今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和38年~40年

 昭和30年代初めにピークを迎えた映画ブームも長くは続かず、38年に国産初の連続アニメ「鉄腕アトム」、40年には初のカラー・アニメ「ジャングル大帝」の放映が開始され、テレビはいよいよ娯楽の中心として庶民の生活に根づいていく。このような時代の変遷も歌舞伎界にとっては悪いことではなかった。なぜなら、衰退期に入った映画界から、澤村訥升・精四郎(九代目宗十郎藤十郎)、中村鴈治郎扇雀(二代目・三代目鴈治郎)らェ相次いで舞台に復帰したからである。

 3月には二代目實川延二郎が三代目實川延若を襲名した。今年こそ、今年こそはと期待されながら、父二代目延若の歿後12年ものブランクを経てようやく誕生した三代目延若には、待ちかねたファンから大きな声援が寄せられた。

 5月の市川猿之助改め市川猿翁市川團子改め三代目市川猿之助市川亀治郎改め四代目市川團子(のち四代目市川段四郎)の襲名披露には数々のエピソードが残されている。

 二代目猿之助は孫の團子の大学卒業後、名題披露の際に名を譲る約束をしていたが、その時期が近づくにつれて長年親しんだ猿之助の名への愛着が募り、譲るのが惜しくなってしまった。そうなると團子が継ぐべき名がない。当時から合理主義の論客であった團子は、誰でも知っていて覚えやすい名前でなければ損だと考え、すでに系列が絶えている坂田藤十郎を継ぎたいと希望するが、上方歌舞伎の祖の名を継ごうなどとは不遜であると一蹴され、それならと雪之丞を挙げた。『雪之丞変化』で有名だからと詰め寄られ、祖父はしぶしぶ納得する。このままであれば現猿之助は市川雪之丞を名乗っていたはずなのだが、その発表も済ませたあとで、二代目猿之助は金の矢がグサリと頭にささる夢を見て死を予感し、再び孫に猿之助の名を譲る気になった。これで話しはふりだしに戻り、今度は猿之助が自分の新しい名前を決めなければならない。回りの助言もあって猿翁という名を選んだものの、老いてもなお青春の情熱を感じさせる優であっただけに「翁はまだ早い」との思いから、「翁の文字、まだ身にそまず衣がえ」という自作の句を袱紗に染めて配ることにした。

 襲名の準備は順調に進むが、猿之助の不吉な予感は的中し、浅草寺で恒例の“お練り”が行われた4月20日、心臓病に倒れ、襲名披露の舞台出演にドクターストップがかかった。しかも二代目猿之助の息子で当時の團子・亀治郎兄弟の父にあたる三代目段四郎は前年春からすでに病床にあり、逆縁になるのではと危ぶまれる状態にあった。華やかな襲名に暗い影がさし始める。周囲の不安を振り払おうとするかのように、新猿之助は襲名興行に意欲を燃やし、祖父の披露狂言のうち『黒塚』の代役を申し出た。この役には若すぎる孫の、それを承知の上での切望。祖父は、屈指の当たり役として練り上げてきた『黒塚』を孫に託した。開幕の時刻になると病院のベッドの上に起き上がり、1時間15分の上演中じっと合掌する毎日。この祖父の一念を受けて、新猿之助は初役の『黒塚』を見事に踊りきった。

 千秋楽の3日前に病院の許可を得て監事室から孫の舞台を見守った猿翁は、「せめて1日だけでも口上の席に出てやりたい」と出演を決意する。これを聞いて段四郎も駆けつけた。口上の幕の最初から舞台に座っていたのでは身体への負担が大きすぎる。終わりに新猿之助が2人を迎えに行く形式をとり、居並ぶ役者は全員、2人が座につくまで身体を起こし、2人のおぼつかない足もとを少しでも客席から隠すようにした。それでも2人の体調の悪さは隠しようがない。口上を述べるのも苦しげな切れ切れの言葉に込められた、子への、孫への思いが客席に伝わり、この口上は以後“涙の襲名”として語り継がれることとなる。

 新猿之助・團子の襲名を見届けて、猿翁は翌月に、段四郎は秋にこの世を去った。2人の1周忌を機に現猿之助によって制定された「猿翁十種」は、猿之助自身が最高傑作と語る『黒塚』をはじめとして『二人三番叟』ほかを加えた舞踊集である。猿翁・段四郎父子の『二人三番叟』は、うりふたつの姿形が面白く、他の組み合わせでは見られない独特の楽しさがあった。

 7月の歌舞伎座では、大喜利にチビッ子連が『白浪五人男』のつらねを熱演して客席を沸かせた。広松の駄右衛門、八十助の弁天、梅枝の赤星、光照の忠信、勘九郎の南郷という顔ぶれ。広松は40年9月に父の四代目中村雀右衛門襲名に合わせて七代目を襲名した中村芝雀、梅枝は現中村時蔵、光照は39年7月の三代目・四代目中村時蔵追善興行の折りに中村光輝として正式な初舞台を飾った中村歌昇である。時代が下って平成元年には、市川新之助尾上丑之助(のち菊之助)、坂東亀三郎坂東亀寿中村勘太郎が同じく五人男をつとめたが、この中では年長といってもまだ小学生だった新之助菊之助が今では成人し、大役をつとめるようになっている。次は彼らの子供達が可愛いつらねを聴かせてくれるのだろうか。

