉右衛門は心臓を病んでいた。大きな声を出して心臓を圧迫するのは命取りとの診断がごく数人に伝えられたが、治療の方法がない以上、役者としてしか生きようがない吉右衛門に舞台を捨てよとの宣告はできない。結局、吉右衛門は最後まで自分の心臓疾患に気づかぬまま、この悪性の疾患によって命を奪われたのであった。9月の歌舞伎座は七代目松本幸四郎の7回忌追善興行。豪華な顔ぶれによる追善口上の後、幕外に弟の時蔵勘三郎と娘婿の幸四郎が居並び、吉右衛門を偲ぶ口上が千秋楽まで続いた。

 三代目阪東寿三郎は胃ガン死であった。東京で修行した時代には、風貌が似ていたことから「西の左團次」と呼ばれ、本人もこれを意識して二代目左團次の当たり役を手がけた。大阪に戻って関西歌舞伎の総帥となり、市川寿海と並べて「双寿時代」という言葉も生まれたが、寿海は東京から移って日が浅いだけに、「寿やん」の愛称で親しまれた寿三郎の死は地元ファンを嘆かせた。また、寿三郎を最後に、阪東姓の役者は姿を消したのである。

 東西の巨頭を喪い悲嘆にくれる劇界に追い打ちをかけるかのように、翌30年1月、歌舞伎界の長老、二代目河原崎権十郎が74年の生涯を閉じた。前名は市川権三郎。実母がのち河原崎権之助に嫁ぎ、前進座河原崎長十郎とは同腹の兄弟にあたる。この縁もあって市川宗家から、九代目市川團十郎が河原崎家の養子であった時代に用いた河原崎権十郎の名を許された。その息子が平成10年2月に不帰の客となった山崎屋である。父の死から1年余の30年3月に三代目河原崎権十郎を襲名した。若き日「浅草の羽左衛門」と呼ばれた父と「渋谷の海老さま」と呼ばれた息子。これらの愛称は文句なしの二枚目の証拠と言えよう。

 30年4月、大谷友右衛門が実に4年振りに歌舞伎座の舞台に返り咲き、6月には梅幸歌右衛門歌舞伎座新橋演舞場に分かれ『京鹿子娘道成寺』を競演して話題を呼んだ。そして7月、第2次東宝歌舞伎の第1回公演が華々しく開幕する。長く接収されていたアーニー・パイル劇場の正式返還を機に実現したもので、戦前の第1次東宝劇団が水泡に帰した苦い経験から、小林一三東宝社長は、歌舞伎は松竹に任せてミュージカルをめざし、長谷川一夫を中心とする新しい歌舞伎を上演するとの方針を示した。しかし、この公演に、東宝と映画の契約がある扇雀のみならず歌右衛門勘三郎まで出演すると分かり、松竹は慌てたが後の祭り。片岡芦燕改め十三代目片岡我童十四代仁左衛門追贈)の襲名披露興行をぶつけて対抗したものの、チケットにプレミアムがつくほどの東宝歌舞伎の人気には及ぶべくもなかった。

 小林社長の方針に沿って洋楽を駆使した派手な演出は伝統的な歌舞伎とは全く異なるものであったが、4大スターの競演による豪華絢爛な「歌舞伎レビュー」が大衆演劇として大成功をおさめたことは間違いなかった。但し、歌右衛門が参加したのは第1回公演のみ。出演すれば自分にマイナスになるとの判断からである。歌右衛門の古風な芸風と相容れる世界ではなかった。

 東宝は、この公演の準備段階で大きな失態を演じる。幸四郎を除く吉右衛門劇団全員の出演を予定していながら、歌右衛門勘三郎の2人を重視するあまり他の役者を粗略に扱い、個別に役の交渉もしないうちに宣伝資料を作成し、その中で4大スター以外は十把ひとからげ。当然のように抗議が噴出し、紛糾の末にポスター類は刷り直されたが、それで収まるような問題ではない。結局、適当な役がつかなかった八代目澤村宗十郎は出演を辞退した。さらに、映画出演の予定があるとはいえ交渉の段階からはずされていた幸四郎にも不快感が残り、座長亡きあとの吉右衛門劇団を三頭制で支えてきた幸四郎歌右衛門勘三郎の結束に亀裂が生じる結果となった。この亀裂はのちに大きな展開につながっていく。その意味で、東宝歌舞伎が投じた波紋は決して小さいものではなかった。

 波瀾が続く中、慶事がなかったわけではない。坂東慶三改め十代目市川高麗蔵坂東彦三郎改め十七代目市村羽左衛門、片岡秀彦改め秀太郎の襲名披露のほか、当代の尾上松助澤村藤十郎中村歌六市川右之助中村梅玉中村松江(現魁春)兄弟、市川團蔵らが初舞台を踏んでいる。また、高麗蔵の実弟である坂東光伸が坂東簑助の愛娘と結婚、養子縁組して四代目坂東八十助を襲名し(九代目三津五郎)、長男寿(八十助を経て現十代目三津五郎)の誕生は、長く男子に恵まれなかった守田家に大きな喜びをもたらした。その一方で、五代目中村竹三郎、二代目市川照蔵、市川雷蔵の実父である二代目市川九團次、三代目尾上菊十郎松本錦吾らの名脇役が相次いで歿し、舞台を寂しくした。

 さらに、31年2月、五代目市川三升が逝く。葬儀に参集した人々は「故十代目市川團十郎堀越福三郎の柩」と大書された白いのぼりに息を呑んだ。前日に養子海老蔵の発案で急遽決まった追贈であった。九代目團十郎の長女実子の婿として堀越家に入った元銀行マン。九代目は孫に跡を継がせる考えであったが、その死後、福三郎自身が30歳を目前にして役者に転身し、周囲を驚かせる。素地の不足はいかんともしがたく、役者としての評価は決して高くなかったものの、市川宗家としての重責をよく果たし、歌舞伎十八番の中でも埋もれていた古劇の復活に努め、百曲近い小唄を残した趣味人でもあった。温厚篤実な性格で、團十郎名跡を熱望していながら、自身の評価を分かっていればこそ口にできない。そんな養父の胸中を察した海老蔵の発案による追贈は、故人にとって何よりの供養であったろう。

 現在も人気の高い舞踊の『お祭り』で、大向こうの「待ってました!」の声に鳶頭が「待ってましたとはありがてぇ」と受ける場面は、いかにも歌舞伎らしくて楽しい。しかも長期の病気休演からの復帰となれば喜びが倍になる。孝夫時代の復帰の舞台で仁左衛門が見せた颯爽とした姿はまだ記憶に新しいが、遡ること約40年、勘三郎の復帰もこの鳶頭であった。盲腸炎から併発した腹膜炎がこじれ、膿が骨盤を冒すという何千人に1人の大病。長く面会謝絶の状態が続き、入院生活は5ヵ月に及んだ。8ヵ月ぶりの復帰の初日にはまるで2度目の初舞台のように緊張したという。自宅で床上げを祝った31年5月27日は、長男哲明(現勘九郎)の満1歳の誕生日であった。

 

昭和32年~34年

 劇団制の枠を越えて夢の配役を実現した昭和30年7月の第1回東宝歌舞伎以降、劇界は流動的な展開を見せ始める。32年1月、東宝歌舞伎の生みの親である小林一三は84年の生涯を閉じるが、彼の志は受け継がれ、3月の大阪で梅田コマ劇場を舞台に、長谷川一夫の相手役として東宝歌舞伎を支えた中村扇雀(現鴈治郎)を中心とする「コマ歌舞伎」が開幕し、半四郎、越路吹雪有島一郎三木のり平といった多彩な顔ぶれが華やかなエンターテイメントを繰り広げた。12月には、扇雀・半四郎・松蔦(七代目門之助)の『三人道成寺』を目玉に、新宿コマ劇場に進出する。東宝歌舞伎との競合を避けてか東京公演はこの1回きりであったが、梅田では57年10月まで続き、東宝歌舞伎よりさらに大衆化した路線で固定客をつかんだ。

