今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和44年~46年

 昭和44年は高砂屋五代目中村福助の訃報で明けた。かねてから病気療養中のところ、元日に58年の生涯を閉じた。名女形として名高い三代目中村梅玉の息子で、自身はその立派な体格を活かして敵役を得意とし、座頭格の風格を持ちながら、関西歌舞伎の衰退に伴って活躍の場を失い、四代目梅玉を継ぐには至らなかった。四代目中村芝翫を端として、明治元年に東京と大阪で2人の三代目福助が誕生して以来、東京の本家が大阪系に三代目中村歌右衛門の俳名である梅玉を贈り、円満に福助の名を持ち合ってきたのだが、高砂屋五代目福助の死をもって大阪系が断絶することを惜しみ、同優の未亡人がその後、梅玉福助の両名跡を本家に返すことを申し出た。これを機に、平成4年4月、本家六代目歌右衛門の養子である八代目福助が四代目梅玉を継いで屋号も成駒屋から高砂屋に改め、五代目歌右衛門の孫にあたる中村児太郎が九代目福助を襲名し、福助名跡は125年ぶりで一本化されることとなる。

 時代を戻して昭和44年、折からのテレビブームに乗って、歌舞伎役者のブラウン管への進出がますます顕著になっていた。4月に始まったNETの山本周五郎作「ながい坂」では中村吉右衛門が主役に抜擢され、10月にはその父、松本幸四郎白鸚)が自ら望んだ池波正太郎作「鬼平犯科帳」がスタートしている。

 一方、上杉謙信の生涯を描くNHKの「天と地と」では、幼年期の虎千代役の中村光輝(現歌昇)に人気が集中し、青年期を演じる石坂浩二へのバトンタッチの時期が近づくにつれて、光輝の続演を望む投書が山のように寄せられた。このドラマには、謙信の側近、鬼小島弥太郎に扮した市村竹之丞(現富十郎)のほか、若手からは武田勝頼役の中村信二郎や、ごく幼い時期の虎千代役で中村浩太郎(現扇雀)も出演している。光輝人気は幅広く、この年6月の中村(のち萬屋錦之助公演で「天と地と」が舞台化されると、歌舞伎座には光輝ファンの少女たちが詰めかけ、翌7月からはTBSで光輝主役の「胡椒息子」がスタートした。

 光輝に続いて同年代の坂東八十助(現十代目坂東三津五郎)に白羽の矢が立ち、NHKの10月スタート「鞍馬天狗」杉作役に起用され、高橋英樹扮する鞍馬天狗こと倉田典膳を相手に好演した。さらに、意外なところでは、現團十郎も、海老蔵時代の45年2月スタートのフジテレビおんなの劇場・三島由紀夫作「春の雪」に主役の松枝清顕役で登場し、そのきめ細やかな演技は周囲の予想を裏切った。清顕の幼年時代信二郎が演じている。

 歌舞伎界もテレビにおされてばかりいたわけではない。44年4月には中村勘三郎勘九郎父子が初役の『連獅子』を披露し、5月には市川猿翁7回忌追善を機に、団子が四代目市川段四郎を襲名した。9月には、アメリカ公演の成功に加えて、国立劇場の『蔦紅葉宇都谷峠』で勘三郎幸四郎白鸚)の共演が9年ぶりで実現し、幸四郎本来の舞台を望む多くのファンを喜ばせた。

 11月には市川新之助改め十代目市川海老蔵(現團十郎)の襲名披露が華々しく行われ、同時に片岡市蔵の長男幸一が六代目片岡十蔵を、二男二郎が四世片岡亀蔵を襲名した。(十蔵は平成15年に父の六代目として襲名した)。史上最高の興行にするべく入場料は過去最高3千円に設定され、口上には東宝から幸四郎も駆けつけ、新海老蔵は市川家伝来の「ニラミ」を披露した。新海老蔵の富樫に弁慶を演じた尾上松緑は、叔父として、また後見人として普段の何倍も神経を使い「生涯で最高にくたびれた弁慶だったよ」と述懐している。

 市川家の門弟総代として、この襲名披露口上の席に連なるはずであった三代目市川左團次が他界したのはこの年10月3日であった。市川女寅(のち六代目門之助)の養子となり、明治35年10月歌舞伎座『ひらかな盛衰記』逆櫓の駒若丸で、九代目團十郎の樋口に抱かれた初舞台。市村座に引き取られて男女蔵を襲名し、六代目菊五郎に可愛がられ、團十郎の娘から「いつから尾上男女蔵になったの」と揶揄されることもあった。菊五郎の歿後は劇団のまとめ役に徹し、二代目市川左團次未亡人の「私の目の黒いうちに次の左團次が見たい」という熱意を受けて、役柄の違いを承知の上で、昭和27年5月に三代目左團次を襲名。71歳で亡くなるまで若さを失うことなく、44年6月国立劇場『妹背山婦女庭訓』の烏帽子折求女で見せた瑞々しい若衆姿が最後の舞台となった。

