今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和5年~7年

 昭和5年1月1日、大阪で文楽座が開場した。3月29日には梅幸の翁、羽左衛門の千歳、菊五郎の三番叟という華やかな顔ぶれが東京劇場の幕開きを飾った。この『式三番』は、その立派さに開場式3日間だけでは惜しいというので延長され、4月1日の初日から千秋楽まで毎日、序幕として演じられた。

 この3月には、幸四郎が、明治13年4月の初舞台以来50年間、一度も病気で休むことなく舞台を勤めた健康を祝って、楽屋中に蕎麦を配った。この記録の延長線上で、生涯に1600回以上も弁慶を演じるという幸四郎の偉業が達成されている。

 この春のもうひとつの慶事は、寺島幸三すなわち菊五郎を校長とする日本俳優学校の開校である。予科2年本科3年の計5年間という長期プログラムで、狙いは既成俳優の再教育にあったのだが、音羽屋門下の俳優以外は趣旨には賛同しながら入学はせず、この目的は果たせなかった。それでも、入学希望者は予定人員の数十倍にのぼった(8年3月当時の在籍者数約120名。うち女子46名)。菊五郎芸談を語る講義は学外からの聴講者も数多く集め、菊五郎は自ら踊りの指導にもあたった。彦三郎や三津五郎も理事に加わり、一流の講師陣をそろえ、舞踊、邦楽、演技指導にとどまらず、地理、歴史や外国語のほか、劇評家や舞台美術家、舞台監督、演出家等の育成も視野に入れた幅広い内容でありながら、授業料は破格に安く、しかも月1回、校長が出演する劇場の1等席無料見学という特典までついていたから、菊五郎は毎月莫大な赤字を補填せざるを得なかった。菊五郎はそれでも「舞台を退くようなことがあっても、この学校だけは、死ぬまでがんばってやってのけるつもり」(演芸画報昭和5年6月号)で奮闘したのだが、熱意だけで経営難を克服することはできない。東宝が卒業生を引き受けるという話も、その真の目的は菊五郎の引き抜きにあったために破談となり、結局2回目の卒業生を送り出したのみで、11年には閉校に追い込まれた。しかし、国の保護が全くなかった当時に、後進の指導という貴重な仕事に私財を投げ打って取り組んだ菊五郎の意欲は高く評価すべきであると思う。

 昭和恐慌と呼ばれた不況の嵐が吹き荒れる中、250万の失業者が街にあふれ、プロレタリア演劇の加熱とこれに対する弾圧は全盛期を迎えていた。歌舞伎界にもその余波が及び、猿之助を会長とする「優志会」の面々は、階級打破と待遇改善を叫んだ。要求が拒否された5年12月、優志会は松竹を脱退し、翌6年1月に市村座で春秋座の旗揚げをしたが、大方の予想通り直ちに経営難に陥り、猿之助は、羽左衛門左團次の取りなしで、5月に単身松竹に復帰してしまった。猿之助の弟である小太夫は新興座を作って去り、残された河原崎長十郎中村翫右衛門らは前進座を組織して、6月の初公演以来、市村座を本拠地とした。翫右衛門は、松竹や幹部俳優の横暴を批判する雑誌「劇戦」の発行者でもあり、優志会解散後もその戦いを続けた。猿之助の復帰は決して暖かく迎えられたわけではないが、小太夫は、厳しい批判に屈することなく様々な革新的活動を続ける兄と、新国劇との合体に道を見出した自分を比較し「兄のやった仕事は歌舞伎劇のための仕事でした。僕の仕事は、歌舞伎をのがれるための運動です」と語っている(「演芸画報」昭和5年1月号)。

 この一件の背景には、ほとんどの歌舞伎俳優が松竹に掌握されていたため、その層の厚さに出る幕のない若手や大部屋役者の不満があった。これをなだめる狙いもあって、若手に機会を与えるべく、松竹が新歌舞伎座(のち新宿第一劇場)でスタートさせたのが青年歌舞伎である。7年7月の第1回公演では、志うか(十四代目勘弥)が前月に没したばかりの父勘弥の面影を偲ばせた。勘弥は鼻の奇病で入院中に心臓麻痺を起こし、6月16日に48歳の若さで亡くなったのである。

 この第1回公演では、児太郎(現歌右衛門)が初役で『娘道成寺』を踊っている。8年1月から定例化し、13年まで続いた青年歌舞伎は、若手俳優にとってよき修行の場となった。

 松竹は、経営を委ねられた帝劇を何とか建て直すべく奮闘したのだが、不況でどの劇場も不入なときに、座席数1700の大劇場で採算を取るのは容易ではなく、歌舞伎俳優と女優の混成で華やかな舞台を作り続けてきた帝劇も、6年11月に映画館に転向してしまった。この帝劇が東宝の手に移り、宝塚少女歌劇で再開場するのは昭和15年のことである。

 一方、市村座は、7年5月21日、前進座の公演中に焼失し、再建されることなく廃座となり、村山座の名で1634年に創立されて以来ほぼ3百年にわたる歴史の幕を閉じた。中村座の廃座に続いて新富座も映画館と化した後、江戸三座の中で唯一、芝居小屋として生き続けてきた市村座の寂しい幕切れであった。

 6年8月の歌舞伎座で、チャップリンの名作「街の灯」を翻案した『蝙蝠の安さん』が上演されたかと思うと、翌七年五月にはそのチャップリンが来日した。歌舞伎に恋い焦がれていたというこの英国紳士の記念すべき初の観劇は、歌舞伎座の『忠臣蔵』と『茨木』で、吉右衛門の定九郎が最もお気に召したようだ。明治座では猿之助幸四郎の『連獅子』を堪能し、特に幸四郎ニジンスキーやアンナ・パブロワにも劣らぬ舞踊家として絶賛している。「キクゴロさんは愉快な子供のような印象」「キチエモンさんは篤実な勉強家らしい」「サダンヂさんには鋭い理知のひらめき」「フクスケさんはつつましやか」「エンノスケさんは生活力の旺盛なる印象」- 楽屋でのわずかな対面から、これだけの的確な評を語ったチャップリン。「カブキは世界一の舞台芸術」と最高の賛辞を残して、名優は帰国の途についた。

 満州事変の発端となった6年9月18日の柳条湖事件に続き、7年1月28日には上海事変が勃発し、日本は戦争へと一直線に突き進みつつあったが、一方では「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉が流行する中、エンタツアチャコの登場、エノケンこと榎本健一の劇団ピエル・ブリリアント旗揚げ、市川右太衛門の「旗本退屈男」シリーズ第一作の封切など、芸能の世界は多様な展開を見せた。7年9月には、東京劇場で異色の翻訳劇『寺切博士と灰戸』上演。殺人鬼の手にかかる美女の役は水谷八重子、ジキルとハイドの二役を演じたのは猿之助であった。

 余談になるが、「河豚の戯言(ふぐのざれごと)」 - これは演芸画報に5年3月号から数回にわたって連載された菊五郎の随筆のタイトルである。「味はとびきりよくても、毒気の強い河豚の戯言」というのがその真意で、芸談とはまた違った楽しい読物となっている。その初回で語られているエピソード。

 菊五郎が六代目を襲名して間もない夏のある日、日課の乗馬を楽しみ、七里ヶ浜で一息ついていると、向こうから近づいてくる馬上の人は、間違いなく乃木将軍その人であった。

 憧れの将軍から気さくに声をかけられ、すっかり恐縮しきった菊五郎、将軍と鞍を並べて松林を抜け、茶店に馬を止めるなり、気を利かせたつもりで冷やしたラムネを数本買うと「閣下、いかがですか」と将軍の前にひざまずいた。すると、将軍は「ヤー、それはどうもありがとう。しかし、馬に乗せてもらっていた私達より、私達を乗せて走ってくれた馬の方がさぞ喉が渇いていることだろうから、私は先に、馬に飲ませてやりましょう」と言い、茶店でバケツを借り受け、氷を割入れてやり、いかにも愉快そうにさすってやりながら、馬に水を与えた。

 菊五郎は、将軍の行いに感動する一方、馬の渇きに思いが至らなかった自分に恥じ入った。馬に水をやり終えた将軍のコップにラムネをつぐ間も、手が震えてとまらない。やがて、話がはずんで将軍から「君は…」と問われたが、とうとう名乗ることができなかったという。そして以後、趣味の狩猟に出かけるときも、猟犬をいっそう大事にするようになったそうだ。この随筆、菊五郎をさす「私」には「あっし」、将軍をさす「私」には「わし」とふり仮名がついている。

 さらに余談になるが、演芸画報の昭和5年1月号に掲載された「俳優恩愛録」と題する特集記事の中に、いくつか意外な発言があったので紹介したい。まずは幸四郎から。

「金太郎に純蔵に豊、子供は3人です。純蔵は播磨屋に預けてありますし、豊は六代目に預けました。金太郎も、まだ実行はしませんが、いずれは猿之助さんに預けるつもりで居ります。」  それぞれ十一代目團十郎、八代目幸四郎白鸚)、二代目松緑となった高麗屋三兄弟であるが、当時、團十郎の名を継ぐべき候補者とされていたのは、末弟の豊だったのである。ちなみに、純蔵は、6年4月の歌舞伎座で『車引』の梅王を披露狂言として、五代目市川染五郎を襲名している。

 「広太郎の方は、また至って女形ぎらいでして、まだこんな子供でございますが、女形をさせると言っただけで泣き出す位」

 これは、大谷友右衛門の弁である。女形として雀右衛門名跡を継ぎ、75歳を数えてなお、道成寺という大曲を本興行で踊りぬく息子の姿に、父は泉下で驚嘆しているだろうか。(平成15年現在83歳を数えてなお驚異的な若さを維持しているジャッキーに万歳!)

