今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和62年~64年

 昭和62年1月の歌舞伎座『門出二人桃太郎』で、二代目中村勘太郎と二代目中村七之助の兄弟が初舞台を踏んだ。父中村勘九郎の初舞台『昔噺桃太郎』から28年。2人の桃太郎を育てる老夫婦には中村勘三郎中村芝翫の両祖父が扮し、中村歌右衛門尾上梅幸片岡仁左衛門ら大幹部も顔をそろえて中村屋慶事に華を添えた。

 この興行中、坂東八重之助が逝った。享年77。立師の第一人者で人間国宝にも指定され、『蘭平物狂』や『義経千本桜』の小金吾討死など、見事な立廻りの型を数多く遺した。5月の歌舞伎座で養子の市川銀之助が九代目市川團蔵を襲名するのを楽しみにしていた八重之助の命を癌が奪った。

 同じ月、九代目市川八百蔵が他界した。松本高麗五郎の名で親しまれた青年時代。芸暦65年の老練な脇役として貴重な存在のひとりであった。

 続いて2月に六代目清元延寿太夫が60歳で病没。妻の多喜子は勘三郎の妻久枝の妹で、2人とも六代目尾上菊五郎の娘。従って、長男の現延寿太夫勘九郎の従弟にあたる。

 翌3月、さらなる訃報が劇界を襲う。尾上辰之助わずか40歳の急逝。前年2月に肝硬変で入院し、11月に復帰して周囲も観客も安堵したのだが、3月18日に再び入院を余儀なくされ、その10日後に帰らぬ人となった。命日となったこの日は父尾上松緑の74歳の誕生日。その松緑も病床にあり、3月末の密葬には立合うことができず、4月末の本葬にも車椅子で参列した。辰之助の長男左近(二代目辰之助を経て現松緑)はこの時まだ12歳。1月の国立劇場『毛抜』の粂寺弾正が辰之助の最後の舞台となった。射るような眼差し、豪放磊落なようで繊細さと激しさを秘めた爽やかな風姿は、辰之助をビデオでしか知らない世代をも強く惹きつける魅力にあふれている。三之助と称された僚友、新之助海老蔵を経て十二代目市川團十郎を襲名し、菊之助は七代目尾上菊五郎を継いだ。その辺りが辰之助の酒量が増えた遠因との声もあるようだが、「自分は一生、辰之助でいる」との宣言が諦めではなく、辰之助という名を大きくしていこうとする前向きな決意表明であったと思いたい。ともあれ、そのあまりに早すぎた死には、黄金の輝きを秘めた果実がまだ青いうちに突然もぎとられてしまったかのような痛みが感じられてならない。

 9月には、歌舞伎座で坂東簔助改め九代目坂東三津五郎坂東慶三改め五代目坂東秀調の襲名披露が行われる一方、北上弥太郎として映画界で活躍し、59年に歌舞伎に復帰したばかりの嵐吉三郎が55歳で、また守田勘弥の門下で坂東玉三郎を支えてきた三代目坂東田門が73歳で逝去した。

 訃報相次ぐ1年が明け、63年は歌舞伎座開場百年の節目に当たり、すべての本興行に「歌舞伎座百年」のタイトルを冠し、『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』の三大義太夫狂言をはじめとして『妹背山婦女庭訓』『青砥稿花紅彩画』『加賀見山再岩藤』などの大作を次々に通し上演し、それら以外も人気演目をずらりと並べた甲斐あって、通年の観客動員数は約115万人にのぼり、例年の90人を大きく上回った。

 興行的には大成功の1年であったが、最大の痛恨事は勘三郎を喪ったことである。1月の歌舞伎座俊寛』を8日目から休演し、康頼で出ていた勘九郎俊寛を代役。入院した勘三郎は、4月に勘九郎が初役で演じる『髪結新三』に大家で付き合う当初の予定を変更し、金丸座での『俊寛』に意欲を燃やしていたが、結局、中村富十郎が代役となり、最古参の弟子である中村小山三らは後ろ髪を引かれる思いで四国へ向った。16日、『於染久松色読版』で久松の澤村藤十郎が出を待っていると、お染の吹替役を勤める小山三が「先生が…」と絞り出すような声で言った。あとはもうただ涙。

 勘九郎が出演している国立劇場に訃報が届いたのは『髪結新三』上演中で、新三の勘九郎は舞台にいた。この日に限って舞台に出るとき勘九郎の足が震えた。補助席まで出ている客席のとびきりいい位置にひとつだけ、ぽっかり空いた席が光り輝いて見える。「あぁ、親父が見に来てる」と勘九郎は思った。『髪結新三』が終わっても勘九郎はそのあと『近江のお兼』を踊らなければならない。知らせるのは終わってからにしようと幕内で了解ができたものの、忠七の中村橋之助は新三と目を合わせようとせず、大家の中村又五郎は新三をグッと見据える場面で両眼が涙で一杯になる。すでに医師の言葉で覚悟していた勘九郎は父の死を悟った。幕が閉まり、2人きりの楽屋で橋之助に確かめようとするが、橋之助は顔を上げることができない。終演後、新橋演舞場社長から知らせを受けた勘九郎は、涙も見せずに生前の厚情への謝意を述べた。その毅然さは、近しい人々が意外に思うほど平静に見えた。一同が出て行く。楽屋には橋之助と2人だけが残る。橋之助が扉を閉めた途端、勘九郎は号泣した。

