今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和29年~31年

 昭和29年2月封切の美空ひばり主演時代劇「ひよどり草紙」で、中村(のち萬屋錦之助が銀幕デビューを飾った。この頃、大谷友右衛門(現中村雀右衛門)は舞台を離れて映画界にあり、中村扇雀(現鴈治郎)も年に数本の東宝映画に出演して扇雀ブームを巻き起こしていたが、東映の専属となった錦之助に続いて市川雷蔵大映入りし、2人は時代劇スターへの道を邁進していく。1年遅れて錦之助の弟賀津雄が、またその翌年には岩井半四郎猿之助劇団を飛び出して2人の後を追った。そればかりではない。歌舞伎界でもこれまでに『紅葉狩』『鏡獅子』『勧進帳』などの記録映画が撮影されていたが、この頃から歌舞伎俳優の商業映画への出演が激増する。演劇雑誌で紹介されている作品だけでも、年間10本余りの映画に菊五郎劇団、坂東簑助(八代目三津五郎)、三代目中村時蔵・二代目中村歌昇親子らが出演し、松本幸四郎白鸚)も毎年7月は映画を撮るのが恒例となっていた。このような風潮を議論したところで、映画隆盛の波にあらがいようはない。カラー映画が「総天然色作品」と呼ばれた時代。ヘップバーン・カットの流行を生んだ「ローマの休日」や、ジェームズ・ディーンの事故死直後に封切られた「エデンの東」などの洋画に加えて、東宝特撮映画「ゴジラ」も誕生する。すでにテレビ放送も始まっている。娯楽の多様化に伴い、歌舞伎のあり方を問い直す必要が生じていた。

 封建的と批判の的となっていた松竹の体制に最初の一石を投じたのは、3月末に2日間、歌舞伎座で開催された中村歌右衛門の研究会「莟会(つぼみかい)」の自主公演である。『鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)』で傾城の歌右衛門、赤っ面の尾上松緑、若殿の市川海老蔵(十一代目團十郎)の3人がセリ上がると、その錦絵のような美しさに場内は異様な興奮に包まれた。歌右衛門吉右衛門劇団、松緑菊五郎劇団、海老蔵菊五郎劇団の客分であったから、劇団制に固執していた当時の松竹の支配下では実現不可能な顔合わせ。もちろん観客は大いに喜び、賞賛の拍手を贈った。しかし、従来の様々な研究会と異なり、多くの作家や裏方の支持を得た規模の大きさや内容の濃さに危機感を抱いたものか、松竹は莟会を支援しようとはしなかった。

 さらに、8月興行終了直後、坂東鶴之助(現中村富十郎)の松竹脱退声明は関西歌舞伎界を揺るがす事件となった。役への不満が原因であるとか、ライバル扇雀への対抗心とか、様々な憶測をはらんで報道が過熱した。一時は和解して鶴之助の舞台復帰が予定されるものの、二代目鴈治郎が同座を拒否したために取り止めとなり、この鴈治郎の態度に憤慨した簑助が人権侵害を理由に訴えるまでの騒ぎに発展する。鴈治郎鴈治郎で、すべての原因が自分であるように言われるのは心外、と松竹に無期休演を申し入れた。鴈治郎は約半年後に南座に復帰して関係者を安堵させたものの、感情的な内紛が日々報道される状態で観客を魅了する舞台ができようはずはない。結束のもろさを露呈した関西歌舞伎の将来を危ぶむ声が高まったのも無理はなかった。

 そして痛恨の9月。東京では中村吉右衛門が、大阪では阪東寿三郎が帰らぬ人となった。吉右衛門は、菊五郎の死後めっきり衰えたとの評判もあったが、4月の『佐倉義民伝』で見せた木内宗吾は神がかりとまで言われ、7月の『熊谷陣屋』で演じた生涯の当たり役が最後の舞台となった。享年68。体調には人一倍気を遣い、病弱を看板にして始終あちこちの故障を訴える吉右衛門に周囲もすっかり慣れてしまい、いつものことと軽く考えられていただけに、まさに不意打ちのような急死であった。だが、実は十数年も前から吉右衛門は心臓を病んでいた。大きな声を出して心臓を圧迫するのは命取りとの診断がごく数人に伝えられたが、治療の方法がない以上、役者としてしか生きようがない吉右衛門に舞台を捨てよとの宣告はできない。結局、吉右衛門は最後まで自分の心臓疾患に気づかぬまま、この悪性の疾患によって命を奪われたのであった。9月の歌舞伎座は七代目松本幸四郎の7回忌追善興行。豪華な顔ぶれによる追善口上の後、幕外に弟の時蔵勘三郎と娘婿の幸四郎が居並び、吉右衛門を偲ぶ口上が千秋楽まで続いた。

 三代目阪東寿三郎は胃ガン死であった。東京で修行した時代には、風貌が似ていたことから「西の左團次」と呼ばれ、本人もこれを意識して二代目左團次の当たり役を手がけた。大阪に戻って関西歌舞伎の総帥となり、市川寿海と並べて「双寿時代」という言葉も生まれたが、寿海は東京から移って日が浅いだけに、「寿やん」の愛称で親しまれた寿三郎の死は地元ファンを嘆かせた。また、寿三郎を最後に、阪東姓の役者は姿を消したのである。