 最後に、初代鴈治郎

 「『鴈治郎』という名は私一代で誰にも襲がさんつもりでいますさかい。『長三郎』は長三郎で大きなるがよし。『扇雀』は扇雀で大きなったらよろしいのや。」

 こう明言した初代も、近松劇を中心とする上方歌舞伎の重要な継承者たる二代目、三代目の活躍には、きっと目を細めているに違いない。

昭和8年~10年

 昭和8年1月、新歌舞伎座(のち新宿第一劇場と改称)は青年歌舞伎の一座で初春の幕を開けた。青年歌舞伎はこの頃から定例化し、現歌右衛門は『鎌倉三代記』の時姫などの大役に挑戦する機会を与えられ、女形の基礎を固めた。兄の五代目中村福助は胸に病を得て葉山で静養していたが、8月11日に34歳の若さで逝去した。劇評家三宅周太郎をして「私の観劇50余年でこれ程美しく悩殺された女方はいない」と言わしめた美貌の若女形であった。残された息子の眞喜雄(現芝翫)は当時6歳。2歳の折、父の『道成寺』に3日ほど、所化のひとりに手を引かれて出たのが芝翫にとって父と最初の、そして最後の舞台となった。病床で「舞台に出られずに寝ているのが一番辛い。半年も芝居が出来なかったら自殺するかもしれない」とまで語っていたという福助の早世に、飲み友達であった花柳章太郎は「せめて芝翫にしてから死なせたかった」と述懐している。福助の死後、夫人が発見したいくつかの歌の中から、ひとつだけ紹介しておきたい。

   けふを舞ふ千秋楽は目出たかれど
             君にわかるゝ鏡のおもてよ

 千秋楽の日に、自分の姿を鏡に映しながら、その役との別れを惜しむ美しい横顔が目に浮かぶようだ。

 自らも不自由な身体でありながら、期待をかけた長男に先立たれた五代目歌右衛門の気を引き立てようと、11月の歌舞伎座では、現歌右衛門の児太郎改め六代目福助、現芝翫の四代目児太郎としての初舞台を披露する口上の幕に、素晴らしく豪華な顔ぶれが揃った。なかでも、二人の息子を先立たせた六代目尾上梅幸が同じ悲しみの中にいる五代目歌右衛門をねぎらう言葉の優しさは、観客の心を強く打った。

 その梅幸が、翌9年11月の歌舞伎座『ひらがな盛衰記』源太勘当の場で延寿を勤めていたところ、舞台で脳溢血の発作を起こし、一時は持ち直すかと思われたが、急性肺炎を併発して重体に陥り、8日に息を引き取った。享年65歳。三代目菊五郎の孫を父に持ち、五代目菊五郎に望まれて養子となって以来、芸でも私生活でも厳しく仕込まれた。好きな酒を飲んで帰っても家では飲んだそぶりも見せないよう、常に気がねをしながら重ねた盃が寿命を縮めたといわれる。命とりになった発作は三度目で、二度目の発作の後、顔面麻痺に襲われたため、女形として舞台を続けることに堪えかね、引退の決意を発浮オていた。引退後は、梅寿菊五郎と呼ばれた三代目菊五郎にちなんで梅寿を名乗ると決め、後進の指導にあたる意欲を見せていただけに、周囲の嘆きは大きかった。十五代目羽左衛門にとっては積年の恋女房であり、三千歳や十六夜のような役には羽左衛門の好きな香水を振りかけてから出るという心配りを忘れず、倒れた時もしきりに着物の裾を気にしていたという。また、大正5年10月の歌舞伎座で久々に羽左衛門の与三郎にお富を勤めた折りには、最近はほとんど上演されない「赤間源左衛門の内の場」に二人が関係を結ぶ場面があり、ほんの2~3分後に座敷から出てきた時、梅幸は帯の結び方を変えていた。座敷の中で帯を解いたことを暗に示すためである。小山内薫もこれには気付かず、新橋の芸者に教えられたという。この逸話を小山内から聞いた三宅周太郎は、その著書「演劇巡礼」の中で「としの若い私はあまりの“秘密”に顔を赤くした」と告白している。

 9年10月には、先年亡くなった十三代目片岡仁左衛門の父である十一代目仁左衛門が78歳で没し、翌10年2月には初代中村鴈治郎が76歳で鬼籍の人となった。明治中期から大正後期まで30年の長きにわたって不和であった二人が、時期をほぼ同じくしてこの世を去ったわけである。

 仁左衛門は、勝気な性格ゆえに周囲と衝突した逸話で語られることが少なくないが、役者としての腕は誰もが認め、無筆同然でありながら『桐一葉』のような文学的戯曲でも見事な成果をあげた。義太夫への深い造詣に裏打ちされた台詞回しは、岡本綺堂が「團十郎以上の名調子」と称賛したほどで、三宅周太郎も、仁左衛門こそ「團菊歿後第一の名優」と評している。

 大阪人の誇りと言われた「ガンジロハン」の死は、各紙が号外で報じ、上方歌舞伎界の巨星の長逝を悼んだ。南座顔見世興行の3日目から休演したのだが、鴈治郎は京都の旅館に横臥したまま頑強に入院を拒否した。「病院には病人がたんといまっしゃろ。第一、陰気くそおますがな」とは表向きで、京都にいる限り南座の舞台に復帰できると信じていたのである。千秋楽にようやく入院を承諾したが、遂に再起はならず、2日間だけ演じた『鎌倉三代記』三浦之助が最後の舞台となった。

 9年1月1日に開場した東京宝塚劇場は、新聞に専属俳優の募集広告を出し、松竹対東宝の俳優争奪戦をめぐって報道が過熱した。当時、ほぼすべての歌舞伎俳優を掌握しているだけに、役がつかない中堅の不満に頭を悩ませていた松竹としては、東宝に中堅を融通して不満を解消する目算だったが、東宝が希望したのは大幹部の幸四郎であったから、円満には進まず、松竹の顧問に名を連ねていた小林一三東宝社長の立場も事態を複雑にした。東宝は、続いて10年6月には有楽座を開場し、水谷八重子の芸術座と猿之助の春秋座による柿落し興行を計画したのだが、両座とも出演を快諾したというのに、松竹が猿之助の出演を許さず、断念せざるを得なかった。水谷八重子をめぐる争奪戦も激しく、宝塚劇場の開場式で、八重子が小林に促されるままそのそばに座ると、松竹の大谷社長がすかさず八重子の隣りに陣取り、二人にはさまれた八重子は「お尻のむずかゆいようなバツの悪さ」を覚えたという。

 微妙な睨み合いが続く中、坂東簑助(八代目三津五郎)が先陣を切って、有楽座の開場とともに東宝に移籍すると、7月には市川寿美蔵(三代目寿海)が、10月には中村もしほ(十七代目勘三郎)がこれに続いた。簑助・寿美蔵の東宝入りは松竹への不満からであったが、もしほは当時、女形として修行をさせられていたため、立役をやりたい一心から、簑助の誘いに軽い気持ちでのったという。ところが、東宝が欲しかったのは寿海の相手役となるべき女形であったから、もしほは松竹に帰るといってきかない。そこで、12年4月、長谷川伸作『瞼の母』で、もしほは初めて立役としての主役をつかむこととなる。「長谷川先生は私を男にしてくれた」と、勘三郎は当時を振り返って語っている(藤野義雄「現代の歌舞伎芸談」)。

