今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

2018-10-02から1日間の記事一覧

はじめに

もうはるか昔になりますが、平成7年11月から4年半にわたり、とある歌舞伎愛好会の会報誌にて、私家版歌舞伎史「今昔芝居暦(いまはむかししばやのうつろい)」大正・昭和版なる連載をさせて頂きました。 執筆の経験などまったくない素人なのに、「大正時代…

大正元年~3年

大正初期の各座の筋書をみると、市村座は表紙も中味もすべて勘亭流の文字で、少々読みにくいが、いかにも芝居らしい味わいがある。帝劇と歌舞伎座はすでに活字を用い、帝劇は美しい錦絵の表紙が特徴で、80年余り経った今でも色褪せていない。歌舞伎座の筋書…

大正4年~6年

大正4年初春正月、帝劇で三代目松本金太郎が満6歳で初舞台を踏んだ。父七代目幸四郎の山姥に快堂丸で 「親譲りの目千両」 と大喝采を浴びたこの少年がのちの十一代目團十郎である。男らしい名を、と選ばれた金太郎は父の本名でもあり、もともとは藤間の曽…

大正7年~9年

大正7年1月の歌舞伎座は、中村芝雀改め三代目雀右衛門の東京披露興行で幕を開けた。 新雀右衛門がお光を勤める「野崎村」の2日目、駕舁きの猿之助と亀蔵が羽左衛門の久松を乗せて仮花道に 掛かったところで客席に転げ込み、危うく久松も一緒に落ちるとこ…

大正10年~12年

大正11年1月、歌舞伎座は、歌右衛門、羽左衛門をはじめとする座付に左團次を加えて大々的大入を記録し 、市村座では当代中村又五郎丈が「茲江戸小腕達引(腕の喜三郎)」で吉右衛門演じる喜三郎の倅喜之松とし て初舞台を踏んだ。5月には四代目尾上丑之助…

大正13年~15年(昭和元年)

大正12年9月1日の大震災で焦土と化した東京では、各劇場が復興を急ぎ、震災に耐えて直後の10月から 興行していた麻布南座に加えて、末広座も麻布明治座と改め、翌13年1月から左團次一座の『鳥辺山心中』等 で開場した。2月の明治座は歌右衛門が当たり狂…

昭和2年~4年

昭和元年がわずか1週間で明けたのち、2年1月の市村座で現雀右衛門丈が大谷広太郎を名のり、6歳の初舞台を飾った。『菅原伝授手習鑑』を子役用に書き直した『幼字劇書初(おさなもじかぶきのかきぞめ)』で八重丸(桜丸)の役。「車引」の場では故梅幸丈…

昭和5年~7年

昭和5年1月1日、大阪で文楽座が開場した。3月29日には梅幸の翁、羽左衛門の千歳、菊五郎の三番叟という華やかな顔ぶれが東京劇場の幕開きを飾った。この『式三番』は、その立派さに開場式3日間だけでは惜しいというので延長され、4月1日の初日から千…

昭和8年~10年

昭和8年1月、新歌舞伎座(のち新宿第一劇場と改称)は青年歌舞伎の一座で初春の幕を開けた。青年歌舞伎はこの頃から定例化し、現歌右衛門は『鎌倉三代記』の時姫などの大役に挑戦する機会を与えられ、女形の基礎を固めた。兄の五代目中村福助は胸に病を得…

昭和11年~13年

昭和11年1月、歌舞伎座の初春興行は、十二代目片岡我童改め十二代目片岡仁左衛門の襲名披露で賑わいを見せた。「まだまだ未熟な私、仁左衛門はおろか、一左衛門を襲ぐ資格とても御座りませぬが…」と軽妙なユーモアで会場を湧かせた美貌の女形は、六代目梅幸…

昭和14年~16年

この3年間には、後に十一代目市川團十郎となる七代目松本幸四郎の長男高麗蔵が市川三升と養子縁組をして九代目市川海老蔵と改名したほか、片岡我當、澤村田之助、澤村宗十郎、中村鴈治郎らが初舞台を飾っている。一方、歌舞伎界は昭和15年に2人の名優を永…

昭和17年~19年

太平洋戦争が2年目に入ると、国民はますます耐乏生活を強いられ、娯楽も限定される中、劇場の観客数はむしろ増加した。しかし、衣料品点数切符制の実施に伴い舞台衣裳を新調することが難かしくなった上に、電力節減のため照明にも制約が加わる。資材不足の…

昭和20年~22年

昭和20年1月、新橋演舞場は菊五郎一座で、明治座は吉右衛門一座で、そして浅草松竹座は猿之助一座で、いずれも足りない物資をどうにかやりくりして初春興行の幕を開けた。しかし、空襲はいよいよ激しさを増し、10万人余の死者を出した3月10日未明の東京大…

