今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和35年~37年

 昭和35年5月27日夜、初の歌舞伎アメリカ公演に向けて総勢63人の一行が羽田空港を飛び立った。日米修好百年記念の企画として国際文化振興会が2,700万円の渡航費を負担し、ニューヨーク・シティーセンターを皮切りに、ロサンゼルスはグリーク・シアターで野外公演のあと、サンフランシスコのオペラハウスで締めくくる約1か月の旅。俳優陣は、中村勘三郎中村歌右衛門尾上松緑を中心に、4月に四代目を襲名したばかりの中村時蔵ほか計24人で、『勧進帳』『壷坂霊験記』『籠釣瓶花街酔醒』『仮名手本忠臣蔵(大序から城明渡しまで)』『身替座禅』『京鹿子娘道成寺』の6演目から3つずつ組み合わせた3通りのプログラムを用意。それぞれ約2時間強の枠内におさめるために大幅なカットを余儀なくされたものの、歌舞伎のエッセンスは十分に伝わり、各地で大好評を博した。いちばん高い評価を得たのが『勧進帳』で、意外に好評だったのが『壷坂』、容易に理解され大ウケだったのが『身替座禅』という評には納得がいく。『忠臣蔵』は特に切腹の場が興味を集め、『籠釣瓶』は八ツ橋の豪華な衣裳が絶賛され、『道成寺』では、歌右衛門の花子が醸し出す夢幻美のみならず、長唄連中の演奏も高い評価を得た。

 勘三郎が演じた『籠釣瓶』の次郎左衛門に対して「女を殺したのだから腹を切れ」という投書が舞い込み、急きょ殺し場の後に切腹する演出に変えたところ、戦後、歌舞伎の解禁に尽力してくれた恩人であるバワーズ氏から「芸の分かるアメリカ人もたくさんいるのだから、素人の言うことを聞いてはいけない。腹を切るとは何事か」と怒られ、元の演出に戻した。また公演中、松緑夫妻がバワーズ氏の紹介で人嫌いで有名なグレタ・ガルボに会うことになり、歌右衛門が同行したところ、ガルボは終始うっとりとした瞳で歌右衛門を見つめ、その後ガルボから歌右衛門に「ラブ・ラブ・ラブ・・・・」と熱いメッセージを綴った電報が届いた。ほかにも数々のエピソードを残して、記念すべき第1回アメリカ公演は大成功のうちに幕を閉じた。

 同年9月には、尾上梅幸ニューヨーク大学付属演劇研究所の講師として招かれ、アメリカ人のプロの俳優を相手に6週間『鳴神』の演技指導にあたった。また、翌36年6月には、二代目市川左團次以来32年ぶりのソ連公演が実現し、市川猿之助一門に實川延二郎(のち延若)と歌右衛門を加えた総勢72名の一座で、モスクワとレニングラードで約1か月間にわたり『連獅子』『籠釣瓶』『俊寛』『娘道成寺』『鳴神』の5つを披露した。これらすべてを3時間で上演する必要上、『籠釣瓶』は八ツ橋の花魁道中のみであったが、連日超満員の大盛況。特に『俊寛』はこの異国の地でも深い感動を巻き起こし、鳴り止まぬ拍手に猿之助はカーテンコールで応えた。こうして歌舞伎もいよいよ国際化の時代に入る。

 一方、日本では、アメリカ公演のニューヨーク初日と1日違いで松本幸四郎白鸚)主演の『オセロー』が開幕した。本格的なプロデューサー・システムを採用し、歌舞伎、新劇、映画の各分野から出演者を募り、丸1か月の稽古を経て本番という革新的な試み。森雅之のイアーゴー、新珠三千代のデズデモーナを相手に、幸四郎のオセローは大将軍を威風堂々と演じたが、見についた歌舞伎独特のテンポとリズムはシェークスピア劇になじみきれない感があり、周囲とのアンサンブルにおいても、幸四郎自身、満足できない結果に終わった。先年の『日向嶋』『明智光秀』に続く幸四郎の挑戦は、十分な稽古もできない松竹の興行体制に対する反発であり、その不満は幸四郎一門の東宝移籍という大激震となって爆発する。

 先陣を切ったのは息子の染五郎・万之助(幸四郎吉右衛門)兄弟で、2人の移籍は36年2月、折しも歌舞伎座で2人の祖父である七代目松本幸四郎の13回忌追善興行が開始された直後に発表された。松竹にしてみればまさに寝耳に水。幸四郎の去就をめぐって報道は過熱し、果たして東宝なら幸四郎の理想がかなうのかと疑問視する声も少なくなかったが、まもなく幸四郎以下25人の移籍が正式に発表され、6月には東宝劇団の旗揚げ公演が幕を開ける。越路吹雪フランキー堺高島忠夫浜木綿子らに幸四郎一門が加わる異色の出演陣。染五郎・万之助兄弟の『寿二人三番叟』は、浄瑠璃管弦楽を組み合わせ、岡本太郎の美術で洋風な色彩が強く、その奇抜さは少なからず戸惑いを招いた。この移籍の仕掛人である菊田一夫の作『野薔薇の城砦』では、染五郎は白樺林をバックに浜木綿子とデュエットするなど、ミュージカル・スターとして活躍するが、特に見せ場もなく手持ち無沙汰な幸四郎の姿は、歌舞伎役者としての幸四郎を愛してやまない人々を嘆かせた。幸四郎自身「これが本来の仕事ではない。この公演だけで東宝入りの意義を云々しないでほしい」と語り、将来への期待を強調したが、幸四郎の理想は実現されないまま、孤高の戦いは10年の長きに及ぶこととなる。

