今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和53年~55年

 昭和53年2月の歌舞伎座は、菊五郎劇団30周年記念公演と銘打ち、『魚屋宗五郎』『藤娘』『うかれ坊主』『御所五郎蔵』など六代目尾上菊五郎が当り役とした演目を並べ、全員総出演の『かっぽれ』には、91歳になる尾上多賀之丞尾上梅幸に手を引かれて元気な姿を見せた。だが、これが多賀之丞の最後の舞台となり、6月20日に帰らぬ人となった。市川鬼三郎の名で初舞台を踏み、叔父四代目浅尾工左衛門の養子となり五代目市川鬼丸を名乗る。大正2年に六代目菊五郎の女房役として市村座に迎えられ、昭和2年に三代目多賀之丞を襲名。実に65年の長きにわたって菊五郎劇団の屋台骨を支えてきたひとりである。『義経千本桜』鮓屋の母より『仮名手本忠臣蔵』六段目の母おかやを本領とし、殊に『盲長屋梅加賀鳶』おかねは『与話情浮名横櫛』源氏店での四代目尾上松助の蝙蝠安と並んで語り継がれるべき近世の脇役の傑作と言われた。その息である六代目尾上菊蔵も父と同じ道を歩み、女形の脇役として情味にあふれた演技に定評があったが、病を得て長らく舞台を遠ざかり、平成12年10月に77年の生涯を閉じた。

 53年2月から3月にかけて、ロンドンシアターやブロードウェイ・ミュージカルなど各国の代表的演劇団体が参集する国際的芸術祭、第10回アデレード・フェスティバルの最後の1週間を飾るメイン・プログラムとして、初のオーストラリア歌舞伎公演が実現した。中村歌右衛門實川延若を柱に据え『義経千本桜』川連法眼館の場(四の切)と、海外で4度目の上演になる『隅田川』の2本立て。清元志寿太夫の艶やかな声にのせて我が子への思いを切々と訴える歌右衛門の班女の前は深い感動を呼び、メルボルンの千秋楽ではアンコールで客席から投げ入れられた花やテープで花道も舞台も埋まった。歌右衛門の縫いぐるみ好きは有名だが、なかでも終戦後オーストラリア大使館から贈られたコアラの縫いぐるみは国内外どこへ行くにも連れ歩くほどお気に入り。出発前からコアラ・パーク訪問を心待ちにしていた歌右衛門は、シドニーでもアデレードでも本物のコアラを抱いて御満悦。コアラ・コレクションもさらに増えた。オーストラリアのもうひとつのお楽しみは競馬。真っ青な空の下で歌右衛門と志寿太夫という2人の大御所が無邪気に競馬に興じる姿をご想像あれ。

 歌右衛門は、帰国後4月の歌舞伎座で『京鹿子娘道成寺』上演1000回を達成し、さらに54年度文化勲章の栄誉に輝いた。歌舞伎界では初代中村吉右衛門に継ぐ2人目の受賞で、戦後歌舞伎の第一人者たる歌右衛門の地位が象徴されている。翌55年度の文化勲章勘三郎が射止めた。

 54年1月には、菊五郎劇団を中心とする日本歌舞伎訪中使節団と中村勘三郎らの訪米歌舞伎団がそれぞれに成果をおさめた。訪中公演は昭和30年の市川猿之助(猿翁)以来24年ぶりで、尾上松緑高師直・由良之助による『仮名手本忠臣蔵』大序から城明渡しまでの短縮版と梅幸の『春興鏡獅子』を引っ下げ、北京・抗州・上海を回った。幕開き前にあらすじを放送し上演中は京劇式に字幕を採り入れ、踊りの振りの意味まで十分に伝える工夫の甲斐あって、京劇の役者から『鏡獅子』を京劇に移し替えてみたいという声もきかれた。梅幸によると、中国には清涼山もあり山西省に『鏡獅子』とよく似た物語が残っているそうで「里帰りですね」と言われたという。

 アメリカ公演の方はワシントンのケネディ・センター内に日本政府が寄贈した小劇場の柿落しで、開場式典で『祝儀の舞』と『連獅子』を披露した後『俊寛』『連獅子』の2本立てでワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルスの3都市を巡演した。イヤホンの解説は戦後歌舞伎の禁令を解いた救世主フォービアン・バワーズが担当した。女形を見せようと『連獅子』の合狂言では中村富十郎の僧侶に対し澤村藤十郎が尼僧姿で登場。折しも学内で『俊寛』を演じる予定のイリノイ大学の学生達が駆けつけ、終演後、勘三郎らが稽古をつける一幕もあった。一行はワシントンの下町でゲテモノ料理に挑戦。腐肉や珍魚の刺身などが並ぶ中、大カマキリの佃煮は意外に美味だったそうな。

 54年2月の歌舞伎座では、敵役・脇役に徹して各方面から引っ張り凧の市川男女蔵が四代目市川左團次を襲名した。披露狂言は『京人形』の彫物師左甚五郎と『毛抜』の粂寺弾正。女形と和事を本領とした先代の父とは柄も芸質も全く異なり、むしろ骨太な二代目左團次に通じるともっぱらの評判。その意味でも、七代目團十郎以来絶えていたのを明治42年に二代目左團次が復活した『毛抜』は披露狂言にふさわしい。口上では、菊五郎劇団に盛り立てられつつ市川家独特のニラミを披露した。