 32年7月には、千駄ヶ谷の東京都体育館において、東京在住の歌舞伎・新派・新国劇の全俳優総出演による一大イベントとして第1回俳優祭が開催された。盛りだくさんの演目の中でも、中央の特設舞台に向かう四方の花道から、8人の花子(歌右衛門梅幸、先代水谷八重子市川翠扇、訥升(九代目宗十郎)、由次郎(田之助)、芝雀(四代目時蔵)、松蔦)が登場し、艶を競った『京鹿子娘道成寺』の壮観さ、華やかさは満場の観客を熱狂させた。翌年7月の第2回俳優祭は、舞台を歌舞伎座に移し、2日間昼夜の4回公演に珍しい顔ぶれの4組が『勧進帳』を競演。34年7月の第3回には、猿之助(猿翁)と新国劇島田正吾とが『修禅寺物語』の夜叉王を交代で演じたほか、幹部総出演の『滑稽俄地獄珍関』で、加賀屋(現中村)歌江が得意の身振り声色で歌右衛門時蔵、喜多村録郎を演じ、大喝采を浴びた。今も俳優祭の名物として愛されている歌江丈の物真似は、実に40年余の歳月をかけて磨き上げられてきた名品なのだ。

 32年8月、幸四郎白鸚)は文学座の『明智光秀』に、勘三郎は芸術座の『秋草物語』に出演し、新劇と歌舞伎の合流を実現する一方、菊五郎劇団の公演には新派の八重子が参加した。

 芝居のジャンルや劇団制の垣根を越えた交流が盛んになる中で、10月の海老蔵(十一代目團十郎)と歌右衛門のフリー宣言は劇界の話題を集めた。海老蔵は形式的にはもともとフリーで、出演の都度「参加」と書き添え菊五郎劇団と行動を共にしていたのだが、以後は袂を分かつことになる。その原因は、海老蔵がいよいよ團十郎襲名の腹を決めたからだとか、松緑と兄弟喧嘩をしたからだとか、いつの世も外野はかまびすしい。一方、幸四郎勘三郎とともに吉右衛門劇団を支えてきた歌右衛門は、数年前から別格の扱いだった点では海老蔵と似た立場にあり、この際、完全に離れて自由に活動したい、というのがフリー宣言の理由であった。菊五郎劇団には関西から鶴之助(富十郎)が加わることになり、劇団色の塗り替えが進んだ。好劇家にとっては、新鮮な配役を期待できる好機でもあった。

 2人のフリー宣言から2か月後の12月、吉右衛門菊五郎両劇団は6年ぶりでファン待望の合同公演を実現させ、海老蔵歌右衛門を加えた大一座に客席が湧いた。同じ月、東横ホールでも両劇団の若手が猿之助一座と組んで顔見世興行を催し、坂東喜の字(玉三郎)が『寺子屋』の小太郎役で初舞台を踏んだ。

 33年3月、結成10周年を迎えた菊五郎劇団は、歌舞伎座千秋楽の日に久々で「天地会」を復活する。『義経千本桜』鮨屋の場で、梅幸の権太、松緑のお里、福助芝翫)の梶原に三代目左團次の六代君という配役。一同が大いにはしゃいでいるところへ六代目の声色が一喝、と途端にガラリと雰囲気が変わる鮮やかな趣向に加え、幕間には美空ひばりの唄う「菊五郎格子」が流れ、ひばりと大川橋蔵の特別出演というおまけもついた。

 5月の歌舞伎座では、菊五郎劇団に海老蔵を加えて團菊祭が復活され、『風薫鞍馬彩』に牛若丸で現團十郎が六代目市川新之助を襲名した。次はいよいよ十一代目團十郎の誕生か、と周囲の期待は大いに高まるが、慎重な海老蔵は容易に腰をあげようとしない。

 息をひそめて時節の到来を待っているかのような海老蔵の「静」と対称的に、歌舞伎界はその活動範囲を著しく広げていく。まず野外劇の試みとして、大阪城での『大阪城物語』や『天守閣絵巻』のほか、四代目富十郎が33年2月、奈良の二月堂を背景に『南都二月堂 良弁杉由来』を、翌年8月には高野山の無明橋を舞台に『刈萱と石堂丸』を演じた。このとき石堂丸に扮した富十郎の息子、栄治郎(亀鶴)は、大阪テレビの連続ドラマ「団子串助漫遊記」に主役のチビッコ剣士として出演し、秀太郎関西テレビの「南蛮太郎」で主役の太郎をつとめた。大佛次郎作の連続ドラマ「薩摩飛脚」には、仁左衛門、延二郎(三世延若)ら関西歌舞伎の俳優陣が大挙出演している。

 関西ではさらに、仁左衛門、我童、鴈治郎扇雀親子、高砂屋福助、又一郎、延二郎により「上方かぶきを護る七人の会」が結成され、北条秀司らを顧問に迎え、33年8月に第1回公演を開いた。34年1月には関西歌舞伎陣の「花梢会」も結成される。しかし、前者はなかなか7人の足並みがそろわず、後者は歌右衛門の「莟会」と異なり松竹が介入する組織であるため自主性に欠け、関西歌舞伎衰退の懸念を払拭するには至らなかった。

 34年4月には、幸四郎文楽座の綱太夫・弥七とともに、『娘景清八嶋日記』の三段目『日向嶋』を厳密に文楽の本行に準じて上演しようという意欲的な試演会を開いた。文楽太夫は歌舞伎の舞台に立ってはならないという禁を破っての挑戦である。文楽の丸本そのものを台本にするため、セリフとして喋る部分と義太夫で語る部分との調整が難航するものと思われたが、3人がそれぞれに充分な時間をかけて案を練り、関西から綱太夫・弥七が上京して幸四郎の案と突き合わせたところ、驚くべきことに、セリフと義太夫の区切りがピタリと一致し、一字一句異なるところはなかったという。それほどまでに芸術的感覚の通じ合う3人が綿密な稽古を積み、精魂込めて臨んだ舞台が悪かろうはずはない。この画期的な試演会は高く評価され、幸四郎にとっては大きな自信となった。

 30年代前半は映画の最盛期にあたり、映画の観客動員数は33年に史上最高を記録する。その余波を受けて歌舞伎俳優の映画出演が相次いだ。松竹映画「大忠臣蔵」には、猿之助(猿翁)の内蔵助をはじめ多くの歌舞伎俳優が登場し、このときの大石主税が映画第一作となった團子(猿之助)はさらに「楢山節孝」「朝焼け富士の決斗」「大阪城物語」などに出演した。勘三郎は、歌舞伎座で自ら主演したことがある木下順二原作の「赤い陣羽織」で、また仁左衛門市川右太衛門主演の「あばれ街道」で、それぞれ映画初出演を果たした。32年1月に13歳で初舞台を踏んだ澤村精四郎(藤十郎)は、翌年秋に東映と専属契約を結び、のちに兄の訥升(九代目澤村宗十郎)もこれに続く。すでに大映入りしていた市川雷蔵は「弁天小僧」で勝新太郎らと共演し、浜松屋の場面で指導に当たった雷蔵の父寿海も、「暁の陣太鼓」で富十郎、簑助(八代目坂東三津五郎)らと共に初出演をした。高田浩吉主演の「お役者小僧」を皮切りに、映画界でも扇雀ブームを巻き起こした現鴈治郎は、東宝映画「女殺油地獄」で新珠三千代のお吉に与兵衛を演じて話題を集め、宝塚映画「海の小扇太」で初共演した扇千景と結婚。34年2月に長男智太郎(翫雀)が誕生する。夏の映画出演が恒例となっていた幸四郎白鸚)は、33年6月から8月までの3か月間に松竹映画「謎の逢びき」「太閤記」「大江戸の鐘」と東宝映画「隠し砦の三悪人」の4本に出演する多忙ぶり。撮影が遅れて9月になっても解放されず、歌舞伎座に出演しながらロケ地の御殿場に通う毎日が続いた。さらに、横溝正史原作の東映映画「蜘蛛の巣屋敷」では、時蔵が5人の息子のうち歌昇芝雀(四代目時蔵)、錦之助、賀津雄の4人と共演し、残る三男貴也がプロデューサーをつとめるという親子総出演が実現し、時蔵は劇中劇として『女暫』を演じた。