 当時の東宝には歌舞伎公演を定期的に続けていくだけの力はなく、劇団としてのまとまりにも欠けていたため、この第1次東宝歌舞伎は、早くも13年に解散に追い込まれた。長谷川一夫を主力とする第2次東宝歌舞伎の幕開けは、戦後、米軍による接収が解除される昭和30年まで待たなければならない。

 10年6月には六代目菊五郎『鏡獅子』の映画が撮影されている。監督は小津安二郎。前年6月、俳優学校劇団第1回公演の舞台が完全無欠の出来ばえと言われ、本人も会心の踊りだったのですぐに話は決まったものの、種々の事情で延び延びとなり、ようやく1年後に実現することとなった。この月、菊五郎歌舞伎座に出勤中で、終演後、徹夜の撮影が2日続き、さらに翌日は俳優学校劇団公演の稽古で徹夜。昼夜芝居に出ながら3日続けて徹夜しても、本人は全くこたえる様子がない。当時の菊五郎はすでに50の坂に入ろうというところ。驚くべき体力である。だが、こうして撮影された映画も、当の菊五郎の気に添わず、歿後まで陽の目を見ることはなかった。『修禅寺物語』の夜叉王のごとく、菊五郎本人にしてみれば、この映画が公開されたことは不本意かもしれないが、先年CSでも放映され、歿後50年を過ぎてなお、亡き名優の映像を目にすることができるのは、菊五郎歌舞伎の時代に生まれ遅れた世代には嬉しい限りである。

 当時、中国に進出していた日本は、清朝最後の皇帝溥儀を執政に迎え、7年3月に満州国の建国を宣言した。10年4月、この溥儀が来日し、奉迎式場に指定された歌舞伎座を訪れ、『勧進帳』と『紅葉狩』を観劇した。幸四郎の弁慶、吉右衛門の富樫、宗十郎義経菊五郎の鬼女、羽左衛門の維茂、三津五郎の山神という豪華版であったが、時間の制約から、それぞれ45分と30分に短縮せざるを得なかった。それでも、不遇な主君をかばう弁慶の忠臣ぶりは、数奇な生涯を強いられたラスト・エンペラーの心の琴線にふれたのか、溥儀は大きな拍手を贈ったという。

 日本は8年3月に国際連盟を脱退し、太平洋戦争の宣戦布告を間近にして、演劇雑誌にも「非常時局」の文字が頻繁に目につくようになった。歌舞伎に厳しい統制が及ぶ暗い時代は、すぐ目前に迫っていたのである。

昭和11年~13年

 昭和11年1月、歌舞伎座の初春興行は、十二代目片岡我童改め十二代目片岡仁左衛門の襲名披露で賑わいを見せた。「まだまだ未熟な私、仁左衛門はおろか、一左衛門を襲ぐ資格とても御座りませぬが…」と軽妙なユーモアで会場を湧かせた美貌の女形は、六代目梅幸に次ぐ十五代目羽左衛門の女房役としてその地位を固めつつあった。新仁左衛門には3人の息子があり、長男芦燕(十三代目片岡我童十四代仁左衛門追贈)は当時、東宝に走り、勘当同然の状態にあった。二男義直はのち十五代目羽左衛門の養子となり、現在は二代目市村吉五郎を名乗っている。そして三男が現芦燕。この華やかな襲名から10年後、戦後の食糧難の中、同居していた使用人の恨みを買い惨殺されるという悲劇が仁左衛門を襲うとは、誰が想像できただろうか。

 2月26日の二・二六事件以来、戒厳令下の東京で、4月の歌舞伎座は、九代目團十郎・五代目菊五郎の胸像建設を記念して第1回團菊祭を開催した。5月の延長興行で『鏡獅子』を踊った菊五郎に、フランスから来日していた詩人ジャン・コクトーが絶賛の辞を寄せている。

 團菊祭の賑わいをよそに、4月20日、「田圃太夫」として親しまれていた四代目澤村源之助が逝った。大阪に生まれ、養父三代目源之助の歿後、東京に出た澤村清三郎(本名)は、両手両足を失いながらも舞台を勤めた三代目田之助の澤村座で、田之助の不自由な身体を支えながら、その壮絶な生きざまを両の眼に焼きつけた。田之助歿後新富座に移り、徐々に女形として頭角を現し、源之助を襲名したのが明治15年。その後、團菊の両巨頭に重用されトントン拍子に出世するが、中村福助(五代目歌右衛門)の人気が高まるにつれて團十郎の相手役は福助に移り、菊五郎も養子梅幸が長ずるに及んで、居場所を失った源之助は、三崎座に身を投じた。当時の俳優規約では小劇場に出た俳優は大劇場への出演を許されず、規約改正後、大劇場に復帰した時にはすでに源之助の時代は終わっていた。若かりし頃は今牛若と称され、流した浮名は数知れず、その中に花井お梅がいた。芸者達の間で歌舞伎役者を情夫にすると箔がつくといわれた当時、源之助に目をつけたお梅は、他の芸者との浮気が知れると剃刀を片手に源之助の家に暴れこむような気の強い女で、とうとう殺人を犯してしまう。源之助とお梅の仲はたちまち世に知れるところとなり、小説や戯曲にもなったが、当の源之助は、最後まで事の真相を明かそうとはしなかった。しゃがれ声と妖艶な姿が魅力で、悪婆をやらせたら日本一。三代目田之助の芸風を見事に受け継いだ伝法な女形であった。享年78歳。源之助の名は婿の片岡千代麿に引き継がれたが、今は絶えてしまっている。

 田圃太夫の死から3か月余の7月28日、七代目市川中車が76歳で没した。昭和5年10月、歌舞伎座忠臣蔵に出演中、脳溢血で卒倒して以来、体調がすぐれず、10年に再び舞台に立ったが再起はならなかった。芝居好きの母を持ち、頑固一徹の父の反対を押し切って役者の世界に入り、23歳で七代目市川八百蔵を襲名。團十郎歿後は歌舞伎座の座頭格に上ったが、俳優幹部技芸委員長の座が芝翫(五代目歌右衛門)の頭上に輝いた時点で、八百蔵は次位への降格を余儀なくされる。しかし、苦労人の八百蔵は芝翫を立て、争うことはなかった。大正7年、猿之助(猿翁)の弟松尾を名前養子として八百蔵を譲り、自分は中車と改名した。歌舞伎の生字引と呼ばれ、劇界の重鎮として後進の育成に努め、十五代目羽左衛門の盛綱も六代目梅幸の玉手御前も二代目左團次の河内山も、みな中車の指導によるものであった。中車ほど鎧の似合う役者はいないと称賛され、日本一の光秀役者と呼ばれた中車はまさに、一代でたたき上げた名優であった。

 長老級の役者を相次いで失った劇界が久々に華やいだのは、11月の歌舞伎座、三代目中村歌右衛門百年祭記念興行である。三代目時蔵の愛息4人が小さな頭を並べる初舞台披露の口上が評判を集めた。長男種太郎(四代目歌六)を先頭に、梅枝(四代目時蔵)、獅童(のち廃業)、錦之助萬屋錦之助)と、これだけでも見事だが、時蔵にはさらに3人の娘があった。そこで、歌右衛門が口上で毎日「よくもこのように生んだものだと思いますが、この他にまだまだ大勢おります」と言うものだから、時蔵は決まりが悪いやら面映ゆいやら。男子に恵まれなかった吉右衛門にしてみれば、子福者の弟がどれほど羨ましかったことだろう。隣りに控える愛娘正子(のち白鸚夫人)への眼差しは優しく、いかにも子煩悩そうな父親の顔を見せる播磨屋に、観客は温かい拍手を贈った。時蔵には、これより2年のち、五男(中村嘉葎雄)が生まれている。平成9年3月に中咽頭がんで死去した錦之助の享年は、父時蔵と同じ64歳であった。

 昭和11年から12年にかけて、林長二郎の『雪之丞変化』が大ヒットした。松竹に莫大な利益をもたらしながら、長二郎の月給は初任給のまま据え置かれ、その他の面でも冷遇されたことから不和となり、長二郎は東宝に転じた。この移転は「松竹に対する忘恩行為」と非難され、夫人(鴈治郎の娘)との別居につながるが、波紋はおさまらず、12年11月、長二郎は京都で暴漢に襲われ、左頬を剃刀で斬られた。役者の生命ともいうべき顔を傷つける凶行はセンセーショナルに報道されたが、幸い傷跡は化粧で隠せる程度にとどまり、人気が翳ることはなかった。13年3月、林長二郎はその芸名を松竹に返上し、本名の長谷川一夫に戻る。以後の活躍は、ここで記すまでもない。

