今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和23年~25年

 戦後の復興が着々と進む中、昭和23年1月、大阪道頓堀に中座が再建された。東京では歌舞伎公演の場がほぼ東劇と三越劇場のみに限られていたところへ、新橋演舞場が3月にまず「東をどり」で幕を開け、4月から歌舞伎の新しい小屋として復活。その開場式は3月18日に華々しく行われ、松竹は東劇の広太郎改め七代目大谷友右衛門(のち四代目中村雀右衛門)の襲名披露興行を1日休業とし、東劇出演中の幸四郎菊五郎らが『寿式三番叟』と『お染久松道行』を上演した。

 その同じ日に、大阪で三代目中村梅玉が逝った。享年74。長く中村鴈治郎の女房として控えめな舞台を淡々と勤めていたが、戦後、菊五郎の懇請を受けて上京。『吉田屋』の夕霧、『摂州合邦辻』の玉手御前などの当たり役を演じ、古風な味わいが絶賛された。この優の魅力を戸板康二は「押絵の感触のやうな古典美」と評している(演劇界増刊「百人の歌舞伎俳優」)。

 3月の劇界はさらに、劇作家真山青果を喪う。周知の通り、代表作『元禄忠臣蔵』をはじめとして、台詞を重視し心の機微を巧みに描いた青果の新作歌舞伎は現在も人気が高く、息女である真山美保氏の演出で盛んに上演されている。青果はまた、西鶴の研究者としても知られている。

 翌24年1月27日、不世出の弁慶役者、七代目松本幸四郎が80年の生涯を閉じた。容姿、声量、風格に恵まれ、九代目團十郎を師としてその芸脈を踏襲しつつ、新作歌舞伎にも意欲を燃やし、さらに藤間流家元として舞踊の発展にも貢献した。高齢ながら健康で、亡くなる前月まで舞台を勤め、最後の役は新橋演舞場天一坊』の大岡越前と『野崎村』の久作であった。幸四郎の名を二男染五郎に、また家元を三男松緑に譲って引退し、藤間勘斎を名乗ることを決め、同時に長男海老蔵の十一代目團十郎襲名披露の計画もでき上がっていたという。病弱な海老蔵は手元に置いたが、染五郎吉右衛門に、松緑菊五郎に委ね、いずれも花形として大成させた功績は大きい。三代目寿海襲名が決まり大阪につめていた寿美蔵のために、代理の弟子に披露狂言助六由縁江戸桜』の型を懇切丁寧に教え、その翌日の逝去であったから、寿美蔵の感慨は深く、初日の大阪歌舞伎座ホールに祭壇を設け、助六の舞台姿で祈りを捧げた。前年3月の襲名と同時に幸四郎の娘婿となった友右衛門は、「復員した後のわびしい、すさんだ気持ちを一番すくってくれたのがおぢさんでした。とっても、あたたかく感じられたんです」と、岳父への敬愛を述べている(「演劇界」昭和24年2月号「父を語る」)。幸四郎の葬儀は東劇で初の劇場葬として営まれ、天皇陛下からも御菓子料を賜り、築地署から交通整理の要員が出動するほどの盛儀であった。

 その後わずか1か月余の3月2日、幸四郎とともに長く帝劇の幹部であった七代目澤村宗十郎が急逝した。地方巡業で『仮名手本忠臣蔵』五段目の勘平を演じ、花道から揚幕内に駆け込んだ途端に倒れ、昏睡状態のまま翌々日に不帰の客となったのである。和事を得意とい、そのねっとりとした艶のある芸と錦絵のごとき風格は一種異様な魅力を放った。再び戸板康二の評を引けば「セリフをいふ時に顔の筋肉を動かし、動作に伴なって、身体全体が、うねりを生じた(中略)粘っこさ、コク、煮つめられた味。われわれに、ある意味で最後の古典歌舞伎のうま酒を堪能させてくれた、稀れなる人」(演劇界増刊「百人の歌舞伎俳優」)であった。その強烈な個性は「宗十郎歌舞伎」の言葉を生み、一般受けはしなかったが、一部の観客に激賞された。享年75。九代目宗十郎藤十郎兄弟と田之助・由次郎兄弟の祖父にあたる。

 相次ぐ老優の長逝。しかし弔事はこれで終わらなかった。六代目の死! それは歌舞伎を愛する人々が最も恐れていた悲報であった。4月興行の2日目に眼底出血を伴う腎臓病の発作で倒れて以来、病床にあった菊五郎の全快を誰もが願い、信じていたのである。だが、一時は小康を得て若手の指導をするまでに回復しながら、舞台に立ち得ぬまま焦燥の日々を送っていた六代目は、7月10日、尿毒症のため急に昏睡状態に陥り、二度と目を開くことはなかった。築地本願寺で営まれた盛大な葬儀では、遺影の前に追贈の文化勲章と並んで、英国の名優ローレンス・オリヴィエが『リチャード三世』で使用した短剣が置かれた。菊五郎が彼に舞扇を添えて贈った『藤娘』の写真に対する返礼であった。舞台を離れた素顔の菊五郎は、濱村米蔵が「生まれながらの封建的なボスだったから、いつもあの人には知性の上の死角があった。それが時には生活の大部分を蔽うような場合があってそうなると全く完全な暴君なり暗君だった。それが六代目の周囲に、幕内以外で肝胆相照の友達を造らせなかった所以である」(「演劇界」昭和24年8月号「菊五郎を憶ふ」)と述べているとおり、難しい人物でもあった。しかし、その芸の素晴らしさに異論を唱えるものはない。殊に得意の生世話物で見せる姿の良さと面白さは他の追随を許さず、天才の名を欲しいままにした。菊五郎の通夜の晩、息子の梅幸・九朗右衛門、三世左團次らが集まり、一門の今後について話し合い、菊五郎劇団の結成を決定した。この会談は、家の中が弔問客であふれ、やむなく物干しで行われたため、のちに「物干し会談」として語られることになった。