 五男五女に恵まれた梨園随一の子福者、三代目中村時蔵はこの映画を最後に、34年7月、肝臓ガンのために不帰の客となった。享年64。正統派の立女形として最高峰を極め、古風な伝統と格調を伝える最後の人といわれた。息を引き取る前日、亡き吉右衛門の夢でも見たのか「兄貴、兄貴」と呼びかけていたという。賢妻の誉れ高いひなこ夫人をして「悪くいいようのない人」と言わしめた温厚篤実な人柄。その時蔵が最後まで気にしていたのは、弟勘三郎の長男、勘九郎の初舞台であった。披露口上の席に連なってやれない寂しさ。元気であれば、披露狂言『昔噺桃太郎』の婆役を勤めたかったに違いない。

 勘九郎の初舞台披露興行は当時の子役の初舞台としては異例なほど華やかなもので、表向きは皇太子殿下・美智子様御成婚の奉祝興行と謳い、中村しほみ改め中村小山三の改名披露も併せて行われた。東京での興行を打ち上げた後、大阪歌舞伎座で事件は起こった。桃太郎に扮した勘九郎が2人の鬼を従え、幕開きに舞台中央からせり上がるべく3人を乗せた舞台が下がった途端、舞台とセリとが離れ、セリだけが下がってしまったのだ。舞台が大きく傾く。幼い桃太郎はあわや奈落の底へ・・・・。そのとき、鬼のひとりがガッシリと、小さな勘九郎の体を抱きかかえ、鉄骨にしがみついた。鬼退治に出かけるはずの桃太郎が鬼のおかげで命拾いをしたのだ。幕の向こうには観客がいる。大きな声は出せない。舞台の袖から勘三郎がたまらず「大丈夫か」と声をかける。穴をのぞき込んだスタッフは首を横に振った。「この舞台は直さないと使えない」という意味だったのだが、勘三郎は奈落の底に落ちた愛息の姿を想像し、「あぁダメか」と観念したという。間一髪で初舞台が最後の舞台になるところだった勘九郎を必死で救った大手柄の主は、中村屋の御神酒徳利、助五郎・四郎五郎の名コンビであった。

 

昭和35年~37年

 昭和35年5月27日夜、初の歌舞伎アメリカ公演に向けて総勢63人の一行が羽田空港を飛び立った。日米修好百年記念の企画として国際文化振興会が2,700万円の渡航費を負担し、ニューヨーク・シティーセンターを皮切りに、ロサンゼルスはグリーク・シアターで野外公演のあと、サンフランシスコのオペラハウスで締めくくる約1か月の旅。俳優陣は、中村勘三郎中村歌右衛門尾上松緑を中心に、4月に四代目を襲名したばかりの中村時蔵ほか計24人で、『勧進帳』『壷坂霊験記』『籠釣瓶花街酔醒』『仮名手本忠臣蔵(大序から城明渡しまで)』『身替座禅』『京鹿子娘道成寺』の6演目から3つずつ組み合わせた3通りのプログラムを用意。それぞれ約2時間強の枠内におさめるために大幅なカットを余儀なくされたものの、歌舞伎のエッセンスは十分に伝わり、各地で大好評を博した。いちばん高い評価を得たのが『勧進帳』で、意外に好評だったのが『壷坂』、容易に理解され大ウケだったのが『身替座禅』という評には納得がいく。『忠臣蔵』は特に切腹の場が興味を集め、『籠釣瓶』は八ツ橋の豪華な衣裳が絶賛され、『道成寺』では、歌右衛門の花子が醸し出す夢幻美のみならず、長唄連中の演奏も高い評価を得た。

 勘三郎が演じた『籠釣瓶』の次郎左衛門に対して「女を殺したのだから腹を切れ」という投書が舞い込み、急きょ殺し場の後に切腹する演出に変えたところ、戦後、歌舞伎の解禁に尽力してくれた恩人であるバワーズ氏から「芸の分かるアメリカ人もたくさんいるのだから、素人の言うことを聞いてはいけない。腹を切るとは何事か」と怒られ、元の演出に戻した。また公演中、松緑夫妻がバワーズ氏の紹介で人嫌いで有名なグレタ・ガルボに会うことになり、歌右衛門が同行したところ、ガルボは終始うっとりとした瞳で歌右衛門を見つめ、その後ガルボから歌右衛門に「ラブ・ラブ・ラブ・・・・」と熱いメッセージを綴った電報が届いた。ほかにも数々のエピソードを残して、記念すべき第1回アメリカ公演は大成功のうちに幕を閉じた。

 同年9月には、尾上梅幸ニューヨーク大学付属演劇研究所の講師として招かれ、アメリカ人のプロの俳優を相手に6週間『鳴神』の演技指導にあたった。また、翌36年6月には、二代目市川左團次以来32年ぶりのソ連公演が実現し、市川猿之助一門に實川延二郎(のち延若)と歌右衛門を加えた総勢72名の一座で、モスクワとレニングラードで約1か月間にわたり『連獅子』『籠釣瓶』『俊寛』『娘道成寺』『鳴神』の5つを披露した。これらすべてを3時間で上演する必要上、『籠釣瓶』は八ツ橋の花魁道中のみであったが、連日超満員の大盛況。特に『俊寛』はこの異国の地でも深い感動を巻き起こし、鳴り止まぬ拍手に猿之助はカーテンコールで応えた。こうして歌舞伎もいよいよ国際化の時代に入る。

 一方、日本では、アメリカ公演のニューヨーク初日と1日違いで松本幸四郎白鸚)主演の『オセロー』が開幕した。本格的なプロデューサー・システムを採用し、歌舞伎、新劇、映画の各分野から出演者を募り、丸1か月の稽古を経て本番という革新的な試み。森雅之のイアーゴー、新珠三千代のデズデモーナを相手に、幸四郎のオセローは大将軍を威風堂々と演じたが、見についた歌舞伎独特のテンポとリズムはシェークスピア劇になじみきれない感があり、周囲とのアンサンブルにおいても、幸四郎自身、満足できない結果に終わった。先年の『日向嶋』『明智光秀』に続く幸四郎の挑戦は、十分な稽古もできない松竹の興行体制に対する反発であり、その不満は幸四郎一門の東宝移籍という大激震となって爆発する。

