今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和20年~22年

 昭和20年1月、新橋演舞場菊五郎一座で、明治座吉右衛門一座で、そして浅草松竹座は猿之助一座で、いずれも足りない物資をどうにかやりくりして初春興行の幕を開けた。しかし、空襲はいよいよ激しさを増し、10万人余の死者を出した3月10日未明の東京大空襲明治座と浅草松竹座を灰にした。その5日後には大阪で中座・角座ほか主な劇場のほとんどが焼失し、宗右衛門町の防空壕の中から中村魁車の亡骸が発見された。孫をしっかりと抱いたまま黒こげになった哀れな最期は人々の涙を誘った。享年69。立役、敵役、老役、二枚目と何でもこなす幅広い芸域の中でも女形を本領とし、いかにも上方風の粘りのある芸風で往時は初代鴈治郎の相手役を梅玉と争った逸材であった。

 連日の空襲警報で満足に芝居ができない状態であったが、演舞場5月興行に臨んだ菊五郎はただならぬ意気込みを見せ、『棒しばり』終演後、客席に向かって「私の死に場所は舞台以外にございません!」と叫んだ。折しも警戒警報発令。しかし、すぐに幕を開けるという菊五郎の呼びかけに応じて、誰ひとり席を立とうとはしない。警報解除と同時に鳴り響いた拍子木の冴えた音を観客は嵐のような拍手で迎えた。菊五郎が辞世の句「まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで」を詠み、「芸術院六代尾上菊五郎居士」と戒名を定めたのもこの時である。

 この公演中の5月6日、信州湯田中の温泉に疎開していた十五代目市村羽左衛門が心臓麻痺で急逝した。享年72。「橘や細い幹でも十五代」との扇面句で襲名を飾って以来40年余、まったく年を感じさせることなく、常に光り輝くような明るさと華やかな芸で万人を魅了した花の役者の静かな散り際であった。彼を愛した人々はその死に悲嘆の影を落とすことを望まず「歌舞伎座が焼けることも日本の敗戦も知らずに逝ったのは幸せだった」と口々に言った。羽左衛門の日本人離れした容姿は、日本の外交に寄与したフランスの将軍ル・ジャンドルを父とし、旧華族の御落胤を母とするハーフだという「羽左衛門伝説」を生んだ。その真偽はさておき、たとえ羽左衛門がハーフであったとしても、それが何であろう。羽左衛門の出自がどうであれ、あの天性の魅力はいささかも翳るものではない。

 歌舞伎座が焼失したのは羽左衛門の死後わずか3週間足らずの5月25日。B29 470の大空襲による被災であった。新橋演舞場も外壁のみを残して崩落し、東京は主だった劇場のほとんどを失ってしまう。東西を問わず次々に焦土と化してゆく無数の街。15年に及んだ戦火は終幕に向かっていよいよ炎の勢いを増し、8月6日、広島に原爆投下。その2日後の8日に、かろうじて焼け残った東京劇場で猿之助一座が戦災者慰安興行の初日を開けた。が、一座の中にも疎開者が多く、近郊にいても交通手段がままならないため、実際に出演した役者はわずか7人であった。翌9日には長崎に原爆が投下され、8月15日、昭和天皇ポツダム宣言受諾詔書が放送される。戦争が終わった! 猿之助一座は9月1日に早速、東劇の幕を開けたが、出し物のひとつは終戦直前の興行と同じ『東海道中膝栗毛』で、歌舞伎座での上演時には何十人もの遊女がそろいの浴衣で伊勢音頭を踊った「古市の廊」の場では、腰元姿の遊女がたった1人。しかもそれは、とうの昔に役者を廃業して振付師になっていた坂東三津之丞であった。長い戦争の末に敗戦国となった日本の究極的な物資不足・人手不足の中での必死の興行。猿之助は、もうひとつの狂言『黒塚』の鬼の隈取を白羽二重に写し、万感の思いを込めて「平和国家建設第一の歌舞伎上演」と書き添えた。

 続いて10月、戦後初の日本映画「そよかぜ」の主題歌となった並木路子「リンゴの唄」の大ヒットを背景に、帝国劇場が1年半ぶりで開場し、菊五郎一座の『銀座復興』と『鏡獅子』で幕を開けた。新宿第一劇場では、それまでのエノケン一座らの公演に代わって寿海・仁左衛門らが『沓掛時次郎』と『白浪五人男』を上演したが、弁天小僧が使う豆絞りの手拭いがどうにも手に入らず、さらしの手拭いに筆でポツポツと点を描くという苦肉の策。黒縮緬に菊の枝が決まりの衣裳も絽の着物で代用せざるを得なかった。勢揃いの場の五人男の衣裳は、映画の方からどうにか数は調達できたが模様はでたらめ。それでも、物資の不足を嘆く声こそあれ、不満をもらす観客はひとりもいなかった。