 多くの名優が去った24年は暗黒の年と呼ばれ、劇界の天上に立ち込めた暗雲を何とか吹き飛ばそうとするかのように、同年9月には市川染五郎改め八代目松本幸四郎白鸚)および松本金太郎改め六代目市川染五郎(現幸四郎)の襲名披露に加えて片岡孝夫(現仁左衛門)が初舞台を踏み、翌25年1月には中村もしほ改め十七代目中村勘三郎の襲名披露、6月には坂東亀三郎(現彦三郎)の初舞台と慶事が続き、さらに市川海老蔵の十一代目市川團十郎襲名および中村芝翫の六代目中村歌右衛門襲名も具体的な段階に入った。あまりにも急速に世代交代が進んだこの年の歴史的意義は、戸部銀作の次の言葉に尽くされている。

 「1950年という年は、俳優から見た歌舞伎にとって、大きな転機をなした年なのである。前年、相ついで起った菊五郎幸四郎宗十郎の死は、従来若手といわれていた人々の第一線進出をうながし、技芸的な面からではなく、そうした他力本願の形式で、海老蔵幸四郎松緑の3兄弟に、勘三郎梅幸芝翫の3人は、未来の大立者たる位置を約束されてしまったのだ」(「幕間」昭和25年12月号「1950年度東京歌舞伎界-すべて明年以後に」)。

 深い喪失感に打ちひしがれた関係者の思いは、老境にさしかかったその他の俳優に及んだ。幸四郎羽左衛門菊五郎の『勧進帳』記録映画のごとく、彼等の舞台を残しておかなければ - 二代目實川延若の『楼門五三桐』、七代目板東三津五郎の『喜撰』や中村吉右衛門の『熊谷陣屋』などの映像が今日まで残された背景には、こうした関係者の焦燥感があった。だが、その作業は容易ではなかった。技術や装備の水準が現在とは較べものにならない当時のこと、音響テストだけで何時間もかかるうえに、全体をコマ割にして、花道で1コマ、本舞台にかかるとストップという具合。それを何度もテストしてからようやく本番なのだから役者の疲労は創造に難くない。すでに70を超えていた三津五郎は、収録を終えた途端、所作舞台にぐったりと座り込んだ。吉右衛門の場合も、熊谷の出まで1時間半もかかり、やっと芝居を始めたところでカメラが故障。怒って帰ろうとする播磨屋を新幸四郎が必死でなだめる一幕もあった。老優にはとんだ災難であったが、その甲斐あって今日の我々が往時の名舞台の片鱗をうかがうことができる。生まれ遅れた世代のひとりとして、舞台裏の事情をまったく感じさせないすばらしい演技に、一度でいいから彼等の舞台を生で見たかったという思いが募るばかりである。

 これらの記録映画とはまったく異色の映画作品に、東宝の「佐々木小次郎」がある。主演の大谷友右衛門(現雀右衛門)は、この映画を皮切りに銀幕のスターとして新しい道を歩き出した。時代劇ばかりではない。三船敏郎と共演した「海賊船」では船上のアクション・シーンを熱演している。契約をめぐって松竹との関係がこじれ、「歌舞伎界追放か?」と過激な報道がなされた時期もあった。実際、25年4月の東劇を最後に30年の復帰まで、友右衛門の艶やかな姿を歌舞伎の舞台に見ることはできない。

 25年12月、明治座は『仮名手本忠臣蔵』の通し上演で新築開場を祝った。そしてこの月、待ちに待った歌舞伎座の新築開場を知らせる広告が各演劇雑誌を飾る。いよいよ歌舞伎の殿堂の復活である。

 最後にちょっとした珍事を2つ。

 1つめは結婚詐汲フ話である。市川松蔦の名をかたり、劇場に自由に出入りして女子職員に自分を役者であると思い込ませ、たびたび彼女の家から金品を持ち出していた男が家人の通報で手配された。ある日、新橋駅前の交番で腹痛を訴えたこの男、またもや松蔦を名乗ったのだが、応対したのは誰あろう、役者を廃業して警官となっていたかつての坂東又太郎であった。たまたま又太郎にあたったのが運の尽き。あえなく逮捕と相成った。

 2つめは幕内の話。23年9月のことである。三越劇場に出演中の梅幸と九朗右衛門が楽屋で兄弟ゲンカをした。激した九朗右衛門がそばにあった灰皿(一説には弁当箱)を投げつけ、運悪く梅幸の顔を傷つけてしまった。梅幸はその日の舞台を眼帯姿で勤めたが、翌日から2人とも休演。代役が立った。ケンカの原因は不明だが、2人の休演は一種の謹慎処分だったのだろうか。