 12年9月には、十四代守田勘弥水谷八重子が3年越しの恋を実らせた。人気俳優どうしの結婚は、女優の絶対数が少ない当時、今日のワイドショーの常套句を使えばまさしく超特大級の「ビッグカップル誕生」であったが、26年に離婚。2人の間に生まれた良恵が二代目八重子を継いでいる。勘弥はその後、藤間勘紫恵と再婚し、勘紫恵に入門していた玉三郎はその縁で勘弥の養子となった。

 13年には、尾上菊之助(七代目梅幸)が、父六代目菊五郎とやす子夫人の結婚記念日にあたる5月28日に結婚式をあげた。菊五郎は、孫が生まれたら「おじいさん」ではなく「おじさん」と呼ばせるんだ、と気の早いところを見せている。せっかちな祖父が待ちかねた孫、すなわち当代菊五郎が誕生するのはそれから4年後、17年10月のことである。

 13年1月、劇界に咲いたもうひとつのロマンスの花は大きな波紋をよんだ。新劇女優岡田嘉子が演出家杉本良吉と共に樺太国境を越え、ソ連に不法入国したのである。杉本は即刻、所属していた新協劇団を除名された。スパイの疑いで投獄された後、2人の消息は途絶え、嘉子の健在が確認されたのは27年。杉本はすでに亡く、嘉子は現地で日本人と再婚し、モスクワ放送局に勤務していた。47年に故国日本の土を踏み、平成5年に死去するまで、嘉子はソ連文化使節として両国の交流に努めた。

 12年7月7日、蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争勃発。各劇場がこぞって戦争劇を上演する中、10月に新劇の雄、友田恭助が戦死した。戦争は泥沼化し、13年4月には国家総動員法が公布される。歌舞伎界では、この非常時局に際し、左團次の恤兵献金興行、吉右衛門の満鮮軍慰問興行などの動きがあり、いち早く応召した片岡市蔵、松本高麗五郎らに続いて9月には坂東薪水(十七代目羽左衛門)が、また10月には尾上松緑が、いずれも慌ただしく結婚式を済ませて入営した。

 世田谷の陸軍自動車隊にいた薪水のもとに、父六代目彦三郎が倒れたという急報が届いたのは同年12月27日。特別外出許可を受けて駆けつけたが、脳溢血で倒れた彦三郎の意識は戻らず、翌28日、53歳の生涯を終えた。五代目菊五郎を父とし、六代目菊五郎を兄として、七代目尾上栄三郎を経て彦三郎を襲名したのが大正4年。器用ではないがスケールの大きい役者で、歌舞伎の故実に精通し、兄菊五郎も「分からないことがあったら英ちゃんに聞けばいい」(彦三郎の本名は英造)と言い、本職の道具方さえ彦三郎の博識には舌を巻いた。舞台の模型作りが好きで、演劇博物館には彦三郎が作った歌舞伎座の50分の1の模型が収蔵されている。材料は菓子や葉巻の箱などであったが、十四代目長谷川勘兵衛が図面を引き、裏方の仕事にも精通していた彦三郎ならではの精巧な作りで、望まれて外国の博物館に寄付されたものもある。また、趣味の気象観測と無線通信のために自宅の庭に緯度計を立て、自家用の観測設備で分析したデータを気象台に送っていた。震災後、東京の大気汚染が顕著になると、気象観測に支障があるというので根岸から川崎に住居を移したほどで、ここまでくれば遊びの域を超えている。時計蒐集の趣味も有名で、自宅の玄関に大時計を据え、常にグリニッジ標準時間に合わせていた。そのために天文台に通ったというから徹底している。時計蒐集は、明治末に神田と横浜の劇場を掛け持ちした時、神田の芝居が伸びて5分違いで横浜行きに乗り遅れ、横浜の劇場に迷惑を掛けたのがきっかけで、以来、臆病なほど時間を気にするようになった。彦三郎の時計蒐集はいわばその潔癖な性格の表れといえるが、「大時計」のゆったりとした語感が彦三郎の大らかな芸風や人柄に合っていたのだろう。いつしか綽名となり、しばしば「大時計!」と声が掛かった。

昭和14年~16年

 この3年間には、後に十一代目市川團十郎となる七代目松本幸四郎の長男高麗蔵が市川三升と養子縁組をして九代目市川海老蔵と改名したほか、片岡我當澤村田之助澤村宗十郎中村鴈治郎らが初舞台を飾っている。一方、歌舞伎界は昭和15年に2人の名優を永遠に失わなければならなかった。二代目市川左團次と五代目中村歌右衛門である。

 二代目左團次は、二月の新橋演舞場に出演中、高熱を出して静養していたが、胆嚢炎から腹膜炎を併発し、入院加療の甲斐もなく23日に永眠した。誰もが思いもしなかった61歳の急逝であった。先代を失い、経営難の明治座を背負って孤軍奮闘した青年時代。二代目襲名後まもなく欧州に渡り、ロンドンの俳優学校で学んだ。帰朝後の改革興行は、時勢に早すぎたばかりに激しい反発を買い、批判され、怒号され、命の危険にさらされたことも一度や二度ではなかった。それでも左團次は屈することなく、新しい演劇のあり方を模索し続けた。小山内薫とともに自由劇場を率いて新劇運動を推進する一方、古典の復活にも熱意を燃やし、さらに岡本綺堂の名作『修禅寺物語』『鳥辺山心中』をはじめとする新作歌舞伎を次々と上演し、今日まで伝わる傑作を数多く残した。線の太い無骨な外見と内からにじみ出る色気。脚本を尊重し、台詞を間違えると、ごまかしのできない真っ直ぐな性格から元に戻って言い直す。それでも観客の失笑をかわないだけの堂々たる風格があった。ほとんど休むことなく革新の道を走り続けた左團次を、戸板康二はその著書「歌舞伎この百年」の中で「永遠不滅の新人」と評している。

 左團次歿後半年足らずの8月19日、後を追うように三代目市川松蔦が逝った。享年55歳。左團次にとっては妹婿にあたり、舞台の上では永きにわたる伴侶であった。その清楚で現代的な魅力は、時代物には向かなかったものの、新歌舞伎の女性像にピタリとはまり、新しい女形として異彩を放つ存在であったが、胸に病を得て、初々しい面影を残したままで散ってしまった。

 学生層を中心に熱烈な人気を博した左團次・松蔦のコンビに数々の名作を提供した岡本綺堂も、2人に先立ち14年3月1日に68歳で歿している。芝居好きの家人に連れられて幼少時から素顔の九代目團十郎に接し、東京日日新聞の記者として劇評の筆をとること24年。二百篇近い戯曲を残し「半七捕物帖」をはじめとする小説も数十編にのぼる。「ランプの下にて」「綺堂むかし語り」等の随筆集には、春木座の芝居を見るために毎月、午前7時の開場に間に合うように、追い剥ぎも出れば狐や野犬もうろつく夜明け前の真っ暗な原っぱを抜けて、麹町から本郷まで通い詰めた少年時代が描かれている。

 同年9月7日には、幻想的な世界を描き続けた泉鏡花が逝去した。当時、鏡花の作品は新派でのみ上演され、歌舞伎とはつながりがなかったが、後年、当代歌右衛門も『滝の白糸』に参加し、最近では玉三郎が「天守物語」「夜叉ヶ池」など鏡花作品の舞台化・映像化に意欲的に取り組んでいる。

 團菊歿後の劇界を統率し、不世出の女形として最高峰を極めた重鎮五代目歌右衛門は、14年5月歌舞伎座『桐一葉』に天下一品の当たり役、淀君で出演中に舞台で絶句して以来、自宅で療養を続け、幾度となく危篤状態に陥りながらも奇跡的な回復力を示したが、ついに15年9月12日、実り豊かな76年の生涯を穏やかに閉じた。20代から鉛毒に冒され、不自由な体を芸の力で輝かせ、舞台生活66年。四代目芝翫に懇望されて養子となり、團菊に愛され、明治45年5月、児太郎改め福助の披露に芝翫と團菊の三人が顔を揃えた口上は「三千両の値打ちがある」と評判になった。福助時代の人気はすさまじく、母親が毎日楽屋に持たせる弁当箱には、恨みを買って毒でも入れられたら大変だというので錠がおろしてあったという。渥美清太郎は、歌右衛門が他の俳優と違って上品で近づき難い所がひいきの焦慮を煽った、と興味深い指摘をしている。江戸から明治に変わるとそれまで歓迎されていた下町肌の役者は通用しなくなり、品位が重んじられる時代が到来した。「天稟の品位」を持って生まれた歌右衛門は明治の女形として理想的であった、というのである(「演芸画報昭和15年10月号)。芸格の大きさもさることながら、人物の大きさでもまさに巨星と呼ぶにふさわしく、庭園2千坪の「千駄ヶ谷御殿」での大名生活がいかにも似つかわしい偉大な芸術家であり、その合理性と教養の深さは商人や政治家としても大成したに違いないと言われる反面、子煩悩な人情家でもあった。

