今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和56年~58年

 松竹株式会社発行「松竹百年史」をひも解いてみると、昭和59年の項に「松竹にとって大きな試練の年」とある。これは恐らく同項記載の社長交代を意味するものと思われ、2月8日の大谷隆三社長宅の失火全焼は永山武臣・奥山融両副社長が世間を騒がせた不祥事として記者会見で謝罪する事態に発展し、5月の取締役会において大谷氏は辞任し永山氏が社長に就任した(現会長)。創業以来常に白井・大谷一族が社長の座を占めてきた松竹は、永山氏を舵取りに新しい時代に漕ぎ出していく。

 この年、2月の歌舞伎座『絵本牛若丸』で六代目尾上丑之助(現菊之助)が初舞台を踏み、3月には中座で北上弥太郎が32年ぶりに映画界から復帰し、亡父嵐吉三郎名跡を八代目として襲名した。一方、同じく歌舞伎界を出てスターになった長谷川一夫が4月に、大川橋蔵が12月に帰らぬ人となった。

 長谷川一夫が出演した映画は300本を超え、座長公演の東宝歌舞伎は30年近く続いた。初代鴈治郎門下の若手女形・林長丸時代には美しさのあまり、同じ腰元役で花道から登場する息子の福助が引き立たないと考えた五代目中村歌右衛門の一言で遠ざけられたというエピソードがある。「美しい不死鳥」と呼ばれた永遠の二枚目は静かに芸暦70年の人生を終えた。

 大川橋蔵は市川男女丸として初舞台を踏み、六代目尾上菊五郎の母方丹羽家の養子となって二代目大川橋蔵を襲名した(初代は三代目菊五郎の後名)。20年に及ぶ女形修行を経て菊五郎劇団在籍のまま東映に入社し、萬屋錦之助とともに東映時代劇の二枚看板を張る。42年以来、12月は歌舞伎座での特別公演が恒例となり、おなじみの「銭形平次」と女形の舞踊を披露していた。55歳の早世は惜しんで余りある。橋蔵の良きライバルであった錦之助は、難病の重筋無力症で長期療養を続けていたが、60年5月の梅田コマ劇場で3年ぶりに舞台復帰を果した。

 60年は市川海老蔵の亡父十一代目市川團十郎の歿後20年祭と松竹創立90年の節目にあたり、まさに團十郎に始まり團十郎に終わる1年となった。58年6月末の記者会見以来、江戸歌舞伎の総帥たる重要な名跡の復活に向けて着々と準備が進み、歌舞伎座での襲名披露は4~6月。早くも1年前に演目が発表され、成田山での「お練り」を皮切りに、團十郎発祥顕彰碑の建設、政財界の重鎮がずらりと並ぶ襲名披露パーティー、様々な展示会、初代團十郎の生涯を描いたドラマ「花道は炎のごとく」の放映などキャンペーンも怠りなく、歌舞伎座は劇場の手直しに4億5千万円をかけて万全を期した。4月分の前売には3日前から泊まり込んだ徹夜組を含めて2500人の長蛇の列ができ、1日で1万枚余をさばく新記録。顔寄せ手打式の一般公開も大盛況で、式の終了後、十一代目の与三郎、歌右衛門のお富、中村勘三郎の蝙蝠安、市川猿翁の多左衛門による昭和31年歌舞伎座上演『源氏店』のビデオが上映され、團十郎襲名からわずか3年で逝った先代を偲んだ。2階のロビーに山と積まれた贈答品のうち、九代目團十郎の書画4枚を貼り合わせた大きな屏風は六代目菊五郎未亡人から贈られたもので、芝居好きの目を釘付けにした。

 新團十郎の役は『勧進帳』弁慶と『助六由縁江戸桜』助六で、揚巻を演じた歌右衛門は、これまでに舞台で着用した前田青邨東山魁夷ら大家の揮毫した打掛け全6種を数日替りで披露した。

 5月には弁慶に『外郎売』曽我五郎と『暫』鎌倉権五郎を加え、『外郎売』では前年に初御目見得を済ませた息子の孝俊が貴甘坊と称するチビッコ外郎売に扮し、七代目市川新之助を襲名した。

 6月の披露狂言は『助六由縁江戸桜』『若き日の信長』『鳴神』の3本。この3ヵ月の観客動員数35万人、出演した歌舞伎役者は延べ442人、興行収入は30億円に達した。

 「世紀の襲名」は休む間もなく、7~8月はニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルスの3都市を回った。ワシントンでは海外初の船乗込みが実現し、その様子は全米に放映された。帰国後さらに10月の御園座、12月の南座、翌年4月の大阪新歌舞伎座を打ち上げ、6月末から9月末まで全国を巡演。初めての「興行中止保険」が掛けられたほど壮絶な日程に健康を心配する周囲の声もどこ吹く風、当の成田屋は「やせるどころか太っちゃいましたよ」と呵々大笑したというから頼もしい。