 先陣を切ったのは息子の染五郎・万之助(幸四郎吉右衛門)兄弟で、2人の移籍は36年2月、折しも歌舞伎座で2人の祖父である七代目松本幸四郎の13回忌追善興行が開始された直後に発表された。松竹にしてみればまさに寝耳に水。幸四郎の去就をめぐって報道は過熱し、果たして東宝なら幸四郎の理想がかなうのかと疑問視する声も少なくなかったが、まもなく幸四郎以下25人の移籍が正式に発表され、6月には東宝劇団の旗揚げ公演が幕を開ける。越路吹雪フランキー堺高島忠夫浜木綿子らに幸四郎一門が加わる異色の出演陣。染五郎・万之助兄弟の『寿二人三番叟』は、浄瑠璃管弦楽を組み合わせ、岡本太郎の美術で洋風な色彩が強く、その奇抜さは少なからず戸惑いを招いた。この移籍の仕掛人である菊田一夫の作『野薔薇の城砦』では、染五郎は白樺林をバックに浜木綿子とデュエットするなど、ミュージカル・スターとして活躍するが、特に見せ場もなく手持ち無沙汰な幸四郎の姿は、歌舞伎役者としての幸四郎を愛してやまない人々を嘆かせた。幸四郎自身「これが本来の仕事ではない。この公演だけで東宝入りの意義を云々しないでほしい」と語り、将来への期待を強調したが、幸四郎の理想は実現されないまま、孤高の戦いは10年の長きに及ぶこととなる。

 松竹と東宝の攻防が続く中、弟の澤村精四郎(藤十郎)に続いて兄の訥升(宗十郎)が東映に移籍してまもなく、2人の父である七代目澤村十郎も東映入りを決意する。但し、東宝移籍組と違ってこちらは映画界への転身であった。40年余の間、女形ひとすじで生きてきた宗十郎に初めて与えられたのは、訥升主演『若殿千両肌』にちょっと出るだけの殿様の役。決心がつかないまま返事を延ばすうちに別の俳優で撮影が終了し、以後、出演依頼が来るたびに「もう少し慣れるまで」の一点ばり。結局ついに1本の映画にも出ないまま、宗十郎は1年2か月後の37年10月歌舞伎座興行から松竹に復帰する。「あんた舞台で死になはれ」- 大谷会長のこの一言が宗十郎を号泣させた。

 37年11月、踊りの神様と呼ばれた七代目坂東三津五郎が80年の生涯を閉じた。晩年の軽妙洒脱にして恬淡とした味わいは余人をもって代え難い極上の舞台と評されていたが、32年9月歌舞伎座の『寒山拾得』公演中に倒れて以来、ついに再起することなく、明治の歌舞伎の匂いをもった最後の役者は静かに逝ってしまった。

 開けて38年1月、時蔵急逝の悲報が劇界を駆け抜ける。34歳という早すぎる死。この月、歌舞伎座初春興行で『め組の喧嘩』の女房お仲と『石切梶原』の梢を好演し、明日はようやく千秋楽というところまで勤めあげながら、就寝中に意識不明に陥ったのである。36年4月の四代目襲名以来ほとんど無休で舞台をこなし、疲れきった身体を少しでも休ませようと手にした睡眠薬がこの美貌の女形の命を奪った。勘三郎にとっては可愛い甥。楽屋ですでに滂沱の涙を流した勘三郎は『め組の喧嘩』辰五郎内の場でとうとう泣き出してしまい、異様な雰囲気のうちに幕が閉まると、鳶の扮装のままで時蔵の死を観客に伝えた。時蔵は、五男五女に恵まれた三代目時蔵の次男。弟の錦之助と嘉葎雄は映画界に去り、獅童に続いて兄歌六も足の故障のために役者の道を断念し、新時蔵の襲名興行を名残りに舞台を退き、ただ一人歌舞伎界に残る時蔵と、この興行で三代目中村梅枝を名乗って初舞台を踏んだ時蔵の長男光晴(現時蔵)に萬屋の将来を託した。萬屋の看板を一身に背負った時蔵の不慮の死は切なく悲しい。梅枝はこの時わずか5歳であった。

 しかし、嘆いてばかりはいられない。翌2月の市川松蔦改め七代目市川門之助市川男寅改め五代目市川男女蔵(のち四代目市川左團次)襲名に続き、長年の懸案であった海老蔵改め十一代目市川團十郎の襲名がようやく実現する。前売りには2千人を超える行列ができ、出演俳優約270人、ポスター5千枚、興行費用は4月・5月の2か月分でざっと1億7千万円と、何から何まで空前絶後の大興行であった。幸四郎東宝移籍の際に「カブキ王国大揺れ」と報じた新聞が今度は「世紀の歌舞伎祭典」とお祝いムードを盛り上げる。誰もが歌舞伎の明るい未来を思った。團十郎という名跡にはそれだけの力があった。満を持して誕生した新團十郎がその後わずか3年足らずのうちにこの世を去ってしまうとは、この時、誰が想像し得ただろうか。

 秋の歌舞伎座9月興行には三津五郎家三代の慶事が華やかさを添えた。先に逝った七代目の息子である坂東簑助が八代目坂東三津五郎を、娘婿の坂東八十助が七代目蓑助(のち九代目坂東三津五郎)を、そして孫の寿が五代目八十助(のち十代目坂東三津五郎)を襲名したのである。

 この頃、悲喜こもごもながら激動する東京の劇界と対照的に、衰退著しい関西の歌舞伎はほとんど窒息状態にあり、関西歌舞伎を中心に活動してきた演劇雑誌「幕間」が16年の歴史を閉じ、終刊のやむなきに至った。ここで、上方の灯を消してはならじと立ち上がったのが十三代目片岡仁左衛門である。私費を投じて上方歌舞伎の再興に賭けた仁左衛門歌舞伎は、その意気に感じた諸優の協力を得て、37年8月の文楽座で、祈るような気持で初日の舞台に臨んだ。『ひらかな盛衰記』『夏祭浪花鑑』などの演目を並べ、普段上演されない場面を復活して筋を通しすことにより、何より歌舞伎を理解してもらいたいという仁左衛門の願いが通じたか、大入りを記録し、以後恒例となって40年からは南座に舞台を移すことになる。

 この頃の劇界は、様々な矛盾をはらみつつ、自由なエネルギーに満ちあふれ、ともすれば迷走しそうになりながら、歌舞伎のあり方、興行のあり方を模索していたのではなかったか。そして、その答えはいまだに出ていない。

 

昭和38年~40年

 昭和30年代初めにピークを迎えた映画ブームも長くは続かず、38年に国産初の連続アニメ「鉄腕アトム」、40年には初のカラー・アニメ「ジャングル大帝」の放映が開始され、テレビはいよいよ娯楽の中心として庶民の生活に根づいていく。このような時代の変遷も歌舞伎界にとっては悪いことではなかった。なぜなら、衰退期に入った映画界から、澤村訥升・精四郎(九代目宗十郎藤十郎)、中村鴈治郎扇雀(二代目・三代目鴈治郎)らェ相次いで舞台に復帰したからである。

 3月には二代目實川延二郎が三代目實川延若を襲名した。今年こそ、今年こそはと期待されながら、父二代目延若の歿後12年ものブランクを経てようやく誕生した三代目延若には、待ちかねたファンから大きな声援が寄せられた。

 5月の市川猿之助改め市川猿翁市川團子改め三代目市川猿之助市川亀治郎改め四代目市川團子(のち四代目市川段四郎)の襲名披露には数々のエピソードが残されている。

 二代目猿之助は孫の團子の大学卒業後、名題披露の際に名を譲る約束をしていたが、その時期が近づくにつれて長年親しんだ猿之助の名への愛着が募り、譲るのが惜しくなってしまった。そうなると團子が継ぐべき名がない。当時から合理主義の論客であった團子は、誰でも知っていて覚えやすい名前でなければ損だと考え、すでに系列が絶えている坂田藤十郎を継ぎたいと希望するが、上方歌舞伎の祖の名を継ごうなどとは不遜であると一蹴され、それならと雪之丞を挙げた。『雪之丞変化』で有名だからと詰め寄られ、祖父はしぶしぶ納得する。このままであれば現猿之助は市川雪之丞を名乗っていたはずなのだが、その発表も済ませたあとで、二代目猿之助は金の矢がグサリと頭にささる夢を見て死を予感し、再び孫に猿之助の名を譲る気になった。これで話しはふりだしに戻り、今度は猿之助が自分の新しい名前を決めなければならない。回りの助言もあって猿翁という名を選んだものの、老いてもなお青春の情熱を感じさせる優であっただけに「翁はまだ早い」との思いから、「翁の文字、まだ身にそまず衣がえ」という自作の句を袱紗に染めて配ることにした。

