今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和11年~13年

 昭和11年1月、歌舞伎座の初春興行は、十二代目片岡我童改め十二代目片岡仁左衛門の襲名披露で賑わいを見せた。「まだまだ未熟な私、仁左衛門はおろか、一左衛門を襲ぐ資格とても御座りませぬが…」と軽妙なユーモアで会場を湧かせた美貌の女形は、六代目梅幸に次ぐ十五代目羽左衛門の女房役としてその地位を固めつつあった。新仁左衛門には3人の息子があり、長男芦燕(十三代目片岡我童十四代仁左衛門追贈)は当時、東宝に走り、勘当同然の状態にあった。二男義直はのち十五代目羽左衛門の養子となり、現在は二代目市村吉五郎を名乗っている。そして三男が現芦燕。この華やかな襲名から10年後、戦後の食糧難の中、同居していた使用人の恨みを買い惨殺されるという悲劇が仁左衛門を襲うとは、誰が想像できただろうか。

 2月26日の二・二六事件以来、戒厳令下の東京で、4月の歌舞伎座は、九代目團十郎・五代目菊五郎の胸像建設を記念して第1回團菊祭を開催した。5月の延長興行で『鏡獅子』を踊った菊五郎に、フランスから来日していた詩人ジャン・コクトーが絶賛の辞を寄せている。

 團菊祭の賑わいをよそに、4月20日、「田圃太夫」として親しまれていた四代目澤村源之助が逝った。大阪に生まれ、養父三代目源之助の歿後、東京に出た澤村清三郎(本名)は、両手両足を失いながらも舞台を勤めた三代目田之助の澤村座で、田之助の不自由な身体を支えながら、その壮絶な生きざまを両の眼に焼きつけた。田之助歿後新富座に移り、徐々に女形として頭角を現し、源之助を襲名したのが明治15年。その後、團菊の両巨頭に重用されトントン拍子に出世するが、中村福助(五代目歌右衛門)の人気が高まるにつれて團十郎の相手役は福助に移り、菊五郎も養子梅幸が長ずるに及んで、居場所を失った源之助は、三崎座に身を投じた。当時の俳優規約では小劇場に出た俳優は大劇場への出演を許されず、規約改正後、大劇場に復帰した時にはすでに源之助の時代は終わっていた。若かりし頃は今牛若と称され、流した浮名は数知れず、その中に花井お梅がいた。芸者達の間で歌舞伎役者を情夫にすると箔がつくといわれた当時、源之助に目をつけたお梅は、他の芸者との浮気が知れると剃刀を片手に源之助の家に暴れこむような気の強い女で、とうとう殺人を犯してしまう。源之助とお梅の仲はたちまち世に知れるところとなり、小説や戯曲にもなったが、当の源之助は、最後まで事の真相を明かそうとはしなかった。しゃがれ声と妖艶な姿が魅力で、悪婆をやらせたら日本一。三代目田之助の芸風を見事に受け継いだ伝法な女形であった。享年78歳。源之助の名は婿の片岡千代麿に引き継がれたが、今は絶えてしまっている。

 田圃太夫の死から3か月余の7月28日、七代目市川中車が76歳で没した。昭和5年10月、歌舞伎座忠臣蔵に出演中、脳溢血で卒倒して以来、体調がすぐれず、10年に再び舞台に立ったが再起はならなかった。芝居好きの母を持ち、頑固一徹の父の反対を押し切って役者の世界に入り、23歳で七代目市川八百蔵を襲名。團十郎歿後は歌舞伎座の座頭格に上ったが、俳優幹部技芸委員長の座が芝翫(五代目歌右衛門)の頭上に輝いた時点で、八百蔵は次位への降格を余儀なくされる。しかし、苦労人の八百蔵は芝翫を立て、争うことはなかった。大正7年、猿之助(猿翁)の弟松尾を名前養子として八百蔵を譲り、自分は中車と改名した。歌舞伎の生字引と呼ばれ、劇界の重鎮として後進の育成に努め、十五代目羽左衛門の盛綱も六代目梅幸の玉手御前も二代目左團次の河内山も、みな中車の指導によるものであった。中車ほど鎧の似合う役者はいないと称賛され、日本一の光秀役者と呼ばれた中車はまさに、一代でたたき上げた名優であった。

 長老級の役者を相次いで失った劇界が久々に華やいだのは、11月の歌舞伎座、三代目中村歌右衛門百年祭記念興行である。三代目時蔵の愛息4人が小さな頭を並べる初舞台披露の口上が評判を集めた。長男種太郎(四代目歌六)を先頭に、梅枝(四代目時蔵)、獅童(のち廃業)、錦之助萬屋錦之助)と、これだけでも見事だが、時蔵にはさらに3人の娘があった。そこで、歌右衛門が口上で毎日「よくもこのように生んだものだと思いますが、この他にまだまだ大勢おります」と言うものだから、時蔵は決まりが悪いやら面映ゆいやら。男子に恵まれなかった吉右衛門にしてみれば、子福者の弟がどれほど羨ましかったことだろう。隣りに控える愛娘正子(のち白鸚夫人)への眼差しは優しく、いかにも子煩悩そうな父親の顔を見せる播磨屋に、観客は温かい拍手を贈った。時蔵には、これより2年のち、五男(中村嘉葎雄)が生まれている。平成9年3月に中咽頭がんで死去した錦之助の享年は、父時蔵と同じ64歳であった。