 十七代目中村勘三郎、享年78。三代目中村歌六の末子として生まれ、初代中村吉右衛門と三代目中村時蔵を兄に持ち、六代目尾上菊五郎の長女を妻として、菊吉双方の芸風を受け継いだ。ギネスブックにも載った幅広い役柄は、天地会で普段は演じない役を振ろうにもすべてが本役ではまってしまうほどで、勘三郎を愛した人々の多数の著作にその情味にあふれた横顔が記されている。

 翌5月、『青砥稿花紅彩画』大詰「滑川土橋の場」に松緑が初役の青砥左衛門藤綱で元気な姿を見せた。通常は2人の家臣が出るところを孫の左近ひとりを従え、約半年ぶりの舞台で多くのファンを喜ばせた。

 7月には武智鉄二が癌に倒れた。享年75。劇評家として出発し、その学問的な研究成果を「武智歌舞伎」として実践し、理論的指導を通じて若手の育成に努めた異才であった。

 海外公演はますます盛んとなり、62年6月には、前年チェルノブイリ原発事故で延期されたソ連公演が実現し、歌右衛門の『隅田川』班女の前が至芸と絶賛された。秋には、市川猿之助が『義経千本桜』忠信編を引っ下げ、2ヵ月にわたってヨーロッパ4ヵ国5都市を巡演した。パリでは、300年の伝統を誇る市立オペラ劇場に穴を開けて宙乗り装置を設営。その高さは1階客席から18メートルと歌舞伎座の数倍、5階に引込むまでの長さは24メートルに及び、この装置は今後の猿之助の公演のために同劇場に常設されることとなった。

 翌63年には、まず6月から7月にかけて中村扇雀(現鴈治郎)らが『恋飛脚大和往来』で北米3ヵ国12都市を縦断した。7月にはオーストラリア建国200年祭に歌右衛門富十郎團十郎らが招かれたが、4都市中シドニーの会場は、映画館のため舞台機構が不備な上に地下鉄の振動が伝わる悪条件。しかも筋書の写真も裏焼で、海外公演の難しさが痛感された。9月にはソウル・オリンピックの開催を記念して初めての韓国公演が催され、記者会見の席上「この公演は文化侵略ではないか」「忠臣蔵は好戦的な芝居ではないか」などの質問が出て緊張する場面もあったが、結果的には大好評で、日本文化の流入に強い拒絶反応があった韓国で画期的な成功をおさめた。また、10月にはエジプトで、カイロ教育文化センターの柿落しとして富十郎らが『俊寛』ほかを熱演した。1年に4度の海外公演は過去最多の記録である。さらに、松本幸四郎が62年3月にサンシャイン劇場で初演した『世阿弥』を翌年秋にアメリカで成功させた。

 この年9月に「猿之助十八番」が制定されている。祖父猿翁の舞踊作品からなる「猿翁十種」と「澤瀉十種」とは趣が異なり、猿之助自身が創作に加わった復活狂言を中心にしたもので、すべてあげれば『金門五三桐』『義経千本桜・忠信編』『金弊猿島郡』『加賀見山再岩藤』『南総里見八犬伝』『小笠原諸礼忠孝』『雙生隅田川』『君臣船浪宇和嶋』『慙紅葉汗顔見勢(伊達の十役)』『二十四時忠臣蔵』『出世太閤記』『独道中五十三駅』『天竺徳兵衛新噺』『當世流小栗判官』『御贔屓繋馬』『菊宴月白浪』『ヤマトタケル』『重重人重小町桜』の18本。さて、読者諸氏はこのうち何本をご覧になっただろうか。

 明けて64年1月、歌舞伎座国立劇場、浅草公会堂の3劇場で初芝居の幕が開くが、7日に天皇陛下崩御され、昭和の終焉とともに平成を迎える。

 6月24日「昭和の歌姫」と呼ばれた美空ひばりが逝き、その翌日、尾上松緑が76年の生涯を閉じた。1ヵ月前に「松緑芸話」を上梓したばかり。父辰之助に続いて祖父を喪った左近は平成3年5月の歌舞伎座で父の、平成14年5月には祖父の名跡を継いだ。

 大正・昭和の歌舞伎を顧みれば、綺羅星のごとき名優達の面影が浮かぶ。関東大震災は歌舞伎の背景ともいうべき江戸の風物のほとんどを灰塵と化し、戦後の占領軍による禁令は歌舞伎の息の根を止めるかに思われた。それらの危機を乗り越えて、歌舞伎は力強くその命脈を保ってきた。松緑以後、三代目實川延若、十三代目片岡我童十四代片岡仁左衛門追贈)、十三代目片岡仁左衛門、七代目尾上梅幸、三代目河原崎権十郎、九代目坂東三津五郎らを喪ったが、若い芽は着実に育っている。出雲の阿国から400年。新世紀の歌舞伎の行く末を楽しみにしたい。


(完)