 襲名の準備は順調に進むが、猿之助の不吉な予感は的中し、浅草寺で恒例の“お練り”が行われた4月20日、心臓病に倒れ、襲名披露の舞台出演にドクターストップがかかった。しかも二代目猿之助の息子で当時の團子・亀治郎兄弟の父にあたる三代目段四郎は前年春からすでに病床にあり、逆縁になるのではと危ぶまれる状態にあった。華やかな襲名に暗い影がさし始める。周囲の不安を振り払おうとするかのように、新猿之助は襲名興行に意欲を燃やし、祖父の披露狂言のうち『黒塚』の代役を申し出た。この役には若すぎる孫の、それを承知の上での切望。祖父は、屈指の当たり役として練り上げてきた『黒塚』を孫に託した。開幕の時刻になると病院のベッドの上に起き上がり、1時間15分の上演中じっと合掌する毎日。この祖父の一念を受けて、新猿之助は初役の『黒塚』を見事に踊りきった。

 千秋楽の3日前に病院の許可を得て監事室から孫の舞台を見守った猿翁は、「せめて1日だけでも口上の席に出てやりたい」と出演を決意する。これを聞いて段四郎も駆けつけた。口上の幕の最初から舞台に座っていたのでは身体への負担が大きすぎる。終わりに新猿之助が2人を迎えに行く形式をとり、居並ぶ役者は全員、2人が座につくまで身体を起こし、2人のおぼつかない足もとを少しでも客席から隠すようにした。それでも2人の体調の悪さは隠しようがない。口上を述べるのも苦しげな切れ切れの言葉に込められた、子への、孫への思いが客席に伝わり、この口上は以後“涙の襲名”として語り継がれることとなる。

 新猿之助・團子の襲名を見届けて、猿翁は翌月に、段四郎は秋にこの世を去った。2人の1周忌を機に現猿之助によって制定された「猿翁十種」は、猿之助自身が最高傑作と語る『黒塚』をはじめとして『二人三番叟』ほかを加えた舞踊集である。猿翁・段四郎父子の『二人三番叟』は、うりふたつの姿形が面白く、他の組み合わせでは見られない独特の楽しさがあった。

 7月の歌舞伎座では、大喜利にチビッ子連が『白浪五人男』のつらねを熱演して客席を沸かせた。広松の駄右衛門、八十助の弁天、梅枝の赤星、光照の忠信、勘九郎の南郷という顔ぶれ。広松は40年9月に父の四代目中村雀右衛門襲名に合わせて七代目を襲名した中村芝雀、梅枝は現中村時蔵、光照は39年7月の三代目・四代目中村時蔵追善興行の折りに中村光輝として正式な初舞台を飾った中村歌昇である。時代が下って平成元年には、市川新之助尾上丑之助(のち菊之助)、坂東亀三郎坂東亀寿中村勘太郎が同じく五人男をつとめたが、この中では年長といってもまだ小学生だった新之助菊之助が今では成人し、大役をつとめるようになっている。次は彼らの子供達が可愛いつらねを聴かせてくれるのだろうか。

 39年1月には、東横ホールで市川男女蔵(のち四代目市川左團次)を最年長とする若手歌舞伎が第1回公演の幕を開け、前年10月末に柿落しをしたばかりの日生劇場では、初の歌舞伎公演で市川雷蔵が10年ぶりに舞台姿を披露し、養父の寿海によく似た面差しで往年のファンを喜ばせた。日生劇場はその後、勘三郎の『リチャード三世』(39年3月)、松緑の『シラノ』(39年4月)とサルトル作『悪魔と神』(40年10月)など、歌舞伎座では見ることのできれない異色の舞台で話題を集めた。

 二代目市川左團次一行のソ連公演を嚆矢とする歌舞伎海外公演も、39年8月のハワイ公演で6回目となった。これまでの海外公演と違うところは、観客総数の7割以上を日系市民が占めたことである。そのうち一世の人達は懐かしい日本の歌舞伎に無条件に感激し、二世以降の人達は第2の母国への憧れを胸に歌舞伎を歓迎した。AプロBプロ共通の『仮名手本忠臣蔵』五・六段目を柱に、Aプロは『二人三番叟』『鈴ヶ森』『京鹿子娘道成寺』、Bプロは『壺坂霊験記』『連獅子』『隅田川』を加えたところ、この次はぜひ雪の降る芝居を、という注文が出たのも南国らしい。

 一行がホノルルにいる間に、門弟の舞踊公演の応援にきていた尾上菊之丞がホノルル市内の病院で急逝した。享年56。舞踊家に転向したとはいえ、かつては琴次郎を名乗り、しげる(のち鯉三郎)とともに師匠の『鏡獅子』で胡蝶をつとめた六代目菊五郎門下の俊秀である。仮葬儀には一行が全員参列し、異郷の空で寂しく死んだ菊之丞の霊を慰めた。

 40年10月には、初の訪欧歌舞伎団がベルリン、パリ、リスボンの3都市を巡演した。演劇の伝統が長く自国の文化に対する自尊心が強い土壌で、果たして歌舞伎は受け入れられるかどうか不安があったが、この不安は全くの杞憂に終わり、合計26回の公演はいずれも大成功のうちに幕を閉じた。パリでの初日の直前、『車引』の桜丸、『京鹿子娘道成寺』の花子、『仮名手本忠臣蔵』の判官と3つの大役をつとめる尾上梅幸に母堂逝去の報が届くが、梅幸は全公演が終了するまで団員にも知らせないようにと申し渡し、大使館の弔意も辞退したという。

 この年2月の東宝劇場、3月の歌舞伎座、4月の大阪歌舞伎座と3か月連続で七代目松本幸四郎の追善興行が催され、十一代目市川團十郎、八代目松本幸四郎尾上松緑の3兄弟の共演が大きな話題を呼ぶ一方、東宝歌舞伎座の攻防をはじめ舞台裏が様々に報道され紙面を賑わせた。だが、例えば歌舞伎座勧進帳』で3兄弟が弁慶と富樫を1日替りでつとめるなど、純粋な歌舞伎公演としても意義があり、3人の名優を歌舞伎界に残した七代目世幸四郎の大きな功績が改めて認識される結果となった。

 翌5月歌舞伎座の六代目尾上菊五郎17回忌追善興行では、尾上丑之助が四代目菊之助(のち七代目尾上菊五郎)を、尾上左近が初代として尾上辰之助を襲名した。この後まもなく市川新之助(現團十郎)を加えた「三之助」ブームが到来するのは御承知のとおりである。

 この興行で『保名』を踊ることになっていた團十郎が初日から休演し、前年の日本俳優協会脱退に続いて物議をかもした。表向きは病気休演だが、口上の序列が気に入らなかったらしい。團十郎の突然のストライキは珍しいことではなく、そのために風当たりが強くなっていた最中の出来事であったが、今にして思えば、決して個人のわがままではなく、養子の身で市川宗家を継いだ者として、團十郎という名跡に対する責任感の現われではなかったか。だが團十郎はそうした思いを伝えようとはしなかった。すべてを内に秘め、ひたすら沈黙してしまう。実弟松緑ですら兄團十郎の胸の内を推し量ることはできなかった。