 遺言に従い、二男藤雄(六代目歌右衛門)は吉右衛門に、早世した長男五代目福助の遺児眞喜雄(現芝翫)は菊五郎に預けられ、1周忌の追善興行で藤雄は福助を六代目芝翫と改め、眞喜雄は児太郎から七代目福助を襲名した。藤雄は母方の河村姓を継いだため、襲名の挨拶状では中村の姓を継いだ新福助が先となり、立役の名優であった四代目芝翫にならって五代目歌右衛門芝翫の襲名披露に石川五右衛門を演じたごとく、新芝翫の藤雄も『絵本太功記』初菊ほかと併せてやりつけない『鈴ヶ森』の権八を「悪く言われるのは覚悟の前」で演じざるを得なかった…と、この話は中村歌右衛門山川静夫著「歌右衛門の六十年」に詳しい。ちなみに、五代目歌右衛門の遺言には、現芝翫が七代目歌右衛門を襲名すべきことも記されている。

 日中戦争の勃発から1年半余を経て、すでに入営していた片岡市蔵坂東薪水(十七代目羽左衛門)、尾上松緑らに続き、中村章景、片岡義直(市村吉五郎)らも応召した。章景は三代目雀右衛門の長男で、女形としての経歴が評判となり、望まれるままに日章旗を体に巻き付け菊五郎直伝の道成寺を踊って大喝采を博し、隊で相撲をとる際のしこ名を「姫君山」といい、日頃の愛称も「姫君一等兵」から「姫君上等兵」に昇進したなど、誰からも愛される人柄をうかがわせる微笑ましい近況が伝えられていた矢先、14年12月23歳の若さで戦死してしまった。明けて15年1月に帰還した市蔵は「家からの手紙を見て死にたい - と何故かそんなことばかり考えていた」と語り(「演芸画報昭和15年3月号)、続いて2月に除隊した松緑も、満州従軍中、営内ラジオで日曜の舞台中継を聞くたび、みんなが芝居をやっているのに自分はこんな所で鉄砲を抱いて寝ていると思うと情けなくなり、慰問団のために舞台設営を手伝った夜、衛兵に立つと、たまりかねた思いがこみ上げてきて、誰もいないのを確かめて銃を置き、舞台に上がって口三味線で『三社祭』をしゃにむに踊った、その時の粗末な舞台の板の感触は何とも言えなかった … と述懐している(藤野義雄「現代の歌舞伎芸談」)。

 青年歌舞伎は14年1月に解散したが、松緑に続いて軍から帰った薪水を加えて、若手中心の花形歌舞伎が「歌舞伎会」と名を替え、その第1回公演が15五年11月の歌舞伎座昼興行として行われた。奇数日には『忠臣蔵』の大序から四段目まで、偶数日には五段目から七段目までを上演し、2日続けて観れば通しで楽しめる好企画が観客を喜ばせた。第2回は『菅原伝授手習鑑』を同様の趣向で見せ、第3回は本興行に昇格したが、残念ながら歌舞伎会としての公演は第4回で終わっている。

 この頃から「新体制運動」の名のもとに文化的活動への統制が強まり、8月には「社会主義的な色彩の濃い劇団は国情に適しない」という理由で新協・新築地劇団が解散に追い込まれ、9月には帝国劇場が徴用され、内閣直属の情報局庁舎に転じた。すべての公演に警視庁の許可が要求され、様々な芝居が上演禁止になった。恋愛物のきわどい台詞は削られ、悪人が活躍する芝居は勧善懲悪劇に書き換えられた。当局は「国民演劇」という看板を掲げて、あらゆるジャンルの演劇を一色に塗りつぶそうとしたのである。当局が健全と認めた芝居以外は上演できない。「国民精神総動員」という当時の標語はジワジワと演劇界をしめつけていった。その一方で、国民は娯楽を渇望し、劇場は大入り満員を続けた。「職域奉公」を合言葉に、銃後の役者は各地へ慰問に回り、東宝移動文化隊、松竹国民移動演劇隊等の活動は脅威的な動員数を記録した。これらを統制するために日本移動演劇連盟が結成され、当局発浮フ数値によれば、20年の終戦までに移動演劇が動員した観客数は1500万に達した。しかし、やがて戦況が激しさを増すにつれ、娯楽どころではなくなってしまう。16年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争開戦 - 暗黒の時代は、この時まだ、ほんの序幕にすぎない。

昭和17年~19年

 太平洋戦争が2年目に入ると、国民はますます耐乏生活を強いられ、娯楽も限定される中、劇場の観客数はむしろ増加した。しかし、衣料品点数切符制の実施に伴い舞台衣裳を新調することが難かしくなった上に、電力節減のため照明にも制約が加わる。資材不足の深刻化につれ、装置も省略設計を余儀なくされた。

 そのような状況の中で、3月の歌舞伎座では十四代市村羽左衛門50回忌追善興行が行われた。十四代目は坂東家橘の名で歿したが、市村家としての追善となったのは当時の十五代目羽左衛門の力によるものといわれる。このとき坂東薪水改め七代目彦三郎を襲名したのちの十七代目羽左衛門によれば、十五代目から「俺に彦三郎をよこさないか」と言われたことがあるという。六代目彦三郎が菊五郎の弟であったため、彦三郎の名跡菊五郎の下にしてしまった。だから自分が彦三郎を継ぎ、いい名前にして薪水に返してやるというのである。しかし、その間に薪水が名乗るべき名前がない。「竹之丞はどうだ」「僕は丞がつく柄じゃないでしょう」十七代目の言葉に十五代目は笑い、この話は立ち消えになった。

 6月には、金属回収運動に応じて歌舞伎座の金属製の装飾具や銅瓦が取り外された。6月5日のミッドウェー海戦で日本は決定的敗北を喫し、敗戦への坂道を転げ落ち始めるが、国民には戦況の実態が知らされることなく、この月、菊五郎満州建国10周年慶祝芸能使節として中国大陸に渡った。「金をもらっちゃぁ辞退するけど只でなら行く」というのがいかにも六代目らしい。

 明けて18年1月、大阪歌舞伎座坂東鶴之助が四代目中村富十郎を襲名し、8月に中座で『鏡獅子』を出した折、長男の現富十郎が胡蝶に扮し、四代目鶴之助として初舞台を踏んだ。このとき稽古をつけたのが九代目團十郎の『鏡獅子』初演時に胡蝶をつとめた二人の娘、旭梅・紅梅(のち翠扇)姉妹であった。

 戦時体制を強化するために密集地域の劇場に強制疎開命令が出た同年3月、情報局の指定を受けた前進座陸軍記念日委嘱公演が大当りし、前進座はこの時期、時代の寵児と呼ばれた。当時の劇場は客層が一変し、国民服の「産業戦士」が大多数を占め、戦時下であればこそ苦しい現実に疲れた心を癒せるような夢のある穏やかな舞台が好まれるかと思えばさにあらず、観客は意気を高揚させる刺激的な作品を求め、この要望に応えた前進座の勢いは低迷する新派とまさに対照的であった。

 5月22日、不世出の名人と呼ばれた五代目清元延寿太夫が81歳で歿する。羽左衛門梅幸のコンビで復活され、今も人気の高い舞踊の『かさね』の哀切な調べは、延寿太夫の美声なくして成功し得なかったといわれる。

 東京が市から都に改められたのは、この年7月1日のことである。翌8月頃から、空襲に備えて上野動物園のライオンや象などの毒殺が開始された。9月8日にイタリアが無条件降伏するが、日本は退くどころか女子挺身隊の動員を決定し、10月には学徒出陣が開始される。

 人心の荒廃に追い打ちをかけるかのように、9月10日の鳥取地震は1千人余の 犠牲者を出し、その中に六代目大谷友右衛門がいた。そもそも友右衛門にとっては気の進まない巡業であったが、不入で同じ興行師に損をさせたことがあり、律儀な友右衛門は穴埋めのために座頭として大黒座に出向き、『義賢最期』上演中に電柱も抜けるような大地震に襲われたのである。友右衛門は全員を避難させ、楽屋に戻った途端、大きな揺り返しが来て落ちた梁の下敷きになった。享年58。歌右衛門門下の中村鷺助を父に持ち、翫兵衛、おもちゃ、駒助、東蔵を経て、大正9年7月に友右衛門を襲名。大名題に出世したのちも些かも慢心することなく、常に謙遜の気持ちを忘れない温和な人柄は信望を集め、どの一座に出ても見事な調和を見せた。舞台にいるだけで芝居が引き締まり、観客が安心する、そんな存在感のある貴重な脇役であった。息子の現雀右衛門は当時スマトラに従軍中で、現地の新聞で父の訃報に接したが、21年10月に帰還するまで詳しい事情を知る術はなかった。