昭和23年~25年

戦後の復興が着々と進む中、昭和23年1月、大阪道頓堀に中座が再建された。東京では歌舞伎公演の場がほぼ東劇と三越劇場のみに限られていたところへ、新橋演舞場が3月にまず「東をどり」で幕を開け、4月から歌舞伎の新しい小屋として復活。その開場式は3月…

昭和26年~28年

戦火に焼け落ちて以来5年半余を経て、歌舞伎座はようやく、昭和26年1月3日に待望の新築開場式を挙行した。柿落しの演目は、三津五郎、猿之助、時蔵の『寿式三番叟』と豪華な顔ぶれの『華競歌舞伎誕生』。5日初日の初興行には吉右衛門の当たり役『二条城…

昭和29年~31年

昭和29年2月封切の美空ひばり主演時代劇「ひよどり草紙」で、中村(のち萬屋)錦之助が銀幕デビューを飾った。この頃、大谷友右衛門(現中村雀右衛門)は舞台を離れて映画界にあり、中村扇雀(現鴈治郎)も年に数本の東宝映画に出演して扇雀ブームを巻き起…

昭和32年~34年

劇団制の枠を越えて夢の配役を実現した昭和30年7月の第1回東宝歌舞伎以降、劇界は流動的な展開を見せ始める。32年1月、東宝歌舞伎の生みの親である小林一三は84年の生涯を閉じるが、彼の志は受け継がれ、3月の大阪で梅田コマ劇場を舞台に、長谷川一夫の…

昭和35年~37年

昭和35年5月27日夜、初の歌舞伎アメリカ公演に向けて総勢63人の一行が羽田空港を飛び立った。日米修好百年記念の企画として国際文化振興会が2,700万円の渡航費を負担し、ニューヨーク・シティーセンターを皮切りに、ロサンゼルスはグリーク・シアターで野外…

昭和38年~40年

昭和30年代初めにピークを迎えた映画ブームも長くは続かず、38年に国産初の連続アニメ「鉄腕アトム」、40年には初のカラー・アニメ「ジャングル大帝」の放映が開始され、テレビはいよいよ娯楽の中心として庶民の生活に根づいていく。このような時代の変遷も…

昭和41年~43年

ビートルズの初来日に若者が熱狂した昭和41年、歌舞伎界でも若手のパワーが炸裂し、まずテレビドラマ「源義経」に主演した尾上菊之助(現菊五郎)の人気が爆発した。2月の東横ホールは菊之助が義経を演じる『勧進帳』が話題をさらい、三之助の活躍で開場以…

昭和44年~46年

昭和44年は高砂屋五代目中村福助の訃報で明けた。かねてから病気療養中のところ、元日に58年の生涯を閉じた。名女形として名高い三代目中村梅玉の息子で、自身はその立派な体格を活かして敵役を得意とし、座頭格の風格を持ちながら、関西歌舞伎の衰退に伴っ…

昭和47年~49年

昭和47年3月、国立劇場歌舞伎俳優研修第1期生の10名が2年間の研修課程を終え、卒業公演として、長唄・義太夫・舞踊のほか『義経千本桜』の「吉野山道行」と『絵本太功記』十段目「尼ヶ崎閑居の場」を上演した。2日間とも満員札止め、通路まで立見客が居…

昭和50年~52年

昭和50年という節目の年が明けてまもなく、八代目坂東三津五郎の訃報が劇界を駆け抜けた。南座初春歌舞伎『お吟さま』に出演中のところ、ふぐ中毒による急逝であった。簔助時代には「梨園の反逆児」と呼ばれ、東宝専属の舞台俳優第1号となり、社会部の事件…

昭和53年~55年

昭和53年2月の歌舞伎座は、菊五郎劇団30周年記念公演と銘打ち、『魚屋宗五郎』『藤娘』『うかれ坊主』『御所五郎蔵』など六代目尾上菊五郎が当り役とした演目を並べ、全員総出演の『かっぽれ』には、91歳になる尾上多賀之丞が尾上梅幸に手を引かれて元気な…

昭和56年~58年

松竹株式会社発行「松竹百年史」をひも解いてみると、昭和59年の項に「松竹にとって大きな試練の年」とある。これは恐らく同項記載の社長交代を意味するものと思われ、2月8日の大谷隆三社長宅の失火全焼は永山武臣・奥山融両副社長が世間を騒がせた不祥事…

昭和59年~61年

松竹株式会社発行「松竹百年史」をひも解いてみると、昭和59年の項に「松竹にとって大きな試練の年」とある。これは恐らく同項記載の社長交代を意味するものと思われ、2月8日の大谷隆三社長宅の失火全焼は永山武臣・奥山融両副社長が世間を騒がせた不祥事…

昭和62年~64年

昭和62年1月の歌舞伎座『門出二人桃太郎』で、二代目中村勘太郎と二代目中村七之助の兄弟が初舞台を踏んだ。父中村勘九郎の初舞台『昔噺桃太郎』から28年。2人の桃太郎を育てる老夫婦には中村勘三郎と中村芝翫の両祖父が扮し、中村歌右衛門、尾上梅幸、片…