 39年1月には、東横ホールで市川男女蔵(のち四代目市川左團次)を最年長とする若手歌舞伎が第1回公演の幕を開け、前年10月末に柿落しをしたばかりの日生劇場では、初の歌舞伎公演で市川雷蔵が10年ぶりに舞台姿を披露し、養父の寿海によく似た面差しで往年のファンを喜ばせた。日生劇場はその後、勘三郎の『リチャード三世』(39年3月)、松緑の『シラノ』(39年4月)とサルトル作『悪魔と神』(40年10月)など、歌舞伎座では見ることのできれない異色の舞台で話題を集めた。

 二代目市川左團次一行のソ連公演を嚆矢とする歌舞伎海外公演も、39年8月のハワイ公演で6回目となった。これまでの海外公演と違うところは、観客総数の7割以上を日系市民が占めたことである。そのうち一世の人達は懐かしい日本の歌舞伎に無条件に感激し、二世以降の人達は第2の母国への憧れを胸に歌舞伎を歓迎した。AプロBプロ共通の『仮名手本忠臣蔵』五・六段目を柱に、Aプロは『二人三番叟』『鈴ヶ森』『京鹿子娘道成寺』、Bプロは『壺坂霊験記』『連獅子』『隅田川』を加えたところ、この次はぜひ雪の降る芝居を、という注文が出たのも南国らしい。

 一行がホノルルにいる間に、門弟の舞踊公演の応援にきていた尾上菊之丞がホノルル市内の病院で急逝した。享年56。舞踊家に転向したとはいえ、かつては琴次郎を名乗り、しげる(のち鯉三郎)とともに師匠の『鏡獅子』で胡蝶をつとめた六代目菊五郎門下の俊秀である。仮葬儀には一行が全員参列し、異郷の空で寂しく死んだ菊之丞の霊を慰めた。

 40年10月には、初の訪欧歌舞伎団がベルリン、パリ、リスボンの3都市を巡演した。演劇の伝統が長く自国の文化に対する自尊心が強い土壌で、果たして歌舞伎は受け入れられるかどうか不安があったが、この不安は全くの杞憂に終わり、合計26回の公演はいずれも大成功のうちに幕を閉じた。パリでの初日の直前、『車引』の桜丸、『京鹿子娘道成寺』の花子、『仮名手本忠臣蔵』の判官と3つの大役をつとめる尾上梅幸に母堂逝去の報が届くが、梅幸は全公演が終了するまで団員にも知らせないようにと申し渡し、大使館の弔意も辞退したという。

 この年2月の東宝劇場、3月の歌舞伎座、4月の大阪歌舞伎座と3か月連続で七代目松本幸四郎の追善興行が催され、十一代目市川團十郎、八代目松本幸四郎尾上松緑の3兄弟の共演が大きな話題を呼ぶ一方、東宝歌舞伎座の攻防をはじめ舞台裏が様々に報道され紙面を賑わせた。だが、例えば歌舞伎座勧進帳』で3兄弟が弁慶と富樫を1日替りでつとめるなど、純粋な歌舞伎公演としても意義があり、3人の名優を歌舞伎界に残した七代目世幸四郎の大きな功績が改めて認識される結果となった。

 翌5月歌舞伎座の六代目尾上菊五郎17回忌追善興行では、尾上丑之助が四代目菊之助(のち七代目尾上菊五郎)を、尾上左近が初代として尾上辰之助を襲名した。この後まもなく市川新之助(現團十郎)を加えた「三之助」ブームが到来するのは御承知のとおりである。

 この興行で『保名』を踊ることになっていた團十郎が初日から休演し、前年の日本俳優協会脱退に続いて物議をかもした。表向きは病気休演だが、口上の序列が気に入らなかったらしい。團十郎の突然のストライキは珍しいことではなく、そのために風当たりが強くなっていた最中の出来事であったが、今にして思えば、決して個人のわがままではなく、養子の身で市川宗家を継いだ者として、團十郎という名跡に対する責任感の現われではなかったか。だが團十郎はそうした思いを伝えようとはしなかった。すべてを内に秘め、ひたすら沈黙してしまう。実弟松緑ですら兄團十郎の胸の内を推し量ることはできなかった。

 八方から説得され、懇願され、團十郎はようやく10日目から出演する。このとき踊った『保名』が團十郎の本興行最後の舞台になろうとは誰が想像し得ただろうか。7月28日の第4回「演劇人祭」でトリをつとめ、『助六』の素踊りで江戸の粋を体現して見せたのが公の場における團十郎の最後であった。無器用な役者といわれながら、終戦の翌年に東劇の『助六』で大評判をとり、歌舞伎再興の象徴と称され、26年に新装歌舞伎座で演じた『源氏物語』の光の君は、この人なくしてはあり得なかった舞台とまで絶賛され、"海老さまブーム"に火をつけた。團十郎襲名からわずか3年半。「遅咲きの花」「未完の大器」といわれ続け、これからの円熟の舞台を期待されていた矢先の、あまりに突然の永別であった。享年56。最後までガンとは知らされないまま、死の直前、無意識のなかで弁慶の飛び六法の手つきをしていたという。以後、このとき19歳で父に別れた新之助海老蔵を経て昭和60年に十二代目を襲名するまでの20年間、市川團十郎名跡は空席となる。