 八方から説得され、懇願され、團十郎はようやく10日目から出演する。このとき踊った『保名』が團十郎の本興行最後の舞台になろうとは誰が想像し得ただろうか。7月28日の第4回「演劇人祭」でトリをつとめ、『助六』の素踊りで江戸の粋を体現して見せたのが公の場における團十郎の最後であった。無器用な役者といわれながら、終戦の翌年に東劇の『助六』で大評判をとり、歌舞伎再興の象徴と称され、26年に新装歌舞伎座で演じた『源氏物語』の光の君は、この人なくしてはあり得なかった舞台とまで絶賛され、"海老さまブーム"に火をつけた。團十郎襲名からわずか3年半。「遅咲きの花」「未完の大器」といわれ続け、これからの円熟の舞台を期待されていた矢先の、あまりに突然の永別であった。享年56。最後までガンとは知らされないまま、死の直前、無意識のなかで弁慶の飛び六法の手つきをしていたという。以後、このとき19歳で父に別れた新之助海老蔵を経て昭和60年に十二代目を襲名するまでの20年間、市川團十郎名跡は空席となる。

 

昭和41年~43年

 ビートルズの初来日に若者が熱狂した昭和41年、歌舞伎界でも若手のパワーが炸裂し、まずテレビドラマ「源義経」に主演した尾上菊之助(現菊五郎)の人気が爆発した。2月の東横ホールは菊之助義経を演じる『勧進帳』が話題をさらい、三之助の活躍で開場以来の大入りを記録した。菊之助ブームは秋になっても衰えることなく、「源義経」を劇化した歌舞伎座9月公演は前売初日に百人近い徹夜組が出る騒ぎとなった。さらに三之助と同世代の若手のうち、市川猿之助は自主公演「春秋会」を成功させ、中村万之助は新装開場の帝国劇場で二代目中村吉右衛門を襲名し、新たなスタートを切った。

 帝国劇場は、東宝に移籍した松本幸四郎一門にとって待望の劇場であったが、菊田一夫が一生の大事業として自ら渡米し、上演権を獲得した「風と共に去りぬ」の和製ミュージカル実現をめざして設計されたその舞台機構は、歌舞伎に適するものではなかった。花道は扇形に広がる客を縫って「く」の字に曲がり、普通の劇場の1.5倍もの長さがあるうえに揚幕に向かって上り坂。弁慶の飛び六法など、いかに鍛練した役者であっても体力が続くものではなく、脇花道で妥協せざるを得ない。大臣柱がない上に大道具を飾る位置が奥まっているため、どのように配置しても舞台裏がのぞいてしまい、カーテンで目隠しをするしかない。スライドステージなどの最新の設備を配していながら、操作が複雑すぎて機能しない。一流ホテル並みに立派な楽屋は劇場ビルの7、8階にあり、3階の舞台との行き来が不便なことこの上ない。しかも襲名披露狂言の『金閣寺』は豪華絢爛な舞台が売物なのに、金紙を貼る代りに絵具を塗っただけの舞台は薄っぺらで、擬宝珠までが書割。制作の千谷道雄が自腹を切って買いに行かせようにも擬宝珠を売っている店から説明しなくてはならないほど歌舞伎の舞台に不慣れな道具方と、次にいつ使うか分からない道具を高い倉庫代を払って保管しておくよりその都度安物で消費してしまおうとする東宝の方針は、ことあるごとに出演者や制作陣を苛立たせ、41年10月の記念すべき新装開場公演は不手際に次ぐ不手際で混乱を極めた。移籍後、納得のいく仕事ができずに悶々としていた幸四郎にしてみれば、自らの城となるべき新しい劇場での愛息の襲名披露に、袂を分かったとはいえ恋しくてならない中村歌右衛門らの同輩を客演として迎え、東宝歌舞伎の明るい前途を示そうと意気込んでいただけに、落胆は大きかった。

 幸四郎にとって幸いというべきは、この年11月に国立劇場が開場したことである。明治の中頃から実に70年に及ぶ設立運動を経てようやく誕生したこの劇場には、何度も国会に陳情に行くなど精力的に尽力しながらその完成した姿を見ることなく故人となった久保田万太郎をはじめとして、様々な演劇人の思いが込められている。歌舞伎俳優のすべてを松竹が掌握している以上、常に松竹の企画が優先され、国立劇場の歌舞伎公演は様々な制約を免れないものの、第1回公演を『菅原伝授手習鑑』通し上演で飾り、以後、古典芸能の復活・保護を旗印として、幸四郎にかつての同輩たちと共演する機会を提供した。

 42年3月にはハワイで2度目の歌舞伎公演が大盛況を博し、定員2,100人のホノルル国際コンサート・ホールを連日満員にした。8月にはカナダ建国百年記念芸術祭とモントリオール万国博覧会への参加を果たし、各国から参集した130余りの芸能団体の中でも歌舞伎が最高と賞賛された。「昭和元禄」と呼ばれるほどの好景気となった43年には、幸四郎中村又五郎とともにニューヨーク高等演劇研究所の講師として招かれた。ここでは以前、尾上梅幸が『鳴神』の指導をしたことがあり、ある程度の予備知識があるとはいえ、歩く練習から始める外国人に『勧進帳』を上演させるまでの苦労は並大抵のものではない。台詞はもちろん英語。長唄はさすがに無理だったので、英訳した詞章を語る形式にした。オーディションで選ばれた外国人たちは、歌舞伎というと錦絵を連想し、化粧もその通りにしようとする。だが、歌舞伎の化粧はもともと日本人の平面な顔を立体的に見せる工夫を凝らしたものなので、彫りの深い外国人には向かない。そこで、ほとんど素顔に近い化粧にしたところ、フランス人とのハーフといわれる十五代目市村羽左衛門そっくりの義経が誕生したという。

 早稲田小劇場に続いて寺山修司主宰の「天井桟敷」が結成され、唐十郎主宰の「状況劇場」は初のテント興行を試みるなど、新しい動きが劇界を揺さぶっていた。この頃、中国大陸に吹き荒れた文化大革命の嵐は、毛沢東に傾倒した河原崎長十郎前進座脱退という思わぬ形で波紋を呼んだ。かと思うと、浪費癖がたたって多額の借金を負った藤山寛美の去就は、松竹新喜劇除籍から半年後の復帰まで、様々に報道を賑わせた。

 42年9月には森繁久弥越路吹雪の主演で『屋根の上のヴァイオリン弾き』が初演され、和製ミュージカルも固定客をつかみ始める。グループサウンズの全盛期で若者はコンサートに詰めかけ、手塚治虫の「火の鳥」、赤塚不二雄の「天才バカボン」、ちばてつやの「あしたのジョー」などの漫画が大ヒットし、娯楽の多様化がますます進んでいた。新派の基礎を作った川上音二郎がかつて歌舞伎座に出演した折、九代目市川團十郎が「舞台が汚された」と激怒し、関係者を慌てさせたものだが、その歌舞伎座の舞台で、三波春夫の歌謡ショーが連続8年、動員数12万人を記録する時代になっていた。歌舞伎界から映画に転身した中村(のち萬屋錦之助大川橋蔵歌舞伎座で単独の定例公演を持つようになり、当時の歌舞伎座は純粋な歌舞伎専門の劇場とはいい難い。大川橋蔵の場合は、42年12月に13年ぶりで歌舞伎座に出演したところ、テレビの「銭形平次」の人気で大入りを記録し、以後師走の恒例となったものである。菊之助ブームと同様、テレビの影響力はすでにそれほど大きくなっていた。