 18年10月、情報局の命令により、当時発行されていた6つの演劇雑誌(東宝、国民演劇、演劇、現代演劇、宝塚歌劇および演芸画報)はすべて廃刊に追い込まれ、演芸画報明治40年1月創刊以来36年余の歴史に終止符を打った。新たに研究評論雑誌「日本演劇」と鑑賞指導雑誌「演劇界」を創刊することが決定され、そのために設立された日本演劇社の初代社長に岡鬼太郎が就任するが、その岡が直後の10月29日に急死し、後任は久保田万太郎に決まった。岡は新聞社出身で、『小猿七之助』『今様薩摩歌』をはじめとする劇作のほか小説や演出でも様々な活躍を見せたが、本領は辛辣な劇評にあり、特に吉右衛門に対しては、吉右衛門の亡母から将来を頼まれた責任から「君を褒める人は他にあろう。悪いところを注意して良くなって貰うことが私の役目だ」と明言して常に厳しい批評を与え、時には吉右衛門が真剣に役者をやめようかと悩むほどであった。しかし、真に歌舞伎を愛するがゆえの辛辣な批評には真心があふれていた。

 18年12月22日、歌舞伎座で『勧進帳』記録映画が撮影された。幸四郎の弁慶、羽左衛門の富樫、菊五郎義経という当時最高の配役。「順に75、70、59という年齢を考えれば最後のチャンスかも知れない。何としても記録に残しておきたい」という関係者の願いが実現したもので、今に残る貴重な資料である。時節柄フィルムは不足していたが、情報局が特別支給の計らいをし、東宝も最新の撮影機を提供して協力した。5台のライトと6台の撮影機を設置して行われた本番では3人とも素晴らしい熱演で、特に幸四郎の弁慶は「延年の舞であんなに飛び上がったのを見たことがない」と言われるほどであった。5月に文部大臣邸で最初の試写会が開かれ、優良映画として文部省選奨の指定を受ける。この時、羽左衛門は「もう2、3度これを見てからやれば、アッシの富樫はもっとうまくなりますね」と言ったというが、考えてみれば、ビデオなどない当時の役者は自分の演技を観ることなどできなかったのだ。先輩の舞台を見て、肚に入れ、次の世代に伝えてきた。そのことの重さを改めて感じさせる一言である。一方、菊五郎はこの映画を決して見ようとしなかった。五代目歌右衛門義経が強烈に眼に残っているから、どうにも見たくないと言ったそうだ。これはこれで、やはり六代目らしい言葉と言えるだろう。

 敗色がいよいよ強まる中、19年2月に発令された決戦非常措置要綱に基づき、3月5日付で全国の大劇場が一斉休場のやむなきに至った。歌舞伎座は3月の演目も決定していたが、2月興行を25日に打ち切った。その後、東京都の臨時公会堂として短期の慰安公演が2回行われるものの、歌舞伎座は休場を解かれないまま25年5月の空襲で焼失してしまうため、この2月興行が歌舞伎座にとって戦前最後の大歌舞伎となる。3月の東京では唯一、邦楽座で『忠臣蔵』が上演され、寿美蔵(寿海)が7役早替りで奮闘したが、紙不足で筋書の発行もままならず、廊下の壁一面に配役表を貼り出すのがやっとで、非常措置令に人々はおびえ、客足は伸びなかった。戦意昂揚を図ろうとした当局の措置は裏目に出たと言わざるを得ず、まもなく東京では新橋演舞場明治座2座、全国で合計6座の再開が認められるが、演目の規制はさらに強まり、1回の興行を2時間半までに限定された上、1日2回興行の場合は2回とも同じ演目を繰り返すよう命じられた。思い通りの狂言立ては許されない。衣裳も道具も何もかもが足りない。観客の側にも芝居を楽しむ余裕がない。ないない尽くしの中で必死に舞台を勤めるしかなかった当時の役者にとっては特に同じ芝居を繰り返すことが大きな苦痛を伴い、舞台の意気はあがらなかった。様々な制約を受けながら、どうにか興行を続けていた新橋演舞場を出て、歌舞伎座の前を通ると「一時休業仕候」と書いた札が下がっている。それは、好劇家にとってたまらなく寂しい風景であった。

 マリアナ沖海戦の敗退、サイパン島陥落、東条英機内閣総辞職 …。 そして11月24日、東京は初めて空襲にあう。警報が鳴ればすぐさま興行を中止せざるを得ない。まさに芝居どころではない。劇界にとって未曽有の受難の時代は今や暗澹の度を増すばかりであった。

昭和20年~22年

 昭和20年1月、新橋演舞場菊五郎一座で、明治座吉右衛門一座で、そして浅草松竹座は猿之助一座で、いずれも足りない物資をどうにかやりくりして初春興行の幕を開けた。しかし、空襲はいよいよ激しさを増し、10万人余の死者を出した3月10日未明の東京大空襲明治座と浅草松竹座を灰にした。その5日後には大阪で中座・角座ほか主な劇場のほとんどが焼失し、宗右衛門町の防空壕の中から中村魁車の亡骸が発見された。孫をしっかりと抱いたまま黒こげになった哀れな最期は人々の涙を誘った。享年69。立役、敵役、老役、二枚目と何でもこなす幅広い芸域の中でも女形を本領とし、いかにも上方風の粘りのある芸風で往時は初代鴈治郎の相手役を梅玉と争った逸材であった。

 連日の空襲警報で満足に芝居ができない状態であったが、演舞場5月興行に臨んだ菊五郎はただならぬ意気込みを見せ、『棒しばり』終演後、客席に向かって「私の死に場所は舞台以外にございません!」と叫んだ。折しも警戒警報発令。しかし、すぐに幕を開けるという菊五郎の呼びかけに応じて、誰ひとり席を立とうとはしない。警報解除と同時に鳴り響いた拍子木の冴えた音を観客は嵐のような拍手で迎えた。菊五郎が辞世の句「まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで」を詠み、「芸術院六代尾上菊五郎居士」と戒名を定めたのもこの時である。

 この公演中の5月6日、信州湯田中の温泉に疎開していた十五代目市村羽左衛門が心臓麻痺で急逝した。享年72。「橘や細い幹でも十五代」との扇面句で襲名を飾って以来40年余、まったく年を感じさせることなく、常に光り輝くような明るさと華やかな芸で万人を魅了した花の役者の静かな散り際であった。彼を愛した人々はその死に悲嘆の影を落とすことを望まず「歌舞伎座が焼けることも日本の敗戦も知らずに逝ったのは幸せだった」と口々に言った。羽左衛門の日本人離れした容姿は、日本の外交に寄与したフランスの将軍ル・ジャンドルを父とし、旧華族の御落胤を母とするハーフだという「羽左衛門伝説」を生んだ。その真偽はさておき、たとえ羽左衛門がハーフであったとしても、それが何であろう。羽左衛門の出自がどうであれ、あの天性の魅力はいささかも翳るものではない。

 歌舞伎座が焼失したのは羽左衛門の死後わずか3週間足らずの5月25日。B29 470の大空襲による被災であった。新橋演舞場も外壁のみを残して崩落し、東京は主だった劇場のほとんどを失ってしまう。東西を問わず次々に焦土と化してゆく無数の街。15年に及んだ戦火は終幕に向かっていよいよ炎の勢いを増し、8月6日、広島に原爆投下。その2日後の8日に、かろうじて焼け残った東京劇場で猿之助一座が戦災者慰安興行の初日を開けた。が、一座の中にも疎開者が多く、近郊にいても交通手段がままならないため、実際に出演した役者はわずか7人であった。翌9日には長崎に原爆が投下され、8月15日、昭和天皇ポツダム宣言受諾詔書が放送される。戦争が終わった! 猿之助一座は9月1日に早速、東劇の幕を開けたが、出し物のひとつは終戦直前の興行と同じ『東海道中膝栗毛』で、歌舞伎座での上演時には何十人もの遊女がそろいの浴衣で伊勢音頭を踊った「古市の廊」の場では、腰元姿の遊女がたった1人。しかもそれは、とうの昔に役者を廃業して振付師になっていた坂東三津之丞であった。長い戦争の末に敗戦国となった日本の究極的な物資不足・人手不足の中での必死の興行。猿之助は、もうひとつの狂言『黒塚』の鬼の隈取を白羽二重に写し、万感の思いを込めて「平和国家建設第一の歌舞伎上演」と書き添えた。

