今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和26年~28年

 戦火に焼け落ちて以来5年半余を経て、歌舞伎座はようやく、昭和26年1月3日に待望の新築開場式を挙行した。柿落しの演目は、三津五郎猿之助時蔵の『寿式三番叟』と豪華な顔ぶれの『華競歌舞伎誕生』。5日初日の初興行には吉右衛門の当たり役『二条城の清正』をはじめ『六歌仙』『二人三番』『籠釣瓶』などの華やかな演目を並べ、2月23日まで延続された。景気づけに積み上げた酒樽は4種各48樽、計192樽を数え、プログラムには、当初の3万部に限り、劇画院の名手の競筆による歌舞伎双六のおまけつき。初日から「満員御礼」の垂れ幕がはためき、その懐かしい風景はこの日を待ちかねたファンを大いに喜ばせた。歌舞伎を上演する劇場がほかにいくつあろうと、やはり歌舞伎座は特別なのだ。

 歌舞伎座の復興を喜ぶ松竹にとっての痛恨事は、この興行中に創立者のひとりである白井松次郎会長が病没したことである。享年73。双子の弟、大谷竹次郎社長とともに、歌舞伎はもとより文楽、映画、芸能諸分野の隆盛に尽くした一生であった。

 白井会長の死から1か月後、初代中村鴈治郎亡き後の関西歌舞伎を長老として支えてきた二代目實川延若が逝った。享年73。万能役者と呼ばれ、『仮名手本忠臣蔵』の師直、由良之助、勘平、平右衛門、与市兵衛、戸無瀬、定九郎の7役をひとりで勤めて大喝采を博したこともあり、「動く錦絵」と賞賛された『楼門五三桐』の石川五右衛門は映画として残されている。決して器用ではないが大きく明るい芸風に加えて、何より大阪の匂いを濃厚に体現するところに延若の魅力があった。白井会長と延若とを相次いで喪ったことが関西歌舞伎の衰退の引き金になったとも言われている。

 白井会長が生前、力を尽くしたのがこの年3月にまず大阪歌舞伎座で、秋には東京の歌舞伎座で披露された片岡我當改め十三代目片岡仁左衛門の襲名であった。いずれも大盛況で、父十一代目の人徳と評され、十三代目自身も折々そう語った。十三代目の数々の当たり役の中でも、特に晩年の『菅原伝授手習鑑』菅丞相はまさに神々しいばかりの至芸であったが、十三代目が90歳で長逝してから3年余を経た平成10年は、十三代目の三男孝夫改め十五代目片岡仁左衛門の襲名披露で幕を開け、しきりに「亡き父のおかげ」と語る新仁左衛門のさわやかな笑顔は、代々受け継がれていく伝統の重みとぬくもりを感じさせた。

 26年のもうひとつの慶事は、中村芝翫改め六代目中村歌右衛門の襲名である。先年から話はあったが、父である先代が永く歌舞伎座の座頭であったことから、どうしても歌舞伎座で披露をしたいという本人の強い希望もあり、新築開場を待って4月・5月の50日興行となった。吉右衛門は「襲名の芝居も今は花ざかり」という句を贈り、若き新歌右衛門のまばゆいばかりの口上姿を描いた表看板に自ら筆をとって記した。この貴重な表看板が盗まれては一大事、と歌舞伎座は警護を厳しくしたそうだ。久保田万太郎も「春風やまことに六世歌右衛門」という句を寄せた。この襲名の意義は次の言葉に尽くされている。「かつて、五代目歌右衛門が長年にわたって君臨した歌舞伎座であってみれば、当時の歌舞伎ファンの胸中には、いまわしい太平洋戦争を中にはさむという苦難の時代のあとだけに、歌舞伎座歌右衛門と共にもどってきた、平和と共にもどってきたのだ、というなつかしさやうれしさがこみあげてきたにちがいない。歌右衛門という名前は、人々に夢を与え、平和の象徴となったのである」(中村歌右衛門山川静夫著「歌右衛門の六十年」岩波新書)。

 その後も、市川寿海と養子縁組した市川莚蔵改め七代目市川雷蔵(6月大阪歌舞伎座)、市川茂々太郎改め五代目市川九蔵(9月歌舞伎座)、市川笑猿改め十代目岩井半四郎(10月歌舞伎座)、中村吉三改め中村萬之丞(27年1月歌舞伎座)、坂東簑三郎改め市川市十郎(同1月中座)、市川男女蔵改め三代目市川左團次(5月歌舞伎座)、中村梅枝改め六代目中村芝雀(のち四代目中村時蔵)・中村種太郎改め二代目中村歌昇(のち廃業し四代目中村歌六追贈)(28年4月歌舞伎座)、市川八百蔵改め八代目市川中車・市川高麗五郎改め九代目市川八百蔵・市川喜太郎改め市川春猿(6月歌舞伎座)、澤村訥升改め八代目澤村宗十郎澤村源平改め五代目澤村訥升(のち九代目澤村宗十郎)(9月歌舞伎座)と、嵐のように襲名が続く。

 若干のエピソードをあげれば、映画界に転じて時代劇スターとなった雷蔵は、市川九團次を父に持ち、襲名披露興行には女方としても出演しているが、「将来は、女方もしたくないといふわけではなく…」という本人の言葉からすると、女方は決して好きではなかったとみえる。