 様々な新しい勢力が台頭してくる中で、新派は創立80周年、新国劇は創立50周年を祝い、菊五郎劇団も結成20周年を迎えた。伝統芸能には伝統芸能ならではの強みがある。華やかな襲名披露興行もそのひとつである。42年4月の歌舞伎座では、中村歌右衛門を筆頭とする成駒屋一門が口上の幕に居並んだ。中村福助改め七代目中村芝翫加賀屋福之助改め八代目中村福助(現梅玉)、加賀屋橋之助改め五代目中村松江、中村玉太郎改め六代目中村東蔵の襲名披露に加えて、新芝翫の長男五代目中村児太郎(現福助)の初舞台。歌右衛門は「一門の名跡がすべて揃うのは初めてです」と感激の涙を見せた。10月には市村家橘が養父十五代目市村羽左衛門の23回忌追善興行で二代目市村吉五郎を、その長男寿が十七代目家橘を襲名した。翌11月には初代中村鴈治郎の33回忌追善を機に、中村扇雀(現鴈治郎)の長男智太郎(現翫雀)と次男浩太郎(現扇雀)が初舞台を踏んだ。

 初世鴈治郎の追善興行はこの年2月の大阪新歌舞伎座を皮切りに巡演したが、前年12月、亡父の追善を前に長男の林又一郎が歿した。往時は踊りの名手として知られながら、生来の病弱ゆえに二代目鴈治郎を継いだ弟の蔭になりがちだった「長ぼん」の不遇な晩年を象徴するような寂しい逝去であった。

 42年6月末の南座公演を最後に、十三代目片岡仁左衛門が私費を投じて続けてきた「仁左衛門歌舞伎」が6年間の幕を閉じ、大正9年の創設以来50年の歴史を持つ福岡の大博劇場は、再建委員会の努力も空しく、43年3月に競売に付された。しかし、関西歌舞伎を盛り立てようとする動きは力強く、関西での歌舞伎興行がほとんどなかった数年前に「つくし会」という研究会を結成し、地道な努力を続けてきた坂東薪車がその熱心さを買われて尾上菊次郎の養子となり、その前名である竹三郎を継いだ。また、41年10月に顔見世を復活した御園座に続いて、43年12月には南座も発祥350年を記念して顔見世興行を催し、1年ぶりに舞台復帰を果たした市川寿海のほか、鴈治郎仁左衛門、延若らの関西陣歌右衛門梅幸勘三郎らに三之助を加えた東西合同の大歌舞伎で芸どころ京都の好劇家を喜ばせた。

 この南座で、43年8月には片岡秀公(現我當)・秀太郎・孝夫の松島屋3兄弟が自主公演「若松会」で気を吐き、同じ頃、東京では国立劇場の第1回青年歌舞伎祭に、市川新之助(現團十郎)の「荒磯会」、澤村訥升(九代目澤村宗十郎)精四郎(現藤十郎)兄弟の「竹生会」ほかいくつかの団体が参集し、研鑚の成果を競った。この公演は、40歳以下の青年俳優が主宰する歌舞伎研究劇団を対象に、国立劇場が劇場使用料と道具や衣裳等の舞台費用を負担し、入場料収入は各団体と折半するというシステムで、自主公演はやりたいが資金が不十分で実現できずにいる若手を国が援助する画期的な試みであったが、それぞれに本興行を抱えている事情もあり、残念ながら定着するには至らなかった。

 若手の活躍の蔭で老優は去り逝く。41年4月に惜しまれながら引退披露をした八代目市川團蔵は、同年6月、四国巡礼の帰路に瀬戸内海の客船から投身して入水自殺を遂げ、43年12月には、俳名の曙山を名乗って隠居していた五代目澤村田之助が66歳で歿した。大柄で古風な顔立ちに気品があふれ、主に和事に長じ、若手のホープと目された時代もあった優で、息子に現澤村田之助・由次郎兄弟がいる。

 42年7月、歌舞伎座の七代目坂東三津五郎7回忌追善興行で三之助が『三人形』を披露した。浅黄幕が振り落とされ、辰之助の奴緑平、新之助の若衆春之丞、菊之助の傾城漣太夫が姿を見せると、3人が3人ともそれぞれの父親にあまりにもよく似ているので、場内にどよめきが起こった。それから30年余を経た平成10年11月の歌舞伎座で、その息子達が『三人形』を踊り、同じどよめきを再現した。新三之助はそれぞれの父の、そして祖父の面影を写している。祖父の松緑・十一代目團十郎梅幸の時代から歌舞伎に親しみ、二世代の三之助の成長を見守ってきた人にとっては、さぞ懐かしい舞台だったことだろう。

 

昭和44年~46年

 昭和44年は高砂屋五代目中村福助の訃報で明けた。かねてから病気療養中のところ、元日に58年の生涯を閉じた。名女形として名高い三代目中村梅玉の息子で、自身はその立派な体格を活かして敵役を得意とし、座頭格の風格を持ちながら、関西歌舞伎の衰退に伴って活躍の場を失い、四代目梅玉を継ぐには至らなかった。四代目中村芝翫を端として、明治元年に東京と大阪で2人の三代目福助が誕生して以来、東京の本家が大阪系に三代目中村歌右衛門の俳名である梅玉を贈り、円満に福助の名を持ち合ってきたのだが、高砂屋五代目福助の死をもって大阪系が断絶することを惜しみ、同優の未亡人がその後、梅玉福助の両名跡を本家に返すことを申し出た。これを機に、平成4年4月、本家六代目歌右衛門の養子である八代目福助が四代目梅玉を継いで屋号も成駒屋から高砂屋に改め、五代目歌右衛門の孫にあたる中村児太郎が九代目福助を襲名し、福助名跡は125年ぶりで一本化されることとなる。

 時代を戻して昭和44年、折からのテレビブームに乗って、歌舞伎役者のブラウン管への進出がますます顕著になっていた。4月に始まったNETの山本周五郎作「ながい坂」では中村吉右衛門が主役に抜擢され、10月にはその父、松本幸四郎白鸚)が自ら望んだ池波正太郎作「鬼平犯科帳」がスタートしている。

 一方、上杉謙信の生涯を描くNHKの「天と地と」では、幼年期の虎千代役の中村光輝(現歌昇)に人気が集中し、青年期を演じる石坂浩二へのバトンタッチの時期が近づくにつれて、光輝の続演を望む投書が山のように寄せられた。このドラマには、謙信の側近、鬼小島弥太郎に扮した市村竹之丞(現富十郎)のほか、若手からは武田勝頼役の中村信二郎や、ごく幼い時期の虎千代役で中村浩太郎(現扇雀)も出演している。光輝人気は幅広く、この年6月の中村(のち萬屋錦之助公演で「天と地と」が舞台化されると、歌舞伎座には光輝ファンの少女たちが詰めかけ、翌7月からはTBSで光輝主役の「胡椒息子」がスタートした。

 光輝に続いて同年代の坂東八十助(現十代目坂東三津五郎)に白羽の矢が立ち、NHKの10月スタート「鞍馬天狗」杉作役に起用され、高橋英樹扮する鞍馬天狗こと倉田典膳を相手に好演した。さらに、意外なところでは、現團十郎も、海老蔵時代の45年2月スタートのフジテレビおんなの劇場・三島由紀夫作「春の雪」に主役の松枝清顕役で登場し、そのきめ細やかな演技は周囲の予想を裏切った。清顕の幼年時代信二郎が演じている。

