今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和47年~49年

 昭和47年3月、国立劇場歌舞伎俳優研修第1期生の10名が2年間の研修課程を終え、卒業公演として、長唄義太夫・舞踊のほか『義経千本桜』の「吉野山道行」と『絵本太功記』十段目「尼ヶ崎閑居の場」を上演した。2日間とも満員札止め、通路まで立見客が居並ぶ盛況で、ひたむきな熱演に大きな拍手が贈られた。この2つの演目にさらに磨きをかけ、8月の第1回「稚魚の会」公演では一層の研究成果を披露した。「稚魚の会」の名付け親は主任講師の中村又五郎丈で、健やかに大きくなれよと願いつつ、若い彼らを大海に送り出す温かい親心が込められている。

 伝統歌舞伎保存会の預かりとして本名のまま各座に出演しながら1年間を過ごした第1期生は、48年4月、ワシントンで開催された「全米学生演劇祭」に招かれ、『双蝶々曲輪日記』の「角力場」や『菅原伝授手習鑑』の「車引」を演じ、だんまりや立廻りの型を紹介するなど、歌舞伎の使節団としての大役を果たした。帰国後はそれぞれ幹部俳優に入門し、その後に1名の脱落者を出したものの、残り9名は師匠にもらった名前で新たなスタートを切った。そのうち、尾上梅之丞、坂東八重蔵、中村紫若、中村勘之丞、中村吉三郎の5名が今も現役で活躍している。

 八代目松本幸四郎白鸚)も新たな一歩を踏み出し、47年4月、東宝との契約更改を機に専属契約を年間優先契約に切り替え、その約1年後に完全なフリーとなった。ここ数年、松竹や国立劇場との交流が増え、東宝の舞台には必要な時だけ立つという状態が続いてはいたものの、歌舞伎に不向きな帝劇の舞台構造と不慣れなスタッフに苛立ちながら10年余を耐えてきた幸四郎の胸には、専属の肩書きがとれた安堵感に加えて、東宝歌舞伎への情熱が報われずに終わったことへの空しさがあったのではないだろうか。無論、東宝での日々は無為ではなかった。幸四郎はすべての舞台に全力を尽くした。だが、一門を率いて東宝に身を投じた当初の理想は実現しなかった。ショー仕立ての華やかな舞台を望む東宝は、古典歌舞伎を本領とする幸四郎のあるべき場所ではなかった。フリーになるまでの経緯を幸四郎は「自然がこうなった。自然にはさからえない」と語り、かつてラジオの番組中に「幸四郎さんを東宝へお招きしたのは僕の誤りでした」と告白した菊田一夫は、48年4月に脳卒中でこの世を去った。

 47年5月の歌舞伎座では、十五代目市村羽左衛門27回忌追善を機に、十七代目羽左衛門の長男坂東薪水が二代目坂東亀蔵(現彦三郎)を継ぎ、二男竹松は二代目市村萬次郎と改名した。

 翌6月には、中村歌右衛門中村鴈治郎ら25名の役者を揃えた総勢63名の一行により、40年10月に続いて2度目の訪欧歌舞伎公演が実現し、ロンドンとミュンヘンで『仮名手本忠臣蔵 』(大序・三段目・四段目)と『隅田川』を披露した。海外公演の通算では10回目となる本公演も大成功に終わり、その帰国記者会見の席で、松竹の永山演劇担当重役(現会長)が質問攻めにあう。発端は、共同通信が各社に流した、尾上菊之助の七代目尾上菊五郎襲名が内定したという大ニュースであった。

 六代目の歿後すでに20年余。その間、実子の尾上九朗右衛門、養子とはいえ長男の尾上梅幸、愛弟子の尾上松緑、女婿の中村勘三郎らの名が浮かんでは消え、次世代の菊五郎候補として、梅幸の長男菊之助勘三郎の長男勘九郎の名ものぼっていた。それがいきなり世代をひとつ飛び越えて、菊之助が七代目を襲名するというのである。報道陣が色めき立つのも無理はなかった。

 永山氏は明言を避けたが、同時に松緑の長男辰之助が三代目菊五郎の俳名である梅寿を襲名するとも伝えられ、3月末に純子夫人を迎えたばかりの菊之助の身辺はにわかに騒がしくなった。

 新菊五郎の誕生に先駆けて、9月には四代目中村富十郎の13回忌追善を機に、その長男である市村竹之丞が五代目中村富十郎を襲名し、二男の栄治郎が中村亀鶴を名乗った。新富十郎には、39年に坂東鶴之助から竹之丞に改名した際、富十郎襲名の勧めを受けながら、当時まだ若年であった異母弟栄治郎の将来を慮って竹之丞になった経緯がある。今回は、すでに結婚して一児の父となった弟の祝福を受け、満を持しての襲名であった。

 七代目尾上菊五郎襲名の正式発表は10月末に行われ、翌48年の10月・11月の2ヵ月間、歌舞伎座で披露することになった。この時の会見では、辰之助は来秋に藤間流家元勘右衛門の名跡相続と結婚が予定されているため梅寿襲名は一時延期と発表され、一段落した頃に松緑が梅寿を名乗り、辰之助が三代目松緑を継ぐ可能性もあると報道されたが、いずれも実現を見ることはなかった。