 市川猿之助の奮闘ぶりは毎回お伝えしているところだが、スケジュールの関係から團十郎襲名披露への参加を見合わせた猿之助は、59年3月にパリ・シャトレ劇場のオペラ『コックドール』で日本人として初めての演出に挑んだ。1ヵ月の稽古を積み言葉の壁を乗り越えて大成功をおさめた翌月には、明治座で四代目鶴屋南北の『四天王産湯玉川』と『戻橋背御摂』をつないで『土蜘』を加えた欲張りな新作『御贔屓繋馬』を初演。その後も5月中日劇場『当世流小栗判官』、7月歌舞伎座『独道中五十三駅』、9月南座義経千本桜』とヒット作を相次いで上演し、10月には文政4年の初演以来160年ぶりで南北の『菊宴月白浪』を復活した。翌60年5~6月には『義経千本桜』忠信編を引っ下げヨーロッパ5ヵ国8都市を巡演。猿之助の株式会社おもだか主催・松竹協力の形式は、官庁や興行会社でなく一俳優のプロダクションが大規模な海外公演を実現させた初めてのケースで、祖父猿翁の祥月命日に初日を迎えたベルリンでは『四の切』が上演700回を記録し、ヨーロッパ初の宙乗りは大喝采を浴びた。帰国後は即、7月の歌舞伎座で猿翁と亡父三代目市川段四郎の23回忌追善を機に『加賀見山再岩藤』を上演し、9月南座の追善では『菊宴月白浪』を再演。12月には歌舞伎座で『義経千本桜』忠信編の上演回数が通算1500回を超えた。さらに翌61年には、2月の新橋演舞場梅原猛原作のスーパーカブキ第1弾『ヤマトタケル』が登場し、同劇場での10~11月のロングラン特別公演中、幕切れの白鳥昇天の場面で、43年4月「四の切」での初挑戦以来18年目にして通算2000回目の宙乗りを達成した。その滞空時間は述べ100時間を超えたといわれる。

 歌舞伎の国外進出はますます隆盛で、59年4月には尾上梅幸ニューカレドニアで歌舞伎講座の講師を務め、翌5月には坂東玉三郎がニューヨーク・メトロポリタン・オペラハウス創立百周年記念祝典に招かれて『鷺娘』を踊り、6月には中村扇雀(現鴈治郎)がルイジアナ万国博覧会で歌舞伎を紹介し、8月にはリトルトーキョー百年祭記念で辰之助がロサンゼルスとサンフランシスコを回った。60年の海外公演は團十郎襲名披露のグランドカブキと猿之助の訪欧公演にとどまるが、翌61年には3~4月に澤村田之助坂東八十助らが南米4都市を巡演し、6月には片岡孝夫(現仁左衛門)と玉三郎の孝玉コンビがパリで『かさね』と『鳴神』を披露。8月には中村富十郎らが北米公演を成功させた。残念なことに、4月に予定されていた25五年ぶりのソ連公演は、結団式直後に発生したチェルノブイリ原発事故のために中止された。

 海外から歌舞伎へのアプローチとしては、59年9月にグルジア共和国首都トビリシ市で現地俳優による『心中天網島』上演の際に歌右衛門が招かれたほか、バレエ界の革命児として一世を風靡した20世紀バレエ団のモーリス・ベジャール東京バレエ団のために忠臣蔵の名場面を散りばめた「ザ・カブキ」を創作し、61年4月の東京文化会館からスタートしてヨーロッパ主要都市を巡演し、その様子を記録したNKHのドキュメンタリー番組が国際エミー賞公演芸術部門最優秀賞を受賞した。

 59年7月、テレビ番組の撮影で香川県琴平町の金丸座を訪れた中村吉右衛門澤村藤十郎中村勘九郎がこの小屋の素晴らしさに感嘆し、重要文化財として眠らせておくのはもったいないと復活を働きかけた熱意により、60年6月、第1回「こんぴら歌舞伎大芝居」が実現した。2日間4回公演の予定のところ人気のあまり公演を追加。以後、春の恒例となって徐々に公演日数を延長し、15周年の平成11年には、通常の春公演に加えて、オリジナルメンバーの1人である吉右衛門を迎えて秋公演を開催するに至った。

 勘九郎は59年8月、新橋演舞場の「日野皓正とすばらしき仲間たち」に参加し、日野のトランペットと鳴物の競演で『船弁慶』の後シテを踊った。13歳で『連獅子』の子獅子を演じた勘九郎の最年少記録は、60年3月の歌舞伎座で12歳の市川染五郎が父松本幸四郎との共演で更新。翌61年1月には歌舞伎座『盛綱陣屋』小三郎役で勘九郎の長男雅行が初御目見得し、4月には長男・次男そろって二代目中村勘太郎・二代目中村七之助を襲名することが発表され、9月には次男隆行も歌舞伎座『檻』祭の子勘吉の役で初御目見得をした。可愛い孫の慶事に目尻が下がりっぱなしの勘三郎は、大正5年の初舞台以来、70年間に演じた役の数が803にのぼり、ギネスブックに載ることとなった。

 61年10~12月の国立劇場開場20周年記念『仮名手本忠臣蔵』通し上演は、12万人を動員する大成功に終わった。この年の締めくくりに、歌舞伎座の裏方衆による恒例の忘年会特別企画「青吐騒最初絵姿 ― 不知五人男(あおとぞうしはなのにしきえ・しらないごにんおとこ)」で、忠臣蔵といえば歌舞伎チャンネルの解説にも登場されている松竹のプロデューサー岡崎哲也氏が弁天小僧を演じている。「慶應の歌舞研でならした弁天小僧は上手すぎるのが玉にキズ」との評から、その名優ぶりをご想像あれ。