 歌舞伎界もテレビにおされてばかりいたわけではない。44年4月には中村勘三郎勘九郎父子が初役の『連獅子』を披露し、5月には市川猿翁7回忌追善を機に、団子が四代目市川段四郎を襲名した。9月には、アメリカ公演の成功に加えて、国立劇場の『蔦紅葉宇都谷峠』で勘三郎幸四郎白鸚)の共演が9年ぶりで実現し、幸四郎本来の舞台を望む多くのファンを喜ばせた。

 11月には市川新之助改め十代目市川海老蔵(現團十郎)の襲名披露が華々しく行われ、同時に片岡市蔵の長男幸一が六代目片岡十蔵を、二男二郎が四世片岡亀蔵を襲名した。(十蔵は平成15年に父の六代目として襲名した)。史上最高の興行にするべく入場料は過去最高3千円に設定され、口上には東宝から幸四郎も駆けつけ、新海老蔵は市川家伝来の「ニラミ」を披露した。新海老蔵の富樫に弁慶を演じた尾上松緑は、叔父として、また後見人として普段の何倍も神経を使い「生涯で最高にくたびれた弁慶だったよ」と述懐している。

 市川家の門弟総代として、この襲名披露口上の席に連なるはずであった三代目市川左團次が他界したのはこの年10月3日であった。市川女寅(のち六代目門之助)の養子となり、明治35年10月歌舞伎座『ひらかな盛衰記』逆櫓の駒若丸で、九代目團十郎の樋口に抱かれた初舞台。市村座に引き取られて男女蔵を襲名し、六代目菊五郎に可愛がられ、團十郎の娘から「いつから尾上男女蔵になったの」と揶揄されることもあった。菊五郎の歿後は劇団のまとめ役に徹し、二代目市川左團次未亡人の「私の目の黒いうちに次の左團次が見たい」という熱意を受けて、役柄の違いを承知の上で、昭和27年5月に三代目左團次を襲名。71歳で亡くなるまで若さを失うことなく、44年6月国立劇場『妹背山婦女庭訓』の烏帽子折求女で見せた瑞々しい若衆姿が最後の舞台となった。

 45年3月には、市川染五郎(現幸四郎)が単身ブロードウェイに乗込み、『ラ・マンチャの男』で堂々主役のドン・キホーテを演じ大成功を収めた 。  5月の歌舞伎座は、三代目中村歌六50回忌追善興行と銘打ち、歌六の三男である中村勘三郎が中心となって、長男の名を継いだ吉右衛門や二男時蔵の孫たちとともに、10歳で死別した父を追善した。実の子が現役として50回忌を営むというのは極めて稀なことである。千秋楽の翌日に「そそり」のおまけがつき、『連獅子』では勘九郎の親獅子に勘三郎の子獅子、『伊賀越道中双六―沼津』では、中村雀右衛門の十兵衛に澤村精四郎(現藤十郎)の老父平作、九代目坂東三津五郎の娘お光という傑作な配役で、十兵衛に年を問われた平作が「私は今年26歳…娘は65でござりまするがな」と答えると、満員の客席が大いに湧いた。

 9月歌舞伎座の『鳥辺山心中』『鳴神』で海老蔵坂東玉三郎の「エビタマ」コンビが誕生し、一躍ブームを巻き起こした。このとき玉三郎は弱冠20歳。この若き女形が脚光を浴びたのは、前年11月国立劇場で初演された三島由紀夫作『椿説弓張月』の白縫姫役であったが、三島は45年11月に割腹自殺で果て、玉三郎の大成を見ることはなかった。

 明けて昭和46年、若手の練習場として親しまれてきた東横ホールがその初春興行をもって28年の歴史を閉じた。2月には、関西歌舞伎の復活を祈念して、大阪新歌舞伎座で片岡秀公が五代目片岡我當を襲名し、その長男新之助が初舞台を踏んだ。大谷ひと江改め七代目嵐徳三郎の改名も併せて披露された。

 4月3日、市川寿海の訃報が届く。84歳の大往生とはいえ、その実直温厚な人柄で信望を集めた名優の死は、劇界にとって大きな痛手であった。明治25年に五代目市川小團次の門に入り、五代目市川寿美蔵の芸養子となって六代目寿美蔵を継いだ。二代目左團次一座における二代目市川松蔦とのコンビは、その清潔な透明感と浪漫的な情緒が魅力で、大正歌舞伎の青春のシンボルといわれた。昭和24年に三代目寿海を襲名。その朗々たる名調子と若々しさは、左團次と十五代目市村羽左衛門の芸風を正しく伝えるものであり、最後までその輝きを失うことはなかった。

 門閥外から俳優協会名誉会長という劇壇の頂点までのぼりつめた寿海であったが、家庭運には恵まれなかった。跡継ぎがないため養子に迎えた市川雷蔵は、わずかその3年後に映画界に去り、眠狂四郎などの当たり役を得てスターダムにのし上がった。39年1月、10年ぶりに日生劇場勧進帳』で富樫を演じ、舞台への意欲を見せたが、それもつかの間、44年7月17日、雷蔵は37歳の若さで肝臓ガンに倒れ、養父寿海に逆縁の憂き目を残して永遠の眠りについた。

 さらなる訃報が劇界を襲う。昭和46年6月、国立劇場『髪結新三』で家主長兵衛を演じていた八代目市川中車の急逝である。享年74。二代目段四郎の二男として猿翁を兄に持ち、市川松尾、八代目八百蔵を経て、28年に中車を襲名した。幸四郎について東宝に移籍し、東宝劇団の副将格にあった。三船敏郎が大石内蔵之介を演じたテレビドラマ「大忠臣蔵」の吉良上野介役でいい味を見せていたが、討入に至る直前に帰らぬ人となり、弟の市川小太夫が代役に立った。番組冒頭、紋付袴姿の小太夫が中車の遺影の前で挨拶をする場面は、口上の幕そのままであった。

 46年7月の歌舞伎座は、猿之助という名跡が初代から現三代目まで、ひと月たりとも途絶えることなく百年続いたことを記念する「猿之助百年祭」で、昼の部を猿之助の奮闘公演とした。それまで7月は1年中で最も入りの悪い月であったが、この興行が大当たりし、以来4年間は昼の部のみ、5年目からは昼夜通しでの恒例となり、現在に至っている。猿之助の成功は何といっても『義経千本桜 ― 四の切』の人気によるところが大きく、この一幕が目当ての観客が増え、猿之助宙乗りが終わった途端に観客がごっそり減ってしまうことが度重なった。こうなると次の幕に出るお偉方は面白くない。当然のように若手の猿之助への風当たりは強まった。むろん、これに動じる猿之助ではなかったが。

 この頃からすでに猿之助の猛優ぶりは顕著で、44年8月の御園座で『東海道四谷怪談』を通し上演した際は、新しい仕掛けをふんだんに使ったため、二場を残して舞台稽古を切り上げたのが初日の朝8時。10時に開幕し、2回公演の終幕は深夜の12時半にまで及び、その間ほとんど出ずっぱりでいながらいちばん元気な猿之助のエネルギーに、周囲は舌を巻いた。

 猿之助は当時、芝居中心の「春秋会」と舞踊中心の「おもだか会」を主宰しており、46年10月の第2回おもだか会は、全18番のうち12番を猿之助が踊るという猿之助ならではのプログラムで、舞台稽古は連日、午前4時頃まで続く強行軍。2日間の会を踊り抜き、その2日後に歌舞伎座の顔見世で「四の切」を出した。さすがの猿之助にも体力の限界はある。眼目の宙乗りで、雲に乗っているようないい心持ちを楽しんでいるかに見えた猿之助がにわかに昏倒し、こんこんと眠り続けた。嬉しそうに跳ね回るはずの狐がじっと動かないまま水平移動していく異様さは、さぞかし観客やスタッフの不安をかきたてたことだろう。