今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和8年~10年

 昭和8年1月、新歌舞伎座(のち新宿第一劇場と改称)は青年歌舞伎の一座で初春の幕を開けた。青年歌舞伎はこの頃から定例化し、現歌右衛門は『鎌倉三代記』の時姫などの大役に挑戦する機会を与えられ、女形の基礎を固めた。兄の五代目中村福助は胸に病を得て葉山で静養していたが、8月11日に34歳の若さで逝去した。劇評家三宅周太郎をして「私の観劇50余年でこれ程美しく悩殺された女方はいない」と言わしめた美貌の若女形であった。残された息子の眞喜雄(現芝翫)は当時6歳。2歳の折、父の『道成寺』に3日ほど、所化のひとりに手を引かれて出たのが芝翫にとって父と最初の、そして最後の舞台となった。病床で「舞台に出られずに寝ているのが一番辛い。半年も芝居が出来なかったら自殺するかもしれない」とまで語っていたという福助の早世に、飲み友達であった花柳章太郎は「せめて芝翫にしてから死なせたかった」と述懐している。福助の死後、夫人が発見したいくつかの歌の中から、ひとつだけ紹介しておきたい。

   けふを舞ふ千秋楽は目出たかれど
             君にわかるゝ鏡のおもてよ

 千秋楽の日に、自分の姿を鏡に映しながら、その役との別れを惜しむ美しい横顔が目に浮かぶようだ。

 自らも不自由な身体でありながら、期待をかけた長男に先立たれた五代目歌右衛門の気を引き立てようと、11月の歌舞伎座では、現歌右衛門の児太郎改め六代目福助、現芝翫の四代目児太郎としての初舞台を披露する口上の幕に、素晴らしく豪華な顔ぶれが揃った。なかでも、二人の息子を先立たせた六代目尾上梅幸が同じ悲しみの中にいる五代目歌右衛門をねぎらう言葉の優しさは、観客の心を強く打った。

 その梅幸が、翌9年11月の歌舞伎座『ひらがな盛衰記』源太勘当の場で延寿を勤めていたところ、舞台で脳溢血の発作を起こし、一時は持ち直すかと思われたが、急性肺炎を併発して重体に陥り、8日に息を引き取った。享年65歳。三代目菊五郎の孫を父に持ち、五代目菊五郎に望まれて養子となって以来、芸でも私生活でも厳しく仕込まれた。好きな酒を飲んで帰っても家では飲んだそぶりも見せないよう、常に気がねをしながら重ねた盃が寿命を縮めたといわれる。命とりになった発作は三度目で、二度目の発作の後、顔面麻痺に襲われたため、女形として舞台を続けることに堪えかね、引退の決意を発浮オていた。引退後は、梅寿菊五郎と呼ばれた三代目菊五郎にちなんで梅寿を名乗ると決め、後進の指導にあたる意欲を見せていただけに、周囲の嘆きは大きかった。十五代目羽左衛門にとっては積年の恋女房であり、三千歳や十六夜のような役には羽左衛門の好きな香水を振りかけてから出るという心配りを忘れず、倒れた時もしきりに着物の裾を気にしていたという。また、大正5年10月の歌舞伎座で久々に羽左衛門の与三郎にお富を勤めた折りには、最近はほとんど上演されない「赤間源左衛門の内の場」に二人が関係を結ぶ場面があり、ほんの2~3分後に座敷から出てきた時、梅幸は帯の結び方を変えていた。座敷の中で帯を解いたことを暗に示すためである。小山内薫もこれには気付かず、新橋の芸者に教えられたという。この逸話を小山内から聞いた三宅周太郎は、その著書「演劇巡礼」の中で「としの若い私はあまりの“秘密”に顔を赤くした」と告白している。

 9年10月には、先年亡くなった十三代目片岡仁左衛門の父である十一代目仁左衛門が78歳で没し、翌10年2月には初代中村鴈治郎が76歳で鬼籍の人となった。明治中期から大正後期まで30年の長きにわたって不和であった二人が、時期をほぼ同じくしてこの世を去ったわけである。

 仁左衛門は、勝気な性格ゆえに周囲と衝突した逸話で語られることが少なくないが、役者としての腕は誰もが認め、無筆同然でありながら『桐一葉』のような文学的戯曲でも見事な成果をあげた。義太夫への深い造詣に裏打ちされた台詞回しは、岡本綺堂が「團十郎以上の名調子」と称賛したほどで、三宅周太郎も、仁左衛門こそ「團菊歿後第一の名優」と評している。