 松竹と東宝の攻防が続く中、弟の澤村精四郎(藤十郎)に続いて兄の訥升(宗十郎)が東映に移籍してまもなく、2人の父である七代目澤村十郎も東映入りを決意する。但し、東宝移籍組と違ってこちらは映画界への転身であった。40年余の間、女形ひとすじで生きてきた宗十郎に初めて与えられたのは、訥升主演『若殿千両肌』にちょっと出るだけの殿様の役。決心がつかないまま返事を延ばすうちに別の俳優で撮影が終了し、以後、出演依頼が来るたびに「もう少し慣れるまで」の一点ばり。結局ついに1本の映画にも出ないまま、宗十郎は1年2か月後の37年10月歌舞伎座興行から松竹に復帰する。「あんた舞台で死になはれ」- 大谷会長のこの一言が宗十郎を号泣させた。

 37年11月、踊りの神様と呼ばれた七代目坂東三津五郎が80年の生涯を閉じた。晩年の軽妙洒脱にして恬淡とした味わいは余人をもって代え難い極上の舞台と評されていたが、32年9月歌舞伎座の『寒山拾得』公演中に倒れて以来、ついに再起することなく、明治の歌舞伎の匂いをもった最後の役者は静かに逝ってしまった。

 開けて38年1月、時蔵急逝の悲報が劇界を駆け抜ける。34歳という早すぎる死。この月、歌舞伎座初春興行で『め組の喧嘩』の女房お仲と『石切梶原』の梢を好演し、明日はようやく千秋楽というところまで勤めあげながら、就寝中に意識不明に陥ったのである。36年4月の四代目襲名以来ほとんど無休で舞台をこなし、疲れきった身体を少しでも休ませようと手にした睡眠薬がこの美貌の女形の命を奪った。勘三郎にとっては可愛い甥。楽屋ですでに滂沱の涙を流した勘三郎は『め組の喧嘩』辰五郎内の場でとうとう泣き出してしまい、異様な雰囲気のうちに幕が閉まると、鳶の扮装のままで時蔵の死を観客に伝えた。時蔵は、五男五女に恵まれた三代目時蔵の次男。弟の錦之助と嘉葎雄は映画界に去り、獅童に続いて兄歌六も足の故障のために役者の道を断念し、新時蔵の襲名興行を名残りに舞台を退き、ただ一人歌舞伎界に残る時蔵と、この興行で三代目中村梅枝を名乗って初舞台を踏んだ時蔵の長男光晴(現時蔵)に萬屋の将来を託した。萬屋の看板を一身に背負った時蔵の不慮の死は切なく悲しい。梅枝はこの時わずか5歳であった。

 しかし、嘆いてばかりはいられない。翌2月の市川松蔦改め七代目市川門之助市川男寅改め五代目市川男女蔵(のち四代目市川左團次)襲名に続き、長年の懸案であった海老蔵改め十一代目市川團十郎の襲名がようやく実現する。前売りには2千人を超える行列ができ、出演俳優約270人、ポスター5千枚、興行費用は4月・5月の2か月分でざっと1億7千万円と、何から何まで空前絶後の大興行であった。幸四郎東宝移籍の際に「カブキ王国大揺れ」と報じた新聞が今度は「世紀の歌舞伎祭典」とお祝いムードを盛り上げる。誰もが歌舞伎の明るい未来を思った。團十郎という名跡にはそれだけの力があった。満を持して誕生した新團十郎がその後わずか3年足らずのうちにこの世を去ってしまうとは、この時、誰が想像し得ただろうか。

 秋の歌舞伎座9月興行には三津五郎家三代の慶事が華やかさを添えた。先に逝った七代目の息子である坂東簑助が八代目坂東三津五郎を、娘婿の坂東八十助が七代目蓑助(のち九代目坂東三津五郎)を、そして孫の寿が五代目八十助(のち十代目坂東三津五郎)を襲名したのである。

 この頃、悲喜こもごもながら激動する東京の劇界と対照的に、衰退著しい関西の歌舞伎はほとんど窒息状態にあり、関西歌舞伎を中心に活動してきた演劇雑誌「幕間」が16年の歴史を閉じ、終刊のやむなきに至った。ここで、上方の灯を消してはならじと立ち上がったのが十三代目片岡仁左衛門である。私費を投じて上方歌舞伎の再興に賭けた仁左衛門歌舞伎は、その意気に感じた諸優の協力を得て、37年8月の文楽座で、祈るような気持で初日の舞台に臨んだ。『ひらかな盛衰記』『夏祭浪花鑑』などの演目を並べ、普段上演されない場面を復活して筋を通しすことにより、何より歌舞伎を理解してもらいたいという仁左衛門の願いが通じたか、大入りを記録し、以後恒例となって40年からは南座に舞台を移すことになる。

 この頃の劇界は、様々な矛盾をはらみつつ、自由なエネルギーに満ちあふれ、ともすれば迷走しそうになりながら、歌舞伎のあり方、興行のあり方を模索していたのではなかったか。そして、その答えはいまだに出ていない。