今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

大正10年~12年

 大正11年1月、歌舞伎座は、歌右衛門羽左衛門をはじめとする座付に左團次を加えて大々的大入を記録し 、市村座では当代中村又五郎丈が「茲江戸小腕達引(腕の喜三郎)」で吉右衛門演じる喜三郎の倅喜之松とし て初舞台を踏んだ。5月には四代目尾上丑之助(七代目尾上梅幸)が同じく市村座で「嫩草足柄育」の金太郎 として、10月には三代目坂東亀三郎(十七代目羽左衛門)が帝劇で「名月八幡祭」の鶴吉として、また翌11年 10月には三代目中村児太郎(六代目中村歌右衛門)が新富座真田三代記」の内記で初舞台を飾り、平成歌 舞伎の大幹部が大正の劇壇に勢揃いする。

 一方、大正10年6月には、関西劇壇の長老として恬淡とした芸で鴈治郎の舞台を支えてきた二代目中村梅玉 が逝った。芸暦70年余、81歳の大往生であった。

 11年2月には、当代猿之助丈の曽祖父にあたる二代目市川段四郎(初世猿之助)が67歳で没した。立師坂 東三太郎の伜として生まれ、坂東羽太作の名で子供芝居の初舞台。長じて山崎猿之助を名乗り、のち九代目 團十郎の門人となり、明治5年に市川猿之助と改名するが、翌6年、師匠に無断で「勧進帳」の弁慶を演じたた めに破門され、松尾猿之助と称して各地の小芝居を転々とした。大劇場への復帰を許されたのは実に17年後 の23年10月。歌舞伎座で團菊左が顔を揃えた舞台であった。当時は大劇場と小劇場の格式差が歴然としてい て、一度でも小芝居に出た者が大劇場に復帰する場合には、たとえ名題格の者でも一興行は名題下として使う という決まりがあったので、猿之助もトンボをきる役から再出発をした。翌24年の春、窃盗犯に喉を傷つけられ、 以来、声の調子を損じたという。明治43年10月、猿之助の名を長男團子(猿翁)に譲り、自分は二代目段四郎 と改めた。舞踊の名手で、滋味にあふれた芸風であったという。

 大正10年3月、吉右衛門市村座脱退は大きな波紋をよんだ。菊・吉の育ての親とも言うべき田村成義の死 からわずか4ヶ月後の脱退劇に、忘恩の徒と激しく非難され、菊五郎との不和も取り沙汰される中、吉右衛門 はただ「病気療養のため」とのみ称して口を閉ざした。しかし、周囲の予想通り、吉右衛門はまもなく松竹傘下 に入り、6月に新富座で旗揚げをした。菊五郎中心の市村座のやり方に不満を抱いていたのは吉右衛門だけ でなく、三津五郎も11月に辞表を提出し、紛糾の末、翌11年6月に吉右衛門の後を追った。菊・吉の丁々発止 の競演も、名コンビと評された菊・三津の踊りも失い、市村座は以後、菊五郎の弧城となる。

 一方、歌舞伎座は、大正10年10月30日、11月興行の総浚いという日の朝まだき、電気室の天井から漏電発 火し、折からの西北風に煽られ、わずか40分で全焼してしまった。突然の大損害に市村座が助け船を出した。 幸い11月は菊五郎が狩猟に行くため休座の予定だったので、小屋を提供したのである。この好意を受けて、歌 舞伎座はそっくり市村座に引越して幕を開けた。 その後は新富座を本拠としていた吉右衛門の快諾を得て、歌舞伎座が再建するまで新富座を一座の根城とし て確保することができた。歌舞伎座は11年6月に起工し、翌12年5月に上棟式をあげ、8月20日過ぎに大量の 桧材を場内に運び入れた。そして、運命の9月1日午前11時58分44秒、マグニチュード7.9の大激震が関東地 方を襲う。

 関東大震災は9万余の人命を奪った。行方不明者4万余、罹災者は348万人にのぼり、46万5千戸の家屋が 全壊焼失した。お昼時で火を使っている家庭が多かったため、地震直後に150余ヶ所で火災が発生し、水道管 が破裂して消防は進まず、強風に勢いを増した火の手は3日間燃えさかり、関東一円をなめ尽くした。猛火を避 けようとした市民の大群は隅田川に押し寄せ、川面を黒い死体が埋めた。物的損害は当時の額で65億円超。 翌2日には東京と神奈川に戒厳令が敷かれ、心ない流言飛語から6千人もの韓国人が虐殺される悲劇も起き た。一説には、この流言は戒厳令を敷くために政府が流したものだという。