 このとき弁天小僧を演じた仁左衛門の一家が凄惨な悲劇に襲われたのは21年3月中旬のことである。午前11時頃、仁左衛門の岳父にあたる杵屋彦十郎夫婦が千駄ヶ谷仁左衛門宅を訪れたところ、締め切ったままなので不審に思い、近所の人の立会いで中に入ると、仁左衛門夫婦、息子の三郎および使用人2人の計5名が惨殺されていた。犯人は座付作者として住み込んでいた22歳の男で、殺された使用人の1人は犯人の実の妹であった。苦しい生活の中、給金や食事の不満から折合いが悪くなり、仁左衛門はこの男に「出て行け」と引導を渡す。「4月興行の原稿を書いたら金をやるから、それで身の振り方をつけたらよかろう」と言われて必死で脚本を書いたのに「それでも作者か」とさんざんにけなされ、寝つれぬまま用を足そうと廊下に出た時、薪割りの鉈がふと目にとまり、途端に殺意が起こった、と男は供述している。この事件は戦後の食糧難が生んだ悲劇としてセンセーショナルに報道され、翌22年11月、東京地方裁判所無期懲役の判決が下った。

 終戦とともに内務省・警視庁による演劇統制は廃止された。しかし、これは歌舞伎の解放を意味するものではなかった。占領軍は「封建主義に基礎を置く忠誠・仇討を扱った歌舞伎劇は現代的世界とは相容れない」との姿勢を示し、11月の東劇で上演中の『寺子屋』はこれに抵触するものとみなされ、興行中止の憂き目にあう。戦時中、日本の情報局が奨励した芝居のすべてを占領軍は厳禁とした。まさに180度の転換を求める新たな弾圧の始まりであった。歌舞伎に限らずすべての演劇興行について、初日1週間前に英文による筋書一部と和英両文の台本各2部を米軍民間情報教育部に提出することが義務づけられ、興行会社は翻訳者のかき集めに奔走した。続いて、上演する演目の30パーセント以上を新作にするよう指示され、さらに不適格戯曲の標準13箇条が追告されるに至り、これに震撼した関係者は必死で当局との折衝にあたった。幸い演劇学校出身の米軍検閲課長ボラクが理解を示し、封建的忠義、婦人の貶下および侵略的英雄の3つに該当するもの以外は許可されることになり、関係者が胸をなでおろしたのも束の間、後任のキース中尉は取締りを強化し、新作の割合を50パーセントに高めよと迫った。古典の継承を大きな柱とする歌舞伎にとって、また特に伝統的な時代物を得意とする吉右衛門にとっては過酷な要求であったが、キース中尉に間もなく帰国の命令が下ったことから状況は好転し始める。後任のアーンストはのちにハワイ大学で東西演劇センターを創設した人物であり、次いで着任したフォービアン・バワーズ少佐は歌舞伎が大好きで、マッカーサー元帥の副官という地位を捨て、給料半減もいとわず検閲官に就任したのである。

 バワーズ少佐の努力によって21年6月には『勧進帳』が禁を解かれ、翌22年5月、戦後初の團菊祭における『菅原伝授手習鑑』の通し上演を経て、11月には最大の難物といわれた『仮名手本忠臣蔵』の通し上演が実現した。因縁の『寺子屋』では、菊五郎の松王丸、吉右衛門の源蔵、三代目時蔵の戸浪、七代目宗十郎の千代、六代目歌右衛門の御台様という錚々たる顔ぶれの中、市川男寅(現左團次)が菅秀才で初舞台を踏んだ。『忠臣蔵』はバワーズ自身が配役に乗り出したオールスターキャストで、前売券は即日完売。千秋楽の翌日を特別招待日として皇后・皇太后両陛下を迎え、幕間に菊五郎が俳優代表として挨拶をした。宮城遥拝を日課としていた菊五郎を筆頭に、長い長い戦争の間、歌舞伎の灯を消してはならぬと必死の努力を続けてきた関係者の喜びはいかばかりであったろう。歌舞伎がその真髄を全く知らぬ者たちの手で蹂躙され、不合理な統制への従属を余儀なくされた暗黒の時代がようやく終わりを告げたのである。

 19年3月の決戦非常措置以来、軍需工場となっていた東京宝塚劇場は、終戦の約1ヶ月後に開場し、長谷川一夫の『鷺娘』を核とする東宝芸能大会は大入満員を記録した。しかし、再開場の喜びは長くは続かず、この年クリスマスイブに占領軍に接収されてしまう。沖縄で戦死した従軍記者アーネスト・パイルの愛称にちなんで「アーニーパイル劇場」と改称され、以来30年1月の接収解除まで占領軍関係者専用の娯楽施設として使用された。激動の時代をくぐり抜けてきた東宝劇場であるが、戦後50年余を経て老朽化は否めず、平成9年末には閉館され、外壁をびっしり埋めるファンの落書きとともに消え去った。13年1月オープンの新たな劇場ビルは、どのような歴史を刻むのだろうか。

 一方、三越劇場は、21年2月に吉右衛門一座による第1回三越歌舞伎で開場を祝った。百貨店のホールが映画館に改造された例はあるが、劇場にしたのは三越が初めてで、終戦直後で商業劇場が数えるほどしかなかった当時、多くの好劇家を集め、固定客を獲得していく。三越歌舞伎は24年末までほぼ毎月続くが、25年2月を最後に若手の修行場となり、それも同年末には途絶えてしまった。以後、53までの28間に三越劇場で行われた歌舞伎公演はわずか6回。しかし、平成4年の再スタート以来、毎年1回のペースで開催されており、4年目の8年7月には、三越劇場開場当時の世代にとって孫にあたる新三之助が清新な魅力をふりまいた。

 22年10月末封切の邦画「春の饗宴」は、笠置シヅ子の大ヒット「東京ブギウギ」を生んだ。その明るく軽快なリズムは、人々に新しい時代の到来を実感させたに違いない。