 続いて10月、戦後初の日本映画「そよかぜ」の主題歌となった並木路子「リンゴの唄」の大ヒットを背景に、帝国劇場が1年半ぶりで開場し、菊五郎一座の『銀座復興』と『鏡獅子』で幕を開けた。新宿第一劇場では、それまでのエノケン一座らの公演に代わって寿海・仁左衛門らが『沓掛時次郎』と『白浪五人男』を上演したが、弁天小僧が使う豆絞りの手拭いがどうにも手に入らず、さらしの手拭いに筆でポツポツと点を描くという苦肉の策。黒縮緬に菊の枝が決まりの衣裳も絽の着物で代用せざるを得なかった。勢揃いの場の五人男の衣裳は、映画の方からどうにか数は調達できたが模様はでたらめ。それでも、物資の不足を嘆く声こそあれ、不満をもらす観客はひとりもいなかった。

 このとき弁天小僧を演じた仁左衛門の一家が凄惨な悲劇に襲われたのは21年3月中旬のことである。午前11時頃、仁左衛門の岳父にあたる杵屋彦十郎夫婦が千駄ヶ谷仁左衛門宅を訪れたところ、締め切ったままなので不審に思い、近所の人の立会いで中に入ると、仁左衛門夫婦、息子の三郎および使用人2人の計5名が惨殺されていた。犯人は座付作者として住み込んでいた22歳の男で、殺された使用人の1人は犯人の実の妹であった。苦しい生活の中、給金や食事の不満から折合いが悪くなり、仁左衛門はこの男に「出て行け」と引導を渡す。「4月興行の原稿を書いたら金をやるから、それで身の振り方をつけたらよかろう」と言われて必死で脚本を書いたのに「それでも作者か」とさんざんにけなされ、寝つれぬまま用を足そうと廊下に出た時、薪割りの鉈がふと目にとまり、途端に殺意が起こった、と男は供述している。この事件は戦後の食糧難が生んだ悲劇としてセンセーショナルに報道され、翌22年11月、東京地方裁判所無期懲役の判決が下った。

 終戦とともに内務省・警視庁による演劇統制は廃止された。しかし、これは歌舞伎の解放を意味するものではなかった。占領軍は「封建主義に基礎を置く忠誠・仇討を扱った歌舞伎劇は現代的世界とは相容れない」との姿勢を示し、11月の東劇で上演中の『寺子屋』はこれに抵触するものとみなされ、興行中止の憂き目にあう。戦時中、日本の情報局が奨励した芝居のすべてを占領軍は厳禁とした。まさに180度の転換を求める新たな弾圧の始まりであった。歌舞伎に限らずすべての演劇興行について、初日1週間前に英文による筋書一部と和英両文の台本各2部を米軍民間情報教育部に提出することが義務づけられ、興行会社は翻訳者のかき集めに奔走した。続いて、上演する演目の30パーセント以上を新作にするよう指示され、さらに不適格戯曲の標準13箇条が追告されるに至り、これに震撼した関係者は必死で当局との折衝にあたった。幸い演劇学校出身の米軍検閲課長ボラクが理解を示し、封建的忠義、婦人の貶下および侵略的英雄の3つに該当するもの以外は許可されることになり、関係者が胸をなでおろしたのも束の間、後任のキース中尉は取締りを強化し、新作の割合を50パーセントに高めよと迫った。古典の継承を大きな柱とする歌舞伎にとって、また特に伝統的な時代物を得意とする吉右衛門にとっては過酷な要求であったが、キース中尉に間もなく帰国の命令が下ったことから状況は好転し始める。後任のアーンストはのちにハワイ大学で東西演劇センターを創設した人物であり、次いで着任したフォービアン・バワーズ少佐は歌舞伎が大好きで、マッカーサー元帥の副官という地位を捨て、給料半減もいとわず検閲官に就任したのである。

 バワーズ少佐の努力によって21年6月には『勧進帳』が禁を解かれ、翌22年5月、戦後初の團菊祭における『菅原伝授手習鑑』の通し上演を経て、11月には最大の難物といわれた『仮名手本忠臣蔵』の通し上演が実現した。因縁の『寺子屋』では、菊五郎の松王丸、吉右衛門の源蔵、三代目時蔵の戸浪、七代目宗十郎の千代、六代目歌右衛門の御台様という錚々たる顔ぶれの中、市川男寅(現左團次)が菅秀才で初舞台を踏んだ。『忠臣蔵』はバワーズ自身が配役に乗り出したオールスターキャストで、前売券は即日完売。千秋楽の翌日を特別招待日として皇后・皇太后両陛下を迎え、幕間に菊五郎が俳優代表として挨拶をした。宮城遥拝を日課としていた菊五郎を筆頭に、長い長い戦争の間、歌舞伎の灯を消してはならぬと必死の努力を続けてきた関係者の喜びはいかばかりであったろう。歌舞伎がその真髄を全く知らぬ者たちの手で蹂躙され、不合理な統制への従属を余儀なくされた暗黒の時代がようやく終わりを告げたのである。

 19年3月の決戦非常措置以来、軍需工場となっていた東京宝塚劇場は、終戦の約1ヶ月後に開場し、長谷川一夫の『鷺娘』を核とする東宝芸能大会は大入満員を記録した。しかし、再開場の喜びは長くは続かず、この年クリスマスイブに占領軍に接収されてしまう。沖縄で戦死した従軍記者アーネスト・パイルの愛称にちなんで「アーニーパイル劇場」と改称され、以来30年1月の接収解除まで占領軍関係者専用の娯楽施設として使用された。激動の時代をくぐり抜けてきた東宝劇場であるが、戦後50年余を経て老朽化は否めず、平成9年末には閉館され、外壁をびっしり埋めるファンの落書きとともに消え去った。13年1月オープンの新たな劇場ビルは、どのような歴史を刻むのだろうか。

 一方、三越劇場は、21年2月に吉右衛門一座による第1回三越歌舞伎で開場を祝った。百貨店のホールが映画館に改造された例はあるが、劇場にしたのは三越が初めてで、終戦直後で商業劇場が数えるほどしかなかった当時、多くの好劇家を集め、固定客を獲得していく。三越歌舞伎は24年末までほぼ毎月続くが、25年2月を最後に若手の修行場となり、それも同年末には途絶えてしまった。以後、53までの28間に三越劇場で行われた歌舞伎公演はわずか6回。しかし、平成4年の再スタート以来、毎年1回のペースで開催されており、4年目の8年7月には、三越劇場開場当時の世代にとって孫にあたる新三之助が清新な魅力をふりまいた。

 22年10月末封切の邦画「春の饗宴」は、笠置シヅ子の大ヒット「東京ブギウギ」を生んだ。その明るく軽快なリズムは、人々に新しい時代の到来を実感させたに違いない。

昭和23年~25年

 戦後の復興が着々と進む中、昭和23年1月、大阪道頓堀に中座が再建された。東京では歌舞伎公演の場がほぼ東劇と三越劇場のみに限られていたところへ、新橋演舞場が3月にまず「東をどり」で幕を開け、4月から歌舞伎の新しい小屋として復活。その開場式は3月18日に華々しく行われ、松竹は東劇の広太郎改め七代目大谷友右衛門(のち四代目中村雀右衛門)の襲名披露興行を1日休業とし、東劇出演中の幸四郎菊五郎らが『寿式三番叟』と『お染久松道行』を上演した。

 その同じ日に、大阪で三代目中村梅玉が逝った。享年74。長く中村鴈治郎の女房として控えめな舞台を淡々と勤めていたが、戦後、菊五郎の懇請を受けて上京。『吉田屋』の夕霧、『摂州合邦辻』の玉手御前などの当たり役を演じ、古風な味わいが絶賛された。この優の魅力を戸板康二は「押絵の感触のやうな古典美」と評している(演劇界増刊「百人の歌舞伎俳優」)。

 3月の劇界はさらに、劇作家真山青果を喪う。周知の通り、代表作『元禄忠臣蔵』をはじめとして、台詞を重視し心の機微を巧みに描いた青果の新作歌舞伎は現在も人気が高く、息女である真山美保氏の演出で盛んに上演されている。青果はまた、西鶴の研究者としても知られている。