 最初の大激震の直後に上がった火の手はまず帝劇を呑み込み、新富座、有楽座、明治座も次々に焼失。歌 舞伎座は、夜に銀座方面から迫ってきた火が場内の桧材に移り、鉄骨の梁が飴のように曲がって屋根が落ち た。外部には損傷がなく、桧材さえ運び入れていなければ或いは被害を免れていたかもしれないが、すべては 後の祭り。市村座、本郷座、公演劇場、宮戸座、御国座、寿座、中央劇場、開盛座、神田劇場等、警視庁管轄 下の劇場28ヶ所がことごとく焼失し、わずかに麻布の南座と末広座を残して、東京の劇場はほとんど全滅して しまった。

 これほどの災害でありながら、歌舞伎関係者に犠牲者がなかったのは不幸中の幸いであった。 松竹はまず、震災に耐えて残った麻布南座に手をつけた。数年来、活動写真館として使用されていたのを全面 的に改修し、震災後の東京で初めての大歌舞伎を南座で開けた。市川中車を上置に板東秀調、片岡亀蔵らの 若手を揃えた座組で10月31日に「熊谷陣屋」「壺坂霊験記」「黒手組助六」を並べて初日を開けたところ、満員 の大入。牛込会館では震災直後の10月17日から5日間、新派の若手連による「震災慰安劇」が連日満員を記 録し、帝国ホテルの演芸場でも11月初旬に三津五郎福助らが2日間「操三番」「二人猩々」「鏡獅子」を踊り、 娯楽を渇望する市民を喜ばせた。また、12月中旬には松坂屋演芸場で3日間、菊五郎・彦三郎らが「素襖落」「 草摺引」を演じた。いずれも満員大入の大成功であったが、大道具、小道具、衣裳や鬘の一切が焼失した直後 の興行だけに、出し物が替わる度にほとんど全てを新調しなければならない。その苦労は並大抵ではなかった 。また、この震災のために焼失した無数の劇書や錦絵、舞台写真などの歴史的価値は計り知れない。

 東京の劇場が改築を急ぐ中、松竹は傘下の役者を西に送った。名古屋には澤村訥子、京都には吉右衛門三津五郎の一座、道頓堀の中座には歌右衛門、浪花座には秀調、角座には花柳一門、神戸には中車と猿之 助、九州には片岡仁左衛門という具合で、関東大震災の余波で関西劇壇が湧いた。

 震災による俳優の西下は、十一代目仁左衛門と初代中村鴈治郎の27年ぶりの和解という思いがけない産物 を生んだ。明治29年11月の浪花座、当時我當仁左衛門の師直、鴈治郎の判官による忠臣蔵の三段目「鮒侍 」の件で、我當が入れ台詞で鴈治郎を罵ったことからそれまでの対立が決定的となり、以後、両優は一度も同 座したことがなかったのである。和解の舞台はこの年11月、中座の「沼津」。仁左衛門の平作、鴈治郎の十兵 衛に四代目高砂屋福助(のち三代目梅玉)のお米という配役で、当時千代之助の十三代目仁左衛門も池添孫 八で出演した。両優の共演が人気を呼び、凄まじいばかりの大入だったという。

 震災後3ヶ月で復刊した演劇雑誌は、震災当時の役者の様子を様々に伝えている。

 菊五郎は、市村座で稽古中に大激震にあい、梁の下敷きになったが幸い怪我もなく、日頃から用意の火事装 束で大活躍の末、余震が一段落した後も軍服に着替えて自警の任にあたった。左團次は、駿河台の家を焼け 出されて中野の野方に移転したと報道されるやいなや、見舞いの品が山をなしたが、先代が愛した仏像も、自 分が集めた錦絵や古書もみな焼失してしまった。尾上松助は身一つで焼け出され、神社の境内に仮住居。老 いの身に降りかかった難儀を嘆いているところへ尾上幸蔵が見舞いを持参で訪ねると、人の情けが嬉しいと言 って声を上げて泣いたという。幸運だったのは歌右衛門福助父子で、地震の際は揃って伊香保に避暑中。し かも豪邸は焼け残った。向島の別荘で病後の静養中であった訥子は、家人が何と言っても逃げようとせず、床 の上で一心に祈り続け、火の手が迫り川岸の火の粉が飛んで来てもなお動こうとしなかった。訥子の祈りが通 じたか、焼け残った門前に等身大の石地蔵が、あたかも身代わりになったかのように真二つに割れていたそう だ。変わり種は市川三升。築地の自宅焼跡にバラックを建て「成田屋食堂」を開業した。一目でそれと分かる三 升染の暖簾が目を引く上、九代目の忘れ形見、翠扇・旭梅の2人の娘もたすき掛けで立ち働き、大いに繁盛し たという。