 半四郎の名は、八代目の歿後70年も絶えていたのを、八代目の未亡人の最期に居合わせた坂東鶴右衛門が何とかこの江戸時代から続く名家を再興しようと獅子奮迅し、笑猿を後継者に選んでようやく実現したもので、不遇のうちに病歿した八代目の孫、粂三郎に九代目を追贈し、笑猿は十代目を継いで現在に至っている。

 左團次名跡については、笑猿や訥升をはじめ数々の候補者が挙がり、その行方は混沌としていたが、二代目の13回忌を機に男女蔵に決した。男女蔵は永く六代目菊五郎の薫陶を受け、当時も菊五郎劇団の幹部であったから、菊五郎と二代目左團次とがついに同じ舞台に立たなかったために「菊五郎劇団から新左團次が出ようとは」と驚く声も少なくなかったが、男女蔵の父門之助は、初代・二代目と二代の左團次と同座し、初世の歿後まもなく二代目が新たに一座を旗揚げした折り、若くして後ろ盾をなくした孤独な新座頭を支えた数少い同志のひとりであったから、縁薄からざる襲名といえる。楽屋に出された次のような貼り紙に新左團次の茶目っ気が見える。

 「サイン練習中に付當分ノ間御辞退申上ゲマス」

 訥升の宗十郎襲名には、高助・田之助という2人の兄との間で若干の調整を要した。大谷松竹社長の立会いの下、手打式を経てようやく解決をみるが、この時点では、訥升の次に宗十郎を継ぐべき者の決定が社長に一任されている。「幕間」昭和28年9月号はこの襲名の特集を組み、戸部銀作が「宗十郎三代」と題する一文を寄せた。その中の、例えば「先代宗十郎は率直にいへば、『表現力』のない、『間』の拙い、『せりふ』の悪い、『形』のきまらない下手な役者だったが、欠点をさへ押し隠すだけの長所を、天は与へてゐた。容姿と色気である」というような反語的な物言いが気に障ったか、新宗十郎は翌月の「幕間」誌上で猛然と反撃する。「父のことをああも悪く書かれた上で、お祝ひの言葉など頂いてもちっとも嬉しいとは思ひません。(中略)私にはただ戸部さんが、御自身を売出したいばっかりに、あんなことをお書きになったのだとしか考へられません」と、襲名の挨拶文にはそぐわない激しさである。ことの是非はともかくとして、当時の演劇誌には、劇評に限らず、歯に衣着せぬ率直なやりとりが克明に記述されていて興味深い。

 27年にはラジオドラマの人気が沸騰し、美空ひばりが歌った「リンゴ園の少女」の挿入歌「リンゴ追分」の大ヒットに続き、菊田一夫原作の「君の名は」が一大ブームを巻き起こし、翌年、岸恵子佐田啓二の主演で映画化された。そして28年2月1日午後2時、満を持してNHK東京放送局が日本初のテレビ放送を開始する。事実上最初の番組となったのは、菊五郎劇団の『道行初音旅』であった。大卒サラリーマンの初任給が平均7~8千円だった当時、テレビ受像機は18万円前後もしたから庶民にとっては高嶺の花で、都内・近郊50余箇所に設置された街頭テレビが人々を釘付けにした。

 8月には日本テレビも開局し、初日の記念番組に歌右衛門は『鷺娘』を踊った。当時の技術では白い色のテレビ写りが悪いため、顔を緑青のような色に塗り、浅葱の着物に薄鼠の帯。歌右衛門は「かっぱになったような気持がして」踊りにくかったという。9月には、勘三郎歌右衛門の『稲妻草紙』で初の舞台中継が実現した。

 その2か月後、またもや未曽有の出来事に劇壇は大いに湧くこととなる。天皇皇后両陛下の歌舞伎座御観劇である。明治20年の天覧歌舞伎は井上伯爵邸で催されたもので、劇場での天覧はこのときが歴史上初めての栄誉であった。日本赤十字社が両陛下を御招待した慈善興行で、その趣旨を汲んで陛下も1枚千円の観劇券を自ら購入されたと知り、関係者は感銘を深めた。これに先立ち、2月に皇太子殿下(今上天皇)が歌舞伎座を訪れた際、「勿体ないことです。世の中が変わったので、皇太子さまの方ではお気楽な態度をおとりになるとしても、私たちがそれに甘えたりするのは、それこそ勿体ないことです…」と、言い終わらないうちに目をうるませたほど、皇室を敬ってやまない吉右衛門にしてみれば、両陛下に『盛綱陣屋』を披露した感激はいかばかりであったか。もうひとつの演目は歌右衛門の『京鹿子娘道成寺』。歌右衛門は36歳の若さで、父と二代にわたる天覧歌舞伎出演の光栄に浴した。戦時中は自国の軍事内閣により、また戦後は占領軍によって抑圧された苦しい時代が嘘のように、歌舞伎はこうして、ようやく再生・安定の時期に入っていく。

 若々しい新芽も次々に育ち始めていた。27年2月の尾上松緑長男左近(のち初世辰之助)の初舞台に続いて、翌年10月には現團十郎が本名の夏雄のまま父に抱かれて初舞台を飾る。ここに、すでに初舞台を終えていた現菊五郎とあわせて、初代の三之助が舞台に出揃ったことになる。そして、こののち約40年を経た平成10年1月には、それぞれの子息が弁慶・富樫・義経という大役を勤めて浅草の初春歌舞伎を盛り立てた。父の、あるいは祖父の面影を探しながら、新しい世代の成長を保護者のような心持ちで見守る楽しさも、歌舞伎の醍醐味のひとつに違いない。