 45年3月には、市川染五郎(現幸四郎)が単身ブロードウェイに乗込み、『ラ・マンチャの男』で堂々主役のドン・キホーテを演じ大成功を収めた 。  5月の歌舞伎座は、三代目中村歌六50回忌追善興行と銘打ち、歌六の三男である中村勘三郎が中心となって、長男の名を継いだ吉右衛門や二男時蔵の孫たちとともに、10歳で死別した父を追善した。実の子が現役として50回忌を営むというのは極めて稀なことである。千秋楽の翌日に「そそり」のおまけがつき、『連獅子』では勘九郎の親獅子に勘三郎の子獅子、『伊賀越道中双六―沼津』では、中村雀右衛門の十兵衛に澤村精四郎(現藤十郎)の老父平作、九代目坂東三津五郎の娘お光という傑作な配役で、十兵衛に年を問われた平作が「私は今年26歳…娘は65でござりまするがな」と答えると、満員の客席が大いに湧いた。

 9月歌舞伎座の『鳥辺山心中』『鳴神』で海老蔵坂東玉三郎の「エビタマ」コンビが誕生し、一躍ブームを巻き起こした。このとき玉三郎は弱冠20歳。この若き女形が脚光を浴びたのは、前年11月国立劇場で初演された三島由紀夫作『椿説弓張月』の白縫姫役であったが、三島は45年11月に割腹自殺で果て、玉三郎の大成を見ることはなかった。

 明けて昭和46年、若手の練習場として親しまれてきた東横ホールがその初春興行をもって28年の歴史を閉じた。2月には、関西歌舞伎の復活を祈念して、大阪新歌舞伎座で片岡秀公が五代目片岡我當を襲名し、その長男新之助が初舞台を踏んだ。大谷ひと江改め七代目嵐徳三郎の改名も併せて披露された。

 4月3日、市川寿海の訃報が届く。84歳の大往生とはいえ、その実直温厚な人柄で信望を集めた名優の死は、劇界にとって大きな痛手であった。明治25年に五代目市川小團次の門に入り、五代目市川寿美蔵の芸養子となって六代目寿美蔵を継いだ。二代目左團次一座における二代目市川松蔦とのコンビは、その清潔な透明感と浪漫的な情緒が魅力で、大正歌舞伎の青春のシンボルといわれた。昭和24年に三代目寿海を襲名。その朗々たる名調子と若々しさは、左團次と十五代目市村羽左衛門の芸風を正しく伝えるものであり、最後までその輝きを失うことはなかった。

 門閥外から俳優協会名誉会長という劇壇の頂点までのぼりつめた寿海であったが、家庭運には恵まれなかった。跡継ぎがないため養子に迎えた市川雷蔵は、わずかその3年後に映画界に去り、眠狂四郎などの当たり役を得てスターダムにのし上がった。39年1月、10年ぶりに日生劇場勧進帳』で富樫を演じ、舞台への意欲を見せたが、それもつかの間、44年7月17日、雷蔵は37歳の若さで肝臓ガンに倒れ、養父寿海に逆縁の憂き目を残して永遠の眠りについた。

 さらなる訃報が劇界を襲う。昭和46年6月、国立劇場『髪結新三』で家主長兵衛を演じていた八代目市川中車の急逝である。享年74。二代目段四郎の二男として猿翁を兄に持ち、市川松尾、八代目八百蔵を経て、28年に中車を襲名した。幸四郎について東宝に移籍し、東宝劇団の副将格にあった。三船敏郎が大石内蔵之介を演じたテレビドラマ「大忠臣蔵」の吉良上野介役でいい味を見せていたが、討入に至る直前に帰らぬ人となり、弟の市川小太夫が代役に立った。番組冒頭、紋付袴姿の小太夫が中車の遺影の前で挨拶をする場面は、口上の幕そのままであった。

 46年7月の歌舞伎座は、猿之助という名跡が初代から現三代目まで、ひと月たりとも途絶えることなく百年続いたことを記念する「猿之助百年祭」で、昼の部を猿之助の奮闘公演とした。それまで7月は1年中で最も入りの悪い月であったが、この興行が大当たりし、以来4年間は昼の部のみ、5年目からは昼夜通しでの恒例となり、現在に至っている。猿之助の成功は何といっても『義経千本桜 ― 四の切』の人気によるところが大きく、この一幕が目当ての観客が増え、猿之助宙乗りが終わった途端に観客がごっそり減ってしまうことが度重なった。こうなると次の幕に出るお偉方は面白くない。当然のように若手の猿之助への風当たりは強まった。むろん、これに動じる猿之助ではなかったが。

 この頃からすでに猿之助の猛優ぶりは顕著で、44年8月の御園座で『東海道四谷怪談』を通し上演した際は、新しい仕掛けをふんだんに使ったため、二場を残して舞台稽古を切り上げたのが初日の朝8時。10時に開幕し、2回公演の終幕は深夜の12時半にまで及び、その間ほとんど出ずっぱりでいながらいちばん元気な猿之助のエネルギーに、周囲は舌を巻いた。

 猿之助は当時、芝居中心の「春秋会」と舞踊中心の「おもだか会」を主宰しており、46年10月の第2回おもだか会は、全18番のうち12番を猿之助が踊るという猿之助ならではのプログラムで、舞台稽古は連日、午前4時頃まで続く強行軍。2日間の会を踊り抜き、その2日後に歌舞伎座の顔見世で「四の切」を出した。さすがの猿之助にも体力の限界はある。眼目の宙乗りで、雲に乗っているようないい心持ちを楽しんでいるかに見えた猿之助がにわかに昏倒し、こんこんと眠り続けた。嬉しそうに跳ね回るはずの狐がじっと動かないまま水平移動していく異様さは、さぞかし観客やスタッフの不安をかきたてたことだろう。