 翌55年1月には現尾上辰之助が本名の藤間嵐のまま国立劇場『山姥』怪童丸役で初御目見得。2月には坂東亀蔵が八代目坂東彦三郎を襲名した。4月の歌舞伎座では五代目中村歌右衛門40年祭を機に中村幸二改め三代目中村橋之助の披露がなされた。

 市川猿之助は53年5月に南座で連続出演10周年記念公演を飾った。千秋楽翌日の特別公演は、素踊り『船揃い』『黒塚』天地会『助六曲輪狂咲桜』に加えて、大喜利は宝塚「風と共に去りぬ」のパロディ版「たんからづか過激グランド・ロマン」偽赤毛十八番の内『風渡艫荷去離奴』(かぜもろともなさけのさりじょう)という遊び心たっぷりの企画で、猿之助の楽屋には順みつき榛名由梨らのタカラジェンヌがずらり。ダンスの練習に1ヵ月をかけたというからただのお遊びではない。筋書も宝塚そっくりに仕上げる凝り性ぶりがファンを喜ばせた。

 54年2月の梅田コマ劇場は猿之助の第1回コマ・グランド歌舞伎で、新作の歌舞伎スペクタクル『不死鳥よ波涛を越えて ― 平家物語』と、歌舞伎舞踊の集大成と冠して阿国歌舞伎から『連獅子』『夕顔棚』『心中天網島』河床に口上まで加えた『ザ・カブキ』の2本立て。その方向性の是非はともかく、多くの人に歌舞伎に親しんでもらおうという猿之助の狙いは明確であり、その姿勢は今日まで一貫している。

 猿之助の多彩な活動の中で、歌舞伎の底辺を広げる努力と並ぶもうひとつの主軸というべきものに古典の復活がある。54年4月の明治座では、文化12年7月河原崎座での大当りを最後に絶えていた四代目鶴屋南北の幻の作品『慙紅葉汗顔見勢 ― 伊達の十役』を164年ぶりに上演した。秋には、前年に開場したサンシャイン劇場で『奥州安達原』の上演に映画を併用する新しい試みに挑戦し、翌55年11月の第2回コマ・グランド歌舞伎では河竹黙阿弥作『十二時忠臣蔵』と『舞踊ザ・カブキ/パートⅡ』の2本で計14役を演じる奮闘を見せた。

 53年、中村吉右衛門芸術選奨文部大臣賞演劇部門新人賞を受賞し、その兄市川染五郎(現松本幸四郎)は12月に大阪で初のリサイタルを開き全20曲を熱唱した。翌年3月の歌舞伎座ではNHK大河ドラマ「黄金の日々」がテレビと同様に染五郎の主演で劇化され、その夜の部で息子の三代目松本金太郎(現染五郎)が初舞台を踏んだ。染五郎はさらに5月のサンシャイン劇場で『ドラキュラ - その愛』に主演。歌舞伎とミュージカルという全く異なる2つの分野で常に注目を集める希有な存在としてその成果は高く評価され、劇界最年少の37歳で55年度芸術院賞に輝いた。6月には映画「遥かなる走路」の主演が決まり、まさに順風満帆。53年に勘三郎歌右衛門に続く現役3人目の文化功労者として顕彰された父八代目幸四郎はその頃病床にあったが、55年9月歌舞伎座の初代中村吉右衛門27回忌追善公演を機に10ヵ月ぶりの復帰を果たし、11月には、幸四郎染五郎・金太郎の高麗屋三代が来秋そろって白鸚・九代目幸四郎・七代目染五郎を襲名することが発表された。

 名プロデューサー澤村藤十郎の熱意が実り、大阪朝日座で「関西で歌舞伎を育てる会」結成第1回公演が開催されたのは54年5月のことである。これを記念して、大正13年12月の吉右衛門一座の公演を最後に絶えていた船乗り込みが55年ぶりで復活された。以後、平成4年に「関西・歌舞伎を愛する会」と改称し、現在も道頓堀の松竹座に場を変えて公演を重ねている。

 55年1月には浅草公会堂で第1回浅草花形歌舞伎公演が実現した。猿若三座を擁した芝居町から劇場の灯が消えて以来、22年ぶりの復活。毎年1月のみの興行だが若手を中心に人気を集め、平成11年には三之助を迎えて20周年を祝った。

 嵐徳三郎はこの時期、文楽とダウンタンブギウギバンドの共演など異色な企画で話題を集める渋谷ジァンジァンを舞台に、吉行和子との『梅川忠兵衛』や馬渕晴子との『心中天網島』など独自の実験的公演を重ねている。中村富十郎は53年6月に「矢車会」を復活し、中村亀鶴の「翅の会」「中村雀右衛門の会」および雀右衛門一門の「桜梅会」もそれぞれ第1回公演を成功させた。さらに前進座は55年に創立50周年を祝い、同年12月には歌舞伎座に初登場し、中村翫右衛門が当たり役の『俊寛』を一世一代として演じた。長谷川一夫と中心とする東宝歌舞伎も55年10月に50回目の記念公演を果たした。異色なところでは、神戸の国際学校カナディアン・アカデミー日本文化研究部のクラブ活動に端を発し、着実に実績を重ねて東京・大阪まで活動の範囲を広げてきた「仮名手庵歌舞伎」の定例公演が55年7月に10周年を飾った。

 一方、新派は54年10月1日に大黒柱の水谷八重子を失い、くしくも同日付で劇団新国劇は倒産に至った。キャンディーズの解散や山口百恵の引退にマスコミが大騒ぎをした時代。新派と新国劇の衰退に照らすと一層、400年の歴史を脈々と紡いできた歌舞伎の底力が実感される。