 昭和11年から12年にかけて、林長二郎の『雪之丞変化』が大ヒットした。松竹に莫大な利益をもたらしながら、長二郎の月給は初任給のまま据え置かれ、その他の面でも冷遇されたことから不和となり、長二郎は東宝に転じた。この移転は「松竹に対する忘恩行為」と非難され、夫人(鴈治郎の娘)との別居につながるが、波紋はおさまらず、12年11月、長二郎は京都で暴漢に襲われ、左頬を剃刀で斬られた。役者の生命ともいうべき顔を傷つける凶行はセンセーショナルに報道されたが、幸い傷跡は化粧で隠せる程度にとどまり、人気が翳ることはなかった。13年3月、林長二郎はその芸名を松竹に返上し、本名の長谷川一夫に戻る。以後の活躍は、ここで記すまでもない。

 12年9月には、十四代守田勘弥水谷八重子が3年越しの恋を実らせた。人気俳優どうしの結婚は、女優の絶対数が少ない当時、今日のワイドショーの常套句を使えばまさしく超特大級の「ビッグカップル誕生」であったが、26年に離婚。2人の間に生まれた良恵が二代目八重子を継いでいる。勘弥はその後、藤間勘紫恵と再婚し、勘紫恵に入門していた玉三郎はその縁で勘弥の養子となった。

 13年には、尾上菊之助(七代目梅幸)が、父六代目菊五郎とやす子夫人の結婚記念日にあたる5月28日に結婚式をあげた。菊五郎は、孫が生まれたら「おじいさん」ではなく「おじさん」と呼ばせるんだ、と気の早いところを見せている。せっかちな祖父が待ちかねた孫、すなわち当代菊五郎が誕生するのはそれから4年後、17年10月のことである。

 13年1月、劇界に咲いたもうひとつのロマンスの花は大きな波紋をよんだ。新劇女優岡田嘉子が演出家杉本良吉と共に樺太国境を越え、ソ連に不法入国したのである。杉本は即刻、所属していた新協劇団を除名された。スパイの疑いで投獄された後、2人の消息は途絶え、嘉子の健在が確認されたのは27年。杉本はすでに亡く、嘉子は現地で日本人と再婚し、モスクワ放送局に勤務していた。47年に故国日本の土を踏み、平成5年に死去するまで、嘉子はソ連文化使節として両国の交流に努めた。

 12年7月7日、蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争勃発。各劇場がこぞって戦争劇を上演する中、10月に新劇の雄、友田恭助が戦死した。戦争は泥沼化し、13年4月には国家総動員法が公布される。歌舞伎界では、この非常時局に際し、左團次の恤兵献金興行、吉右衛門の満鮮軍慰問興行などの動きがあり、いち早く応召した片岡市蔵、松本高麗五郎らに続いて9月には坂東薪水(十七代目羽左衛門)が、また10月には尾上松緑が、いずれも慌ただしく結婚式を済ませて入営した。

 世田谷の陸軍自動車隊にいた薪水のもとに、父六代目彦三郎が倒れたという急報が届いたのは同年12月27日。特別外出許可を受けて駆けつけたが、脳溢血で倒れた彦三郎の意識は戻らず、翌28日、53歳の生涯を終えた。五代目菊五郎を父とし、六代目菊五郎を兄として、七代目尾上栄三郎を経て彦三郎を襲名したのが大正4年。器用ではないがスケールの大きい役者で、歌舞伎の故実に精通し、兄菊五郎も「分からないことがあったら英ちゃんに聞けばいい」(彦三郎の本名は英造)と言い、本職の道具方さえ彦三郎の博識には舌を巻いた。舞台の模型作りが好きで、演劇博物館には彦三郎が作った歌舞伎座の50分の1の模型が収蔵されている。材料は菓子や葉巻の箱などであったが、十四代目長谷川勘兵衛が図面を引き、裏方の仕事にも精通していた彦三郎ならではの精巧な作りで、望まれて外国の博物館に寄付されたものもある。また、趣味の気象観測と無線通信のために自宅の庭に緯度計を立て、自家用の観測設備で分析したデータを気象台に送っていた。震災後、東京の大気汚染が顕著になると、気象観測に支障があるというので根岸から川崎に住居を移したほどで、ここまでくれば遊びの域を超えている。時計蒐集の趣味も有名で、自宅の玄関に大時計を据え、常にグリニッジ標準時間に合わせていた。そのために天文台に通ったというから徹底している。時計蒐集は、明治末に神田と横浜の劇場を掛け持ちした時、神田の芝居が伸びて5分違いで横浜行きに乗り遅れ、横浜の劇場に迷惑を掛けたのがきっかけで、以来、臆病なほど時間を気にするようになった。彦三郎の時計蒐集はいわばその潔癖な性格の表れといえるが、「大時計」のゆったりとした語感が彦三郎の大らかな芸風や人柄に合っていたのだろう。いつしか綽名となり、しばしば「大時計!」と声が掛かった。