 一方では、梅幸の遠慮からか、九朗右衛門が七代目を相続したのち菊之助に八代目を譲るという構想もあったが、健康上の理由で舞台を退き、米国カリフォルニア州ロングビーチ大学の演劇科で歌舞伎の指導にあたっていた九朗右衛門は、すでにその名前が米国で通用していることもあり、繁雑な事務手続を伴う改名を好まず、菊之助の七代目襲名を快く祝福した。

 尾上菊五郎という大名跡の相続は諸経費約10億円とも噂される一大プロジェクトとなり、様々なイベントが計画された。8月末には尾上菊之助・菊之丞の「よきこと会」発足披露会が催され、これが菊之助を名乗る最後の舞台となった。9月初めの前売開始には徹夜組が400人にのぼり、当日はあいにくの雨の中、過去最高の4500人余が行列を作った。浅草寺での恒例のお練りには、約350人の関係者に囲まれた新菊五郎を一目見ようと1万人もが殺到した。9月末には披露興行の顔寄せ手打式が公開され、いよいよ10月2日、奇しくも新菊五郎の31回目の誕生日に、七代目尾上菊五郎襲名披露興行が華やかに幕を開けた。

 六代目尾上菊五郎の功績があまりにも輝かしいため、七代目への重圧は大きい。だからこそ新菊五郎の誕生までに20年余の歳月を要したといわれる中で、「僕は僕なりの菊五郎を作っていきます」と言い切る新菊五郎の笑顔は爽やかであった。

 美貌の若女形坂東玉三郎の人気はうなぎ上りで、48年4月には23歳の誕生日を機に「青春(はる)の鏡」と題する朗読のLPレコードが発売され、篠山紀信による写真展も大盛況。市川海老蔵(現團十郎)との海老玉コンビに加えて片岡孝夫(現仁左衛門)との孝玉コンビもほぼ定着し、47年2月の中日劇場で孝夫を相手に、前進座の五代目河原崎国太郎から指導を受けて演じた『お染の七役』での大健闘は、若い玉三郎が看板となって公演を持つこと自体が快挙と言われたのみならず、その演技も高く評価された。平成10年3月の六代目国太郎襲名の際には、玉三郎が先代の孫にあたる新国太郎を指導し、恩返しを果たした。

 市川猿之助は現在もまもなく還暦とは思えないエネルギッシュな舞台を見せてくれるが、この猛優のすごいところは、その大車輪の勢いが何十年も続いていることである。48年5月の南座では、『加賀見山再岩藤』での宙乗り・7役早替りのほか舞踊を含めて12役出ずっぱりで奮闘し、翌年6月には同じ南座で、松竹新喜劇藤山寛美の発案で大成功をおさめたリクエスト方式に挑戦した。昼の部には本公演では200年ぶりの『楼門五三桐』通し上演でけれんをたっぷり見せた後、『奴道成寺』を踊り、夜の部には『二人三番叟』と『義経千本桜-鮓屋』に続き、『舞姿御贔屓澤瀉』と題して、猿翁十種の舞踊8本の中からその日の観客のリクエストに応じて演目を決めるという歌舞伎界初の試み。演目により、衣裳や背景のみならず地方(長唄常磐津・清元)も異なる点で、ある意味では松竹新喜劇以上の困難が伴う。猿之助の名前を冠した奮闘公演ならではの企画とはいえ、誰にでもできることではない。

 このリクエスト公演を機に猿之助と寛美の親交はますます深まり、翌7月の歌舞伎座『安宅の新関』には寛美が新橋演舞場との掛け持ちで友情出演し、演舞場から歌舞伎座まで寛美を乗せてひた走る人力車が大きな話題を呼んだ。

 猿之助のリクエスト公演に影響されてか、翌8月に8年ぶりで歌舞伎を上演することになった中座では、實川延若を主軸にすえ、上演狂言の決定を観客の要望に委ねた。応募総数1700通を超える投票の結果、「延若十種」とでもいうべきベスト・テンが選ばれ、その中から『夏祭浪花鑑』と『怪談乳房榎』が上演された。ベスト・テンにはそのほか『伊勢音頭』『鯉つかみ』『楼門五三桐』などが選ばれている。

 沖縄返還、日中国交回復、円の変動相場制導入などの歴史的な出来事に加えて、浅間山荘事件、大久保清の連続殺人事件などの暗いニュースが続いた。コインロッカーに新生児を置き去りにする事件が多発したのもこの時期である。テレビではザ・ドリフターズの「8時だよ! 全員集合」が視聴率五十パーセント超のお化け番組となり、ユリ・ゲラーは超能力ブームを巻き起こした。中東戦争に端を発したエネルギー危機が物価の高騰と物不足を招き、省エネ第一で照明も半減した暗い年末であったが、明けて49年、世の中が不景気になれば興行界はよくなるというジンクス通り、劇場も映画館も大入りが続いた。歌舞伎座は開場85周年を迎え、全体的な歌舞伎の公演数・観客数ともに急増した。

 この年、1月の歌舞伎座歌右衛門幸四郎の名コンビにより18年ぶりに『忍夜恋曲者』が復活上演され、6月には幸四郎日本芸術院賞に輝いた。その授賞式で思いがけなく幸四郎天皇陛下の会話が弾み、予定時間を10分以上も超過して関係者を慌てさせた。幸四郎が以前、東宝映画で陛下に扮した経験を語り、「そのときは大変に苦労いたしました」と申し上げると、陛下は呵呵大笑されたという。