 東西の巨頭を喪い悲嘆にくれる劇界に追い打ちをかけるかのように、翌30年1月、歌舞伎界の長老、二代目河原崎権十郎が74年の生涯を閉じた。前名は市川権三郎。実母がのち河原崎権之助に嫁ぎ、前進座河原崎長十郎とは同腹の兄弟にあたる。この縁もあって市川宗家から、九代目市川團十郎が河原崎家の養子であった時代に用いた河原崎権十郎の名を許された。その息子が平成10年2月に不帰の客となった山崎屋である。父の死から1年余の30年3月に三代目河原崎権十郎を襲名した。若き日「浅草の羽左衛門」と呼ばれた父と「渋谷の海老さま」と呼ばれた息子。これらの愛称は文句なしの二枚目の証拠と言えよう。

 30年4月、大谷友右衛門が実に4年振りに歌舞伎座の舞台に返り咲き、6月には梅幸歌右衛門歌舞伎座新橋演舞場に分かれ『京鹿子娘道成寺』を競演して話題を呼んだ。そして7月、第2次東宝歌舞伎の第1回公演が華々しく開幕する。長く接収されていたアーニー・パイル劇場の正式返還を機に実現したもので、戦前の第1次東宝劇団が水泡に帰した苦い経験から、小林一三東宝社長は、歌舞伎は松竹に任せてミュージカルをめざし、長谷川一夫を中心とする新しい歌舞伎を上演するとの方針を示した。しかし、この公演に、東宝と映画の契約がある扇雀のみならず歌右衛門勘三郎まで出演すると分かり、松竹は慌てたが後の祭り。片岡芦燕改め十三代目片岡我童十四代仁左衛門追贈)の襲名披露興行をぶつけて対抗したものの、チケットにプレミアムがつくほどの東宝歌舞伎の人気には及ぶべくもなかった。

 小林社長の方針に沿って洋楽を駆使した派手な演出は伝統的な歌舞伎とは全く異なるものであったが、4大スターの競演による豪華絢爛な「歌舞伎レビュー」が大衆演劇として大成功をおさめたことは間違いなかった。但し、歌右衛門が参加したのは第1回公演のみ。出演すれば自分にマイナスになるとの判断からである。歌右衛門の古風な芸風と相容れる世界ではなかった。

 東宝は、この公演の準備段階で大きな失態を演じる。幸四郎を除く吉右衛門劇団全員の出演を予定していながら、歌右衛門勘三郎の2人を重視するあまり他の役者を粗略に扱い、個別に役の交渉もしないうちに宣伝資料を作成し、その中で4大スター以外は十把ひとからげ。当然のように抗議が噴出し、紛糾の末にポスター類は刷り直されたが、それで収まるような問題ではない。結局、適当な役がつかなかった八代目澤村宗十郎は出演を辞退した。さらに、映画出演の予定があるとはいえ交渉の段階からはずされていた幸四郎にも不快感が残り、座長亡きあとの吉右衛門劇団を三頭制で支えてきた幸四郎歌右衛門勘三郎の結束に亀裂が生じる結果となった。この亀裂はのちに大きな展開につながっていく。その意味で、東宝歌舞伎が投じた波紋は決して小さいものではなかった。

 波瀾が続く中、慶事がなかったわけではない。坂東慶三改め十代目市川高麗蔵坂東彦三郎改め十七代目市村羽左衛門、片岡秀彦改め秀太郎の襲名披露のほか、当代の尾上松助澤村藤十郎中村歌六市川右之助中村梅玉中村松江(現魁春)兄弟、市川團蔵らが初舞台を踏んでいる。また、高麗蔵の実弟である坂東光伸が坂東簑助の愛娘と結婚、養子縁組して四代目坂東八十助を襲名し(九代目三津五郎)、長男寿(八十助を経て現十代目三津五郎)の誕生は、長く男子に恵まれなかった守田家に大きな喜びをもたらした。その一方で、五代目中村竹三郎、二代目市川照蔵、市川雷蔵の実父である二代目市川九團次、三代目尾上菊十郎松本錦吾らの名脇役が相次いで歿し、舞台を寂しくした。

 さらに、31年2月、五代目市川三升が逝く。葬儀に参集した人々は「故十代目市川團十郎堀越福三郎の柩」と大書された白いのぼりに息を呑んだ。前日に養子海老蔵の発案で急遽決まった追贈であった。九代目團十郎の長女実子の婿として堀越家に入った元銀行マン。九代目は孫に跡を継がせる考えであったが、その死後、福三郎自身が30歳を目前にして役者に転身し、周囲を驚かせる。素地の不足はいかんともしがたく、役者としての評価は決して高くなかったものの、市川宗家としての重責をよく果たし、歌舞伎十八番の中でも埋もれていた古劇の復活に努め、百曲近い小唄を残した趣味人でもあった。温厚篤実な性格で、團十郎名跡を熱望していながら、自身の評価を分かっていればこそ口にできない。そんな養父の胸中を察した海老蔵の発案による追贈は、故人にとって何よりの供養であったろう。

 現在も人気の高い舞踊の『お祭り』で、大向こうの「待ってました!」の声に鳶頭が「待ってましたとはありがてぇ」と受ける場面は、いかにも歌舞伎らしくて楽しい。しかも長期の病気休演からの復帰となれば喜びが倍になる。孝夫時代の復帰の舞台で仁左衛門が見せた颯爽とした姿はまだ記憶に新しいが、遡ること約40年、勘三郎の復帰もこの鳶頭であった。盲腸炎から併発した腹膜炎がこじれ、膿が骨盤を冒すという何千人に1人の大病。長く面会謝絶の状態が続き、入院生活は5ヵ月に及んだ。8ヵ月ぶりの復帰の初日にはまるで2度目の初舞台のように緊張したという。自宅で床上げを祝った31年5月27日は、長男哲明(現勘九郎)の満1歳の誕生日であった。