 翌24年1月27日、不世出の弁慶役者、七代目松本幸四郎が80年の生涯を閉じた。容姿、声量、風格に恵まれ、九代目團十郎を師としてその芸脈を踏襲しつつ、新作歌舞伎にも意欲を燃やし、さらに藤間流家元として舞踊の発展にも貢献した。高齢ながら健康で、亡くなる前月まで舞台を勤め、最後の役は新橋演舞場天一坊』の大岡越前と『野崎村』の久作であった。幸四郎の名を二男染五郎に、また家元を三男松緑に譲って引退し、藤間勘斎を名乗ることを決め、同時に長男海老蔵の十一代目團十郎襲名披露の計画もでき上がっていたという。病弱な海老蔵は手元に置いたが、染五郎吉右衛門に、松緑菊五郎に委ね、いずれも花形として大成させた功績は大きい。三代目寿海襲名が決まり大阪につめていた寿美蔵のために、代理の弟子に披露狂言助六由縁江戸桜』の型を懇切丁寧に教え、その翌日の逝去であったから、寿美蔵の感慨は深く、初日の大阪歌舞伎座ホールに祭壇を設け、助六の舞台姿で祈りを捧げた。前年3月の襲名と同時に幸四郎の娘婿となった友右衛門は、「復員した後のわびしい、すさんだ気持ちを一番すくってくれたのがおぢさんでした。とっても、あたたかく感じられたんです」と、岳父への敬愛を述べている(「演劇界」昭和24年2月号「父を語る」)。幸四郎の葬儀は東劇で初の劇場葬として営まれ、天皇陛下からも御菓子料を賜り、築地署から交通整理の要員が出動するほどの盛儀であった。

 その後わずか1か月余の3月2日、幸四郎とともに長く帝劇の幹部であった七代目澤村宗十郎が急逝した。地方巡業で『仮名手本忠臣蔵』五段目の勘平を演じ、花道から揚幕内に駆け込んだ途端に倒れ、昏睡状態のまま翌々日に不帰の客となったのである。和事を得意とい、そのねっとりとした艶のある芸と錦絵のごとき風格は一種異様な魅力を放った。再び戸板康二の評を引けば「セリフをいふ時に顔の筋肉を動かし、動作に伴なって、身体全体が、うねりを生じた(中略)粘っこさ、コク、煮つめられた味。われわれに、ある意味で最後の古典歌舞伎のうま酒を堪能させてくれた、稀れなる人」(演劇界増刊「百人の歌舞伎俳優」)であった。その強烈な個性は「宗十郎歌舞伎」の言葉を生み、一般受けはしなかったが、一部の観客に激賞された。享年75。九代目宗十郎藤十郎兄弟と田之助・由次郎兄弟の祖父にあたる。

 相次ぐ老優の長逝。しかし弔事はこれで終わらなかった。六代目の死! それは歌舞伎を愛する人々が最も恐れていた悲報であった。4月興行の2日目に眼底出血を伴う腎臓病の発作で倒れて以来、病床にあった菊五郎の全快を誰もが願い、信じていたのである。だが、一時は小康を得て若手の指導をするまでに回復しながら、舞台に立ち得ぬまま焦燥の日々を送っていた六代目は、7月10日、尿毒症のため急に昏睡状態に陥り、二度と目を開くことはなかった。築地本願寺で営まれた盛大な葬儀では、遺影の前に追贈の文化勲章と並んで、英国の名優ローレンス・オリヴィエが『リチャード三世』で使用した短剣が置かれた。菊五郎が彼に舞扇を添えて贈った『藤娘』の写真に対する返礼であった。舞台を離れた素顔の菊五郎は、濱村米蔵が「生まれながらの封建的なボスだったから、いつもあの人には知性の上の死角があった。それが時には生活の大部分を蔽うような場合があってそうなると全く完全な暴君なり暗君だった。それが六代目の周囲に、幕内以外で肝胆相照の友達を造らせなかった所以である」(「演劇界」昭和24年8月号「菊五郎を憶ふ」)と述べているとおり、難しい人物でもあった。しかし、その芸の素晴らしさに異論を唱えるものはない。殊に得意の生世話物で見せる姿の良さと面白さは他の追随を許さず、天才の名を欲しいままにした。菊五郎の通夜の晩、息子の梅幸・九朗右衛門、三世左團次らが集まり、一門の今後について話し合い、菊五郎劇団の結成を決定した。この会談は、家の中が弔問客であふれ、やむなく物干しで行われたため、のちに「物干し会談」として語られることになった。

 多くの名優が去った24年は暗黒の年と呼ばれ、劇界の天上に立ち込めた暗雲を何とか吹き飛ばそうとするかのように、同年9月には市川染五郎改め八代目松本幸四郎白鸚)および松本金太郎改め六代目市川染五郎(現幸四郎)の襲名披露に加えて片岡孝夫(現仁左衛門)が初舞台を踏み、翌25年1月には中村もしほ改め十七代目中村勘三郎の襲名披露、6月には坂東亀三郎(現彦三郎)の初舞台と慶事が続き、さらに市川海老蔵の十一代目市川團十郎襲名および中村芝翫の六代目中村歌右衛門襲名も具体的な段階に入った。あまりにも急速に世代交代が進んだこの年の歴史的意義は、戸部銀作の次の言葉に尽くされている。

 「1950年という年は、俳優から見た歌舞伎にとって、大きな転機をなした年なのである。前年、相ついで起った菊五郎幸四郎宗十郎の死は、従来若手といわれていた人々の第一線進出をうながし、技芸的な面からではなく、そうした他力本願の形式で、海老蔵幸四郎松緑の3兄弟に、勘三郎梅幸芝翫の3人は、未来の大立者たる位置を約束されてしまったのだ」(「幕間」昭和25年12月号「1950年度東京歌舞伎界-すべて明年以後に」)。

 深い喪失感に打ちひしがれた関係者の思いは、老境にさしかかったその他の俳優に及んだ。幸四郎羽左衛門菊五郎の『勧進帳』記録映画のごとく、彼等の舞台を残しておかなければ - 二代目實川延若の『楼門五三桐』、七代目板東三津五郎の『喜撰』や中村吉右衛門の『熊谷陣屋』などの映像が今日まで残された背景には、こうした関係者の焦燥感があった。だが、その作業は容易ではなかった。技術や装備の水準が現在とは較べものにならない当時のこと、音響テストだけで何時間もかかるうえに、全体をコマ割にして、花道で1コマ、本舞台にかかるとストップという具合。それを何度もテストしてからようやく本番なのだから役者の疲労は創造に難くない。すでに70を超えていた三津五郎は、収録を終えた途端、所作舞台にぐったりと座り込んだ。吉右衛門の場合も、熊谷の出まで1時間半もかかり、やっと芝居を始めたところでカメラが故障。怒って帰ろうとする播磨屋を新幸四郎が必死でなだめる一幕もあった。老優にはとんだ災難であったが、その甲斐あって今日の我々が往時の名舞台の片鱗をうかがうことができる。生まれ遅れた世代のひとりとして、舞台裏の事情をまったく感じさせないすばらしい演技に、一度でいいから彼等の舞台を生で見たかったという思いが募るばかりである。

 これらの記録映画とはまったく異色の映画作品に、東宝の「佐々木小次郎」がある。主演の大谷友右衛門(現雀右衛門)は、この映画を皮切りに銀幕のスターとして新しい道を歩き出した。時代劇ばかりではない。三船敏郎と共演した「海賊船」では船上のアクション・シーンを熱演している。契約をめぐって松竹との関係がこじれ、「歌舞伎界追放か?」と過激な報道がなされた時期もあった。実際、25年4月の東劇を最後に30年の復帰まで、友右衛門の艶やかな姿を歌舞伎の舞台に見ることはできない。

 25年12月、明治座は『仮名手本忠臣蔵』の通し上演で新築開場を祝った。そしてこの月、待ちに待った歌舞伎座の新築開場を知らせる広告が各演劇雑誌を飾る。いよいよ歌舞伎の殿堂の復活である。

 最後にちょっとした珍事を2つ。

 1つめは結婚詐汲フ話である。市川松蔦の名をかたり、劇場に自由に出入りして女子職員に自分を役者であると思い込ませ、たびたび彼女の家から金品を持ち出していた男が家人の通報で手配された。ある日、新橋駅前の交番で腹痛を訴えたこの男、またもや松蔦を名乗ったのだが、応対したのは誰あろう、役者を廃業して警官となっていたかつての坂東又太郎であった。たまたま又太郎にあたったのが運の尽き。あえなく逮捕と相成った。

 2つめは幕内の話。23年9月のことである。三越劇場に出演中の梅幸と九朗右衛門が楽屋で兄弟ゲンカをした。激した九朗右衛門がそばにあった灰皿(一説には弁当箱)を投げつけ、運悪く梅幸の顔を傷つけてしまった。梅幸はその日の舞台を眼帯姿で勤めたが、翌日から2人とも休演。代役が立った。ケンカの原因は不明だが、2人の休演は一種の謹慎処分だったのだろうか。