 大阪人の誇りと言われた「ガンジロハン」の死は、各紙が号外で報じ、上方歌舞伎界の巨星の長逝を悼んだ。南座顔見世興行の3日目から休演したのだが、鴈治郎は京都の旅館に横臥したまま頑強に入院を拒否した。「病院には病人がたんといまっしゃろ。第一、陰気くそおますがな」とは表向きで、京都にいる限り南座の舞台に復帰できると信じていたのである。千秋楽にようやく入院を承諾したが、遂に再起はならず、2日間だけ演じた『鎌倉三代記』三浦之助が最後の舞台となった。

 9年1月1日に開場した東京宝塚劇場は、新聞に専属俳優の募集広告を出し、松竹対東宝の俳優争奪戦をめぐって報道が過熱した。当時、ほぼすべての歌舞伎俳優を掌握しているだけに、役がつかない中堅の不満に頭を悩ませていた松竹としては、東宝に中堅を融通して不満を解消する目算だったが、東宝が希望したのは大幹部の幸四郎であったから、円満には進まず、松竹の顧問に名を連ねていた小林一三東宝社長の立場も事態を複雑にした。東宝は、続いて10年6月には有楽座を開場し、水谷八重子の芸術座と猿之助の春秋座による柿落し興行を計画したのだが、両座とも出演を快諾したというのに、松竹が猿之助の出演を許さず、断念せざるを得なかった。水谷八重子をめぐる争奪戦も激しく、宝塚劇場の開場式で、八重子が小林に促されるままそのそばに座ると、松竹の大谷社長がすかさず八重子の隣りに陣取り、二人にはさまれた八重子は「お尻のむずかゆいようなバツの悪さ」を覚えたという。

 微妙な睨み合いが続く中、坂東簑助(八代目三津五郎)が先陣を切って、有楽座の開場とともに東宝に移籍すると、7月には市川寿美蔵(三代目寿海)が、10月には中村もしほ(十七代目勘三郎)がこれに続いた。簑助・寿美蔵の東宝入りは松竹への不満からであったが、もしほは当時、女形として修行をさせられていたため、立役をやりたい一心から、簑助の誘いに軽い気持ちでのったという。ところが、東宝が欲しかったのは寿海の相手役となるべき女形であったから、もしほは松竹に帰るといってきかない。そこで、12年4月、長谷川伸作『瞼の母』で、もしほは初めて立役としての主役をつかむこととなる。「長谷川先生は私を男にしてくれた」と、勘三郎は当時を振り返って語っている(藤野義雄「現代の歌舞伎芸談」)。

 当時の東宝には歌舞伎公演を定期的に続けていくだけの力はなく、劇団としてのまとまりにも欠けていたため、この第1次東宝歌舞伎は、早くも13年に解散に追い込まれた。長谷川一夫を主力とする第2次東宝歌舞伎の幕開けは、戦後、米軍による接収が解除される昭和30年まで待たなければならない。

 10年6月には六代目菊五郎『鏡獅子』の映画が撮影されている。監督は小津安二郎。前年6月、俳優学校劇団第1回公演の舞台が完全無欠の出来ばえと言われ、本人も会心の踊りだったのですぐに話は決まったものの、種々の事情で延び延びとなり、ようやく1年後に実現することとなった。この月、菊五郎歌舞伎座に出勤中で、終演後、徹夜の撮影が2日続き、さらに翌日は俳優学校劇団公演の稽古で徹夜。昼夜芝居に出ながら3日続けて徹夜しても、本人は全くこたえる様子がない。当時の菊五郎はすでに50の坂に入ろうというところ。驚くべき体力である。だが、こうして撮影された映画も、当の菊五郎の気に添わず、歿後まで陽の目を見ることはなかった。『修禅寺物語』の夜叉王のごとく、菊五郎本人にしてみれば、この映画が公開されたことは不本意かもしれないが、先年CSでも放映され、歿後50年を過ぎてなお、亡き名優の映像を目にすることができるのは、菊五郎歌舞伎の時代に生まれ遅れた世代には嬉しい限りである。

 当時、中国に進出していた日本は、清朝最後の皇帝溥儀を執政に迎え、7年3月に満州国の建国を宣言した。10年4月、この溥儀が来日し、奉迎式場に指定された歌舞伎座を訪れ、『勧進帳』と『紅葉狩』を観劇した。幸四郎の弁慶、吉右衛門の富樫、宗十郎義経菊五郎の鬼女、羽左衛門の維茂、三津五郎の山神という豪華版であったが、時間の制約から、それぞれ45分と30分に短縮せざるを得なかった。それでも、不遇な主君をかばう弁慶の忠臣ぶりは、数奇な生涯を強いられたラスト・エンペラーの心の琴線にふれたのか、溥儀は大きな拍手を贈ったという。

 日本は8年3月に国際連盟を脱退し、太平洋戦争の宣戦布告を間近にして、演劇雑誌にも「非常時局」の文字が頻繁に目につくようになった。歌舞伎に厳しい統制が及ぶ暗い時代は、すぐ目前に迫っていたのである。