今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和14年~16年

 この3年間には、後に十一代目市川團十郎となる七代目松本幸四郎の長男高麗蔵が市川三升と養子縁組をして九代目市川海老蔵と改名したほか、片岡我當澤村田之助澤村宗十郎中村鴈治郎らが初舞台を飾っている。一方、歌舞伎界は昭和15年に2人の名優を永遠に失わなければならなかった。二代目市川左團次と五代目中村歌右衛門である。

 二代目左團次は、二月の新橋演舞場に出演中、高熱を出して静養していたが、胆嚢炎から腹膜炎を併発し、入院加療の甲斐もなく23日に永眠した。誰もが思いもしなかった61歳の急逝であった。先代を失い、経営難の明治座を背負って孤軍奮闘した青年時代。二代目襲名後まもなく欧州に渡り、ロンドンの俳優学校で学んだ。帰朝後の改革興行は、時勢に早すぎたばかりに激しい反発を買い、批判され、怒号され、命の危険にさらされたことも一度や二度ではなかった。それでも左團次は屈することなく、新しい演劇のあり方を模索し続けた。小山内薫とともに自由劇場を率いて新劇運動を推進する一方、古典の復活にも熱意を燃やし、さらに岡本綺堂の名作『修禅寺物語』『鳥辺山心中』をはじめとする新作歌舞伎を次々と上演し、今日まで伝わる傑作を数多く残した。線の太い無骨な外見と内からにじみ出る色気。脚本を尊重し、台詞を間違えると、ごまかしのできない真っ直ぐな性格から元に戻って言い直す。それでも観客の失笑をかわないだけの堂々たる風格があった。ほとんど休むことなく革新の道を走り続けた左團次を、戸板康二はその著書「歌舞伎この百年」の中で「永遠不滅の新人」と評している。

 左團次歿後半年足らずの8月19日、後を追うように三代目市川松蔦が逝った。享年55歳。左團次にとっては妹婿にあたり、舞台の上では永きにわたる伴侶であった。その清楚で現代的な魅力は、時代物には向かなかったものの、新歌舞伎の女性像にピタリとはまり、新しい女形として異彩を放つ存在であったが、胸に病を得て、初々しい面影を残したままで散ってしまった。

 学生層を中心に熱烈な人気を博した左團次・松蔦のコンビに数々の名作を提供した岡本綺堂も、2人に先立ち14年3月1日に68歳で歿している。芝居好きの家人に連れられて幼少時から素顔の九代目團十郎に接し、東京日日新聞の記者として劇評の筆をとること24年。二百篇近い戯曲を残し「半七捕物帖」をはじめとする小説も数十編にのぼる。「ランプの下にて」「綺堂むかし語り」等の随筆集には、春木座の芝居を見るために毎月、午前7時の開場に間に合うように、追い剥ぎも出れば狐や野犬もうろつく夜明け前の真っ暗な原っぱを抜けて、麹町から本郷まで通い詰めた少年時代が描かれている。

 同年9月7日には、幻想的な世界を描き続けた泉鏡花が逝去した。当時、鏡花の作品は新派でのみ上演され、歌舞伎とはつながりがなかったが、後年、当代歌右衛門も『滝の白糸』に参加し、最近では玉三郎が「天守物語」「夜叉ヶ池」など鏡花作品の舞台化・映像化に意欲的に取り組んでいる。

 團菊歿後の劇界を統率し、不世出の女形として最高峰を極めた重鎮五代目歌右衛門は、14年5月歌舞伎座『桐一葉』に天下一品の当たり役、淀君で出演中に舞台で絶句して以来、自宅で療養を続け、幾度となく危篤状態に陥りながらも奇跡的な回復力を示したが、ついに15年9月12日、実り豊かな76年の生涯を穏やかに閉じた。20代から鉛毒に冒され、不自由な体を芸の力で輝かせ、舞台生活66年。四代目芝翫に懇望されて養子となり、團菊に愛され、明治45年5月、児太郎改め福助の披露に芝翫と團菊の三人が顔を揃えた口上は「三千両の値打ちがある」と評判になった。福助時代の人気はすさまじく、母親が毎日楽屋に持たせる弁当箱には、恨みを買って毒でも入れられたら大変だというので錠がおろしてあったという。渥美清太郎は、歌右衛門が他の俳優と違って上品で近づき難い所がひいきの焦慮を煽った、と興味深い指摘をしている。江戸から明治に変わるとそれまで歓迎されていた下町肌の役者は通用しなくなり、品位が重んじられる時代が到来した。「天稟の品位」を持って生まれた歌右衛門は明治の女形として理想的であった、というのである(「演芸画報昭和15年10月号)。芸格の大きさもさることながら、人物の大きさでもまさに巨星と呼ぶにふさわしく、庭園2千坪の「千駄ヶ谷御殿」での大名生活がいかにも似つかわしい偉大な芸術家であり、その合理性と教養の深さは商人や政治家としても大成したに違いないと言われる反面、子煩悩な人情家でもあった。

 遺言に従い、二男藤雄(六代目歌右衛門)は吉右衛門に、早世した長男五代目福助の遺児眞喜雄(現芝翫)は菊五郎に預けられ、1周忌の追善興行で藤雄は福助を六代目芝翫と改め、眞喜雄は児太郎から七代目福助を襲名した。藤雄は母方の河村姓を継いだため、襲名の挨拶状では中村の姓を継いだ新福助が先となり、立役の名優であった四代目芝翫にならって五代目歌右衛門芝翫の襲名披露に石川五右衛門を演じたごとく、新芝翫の藤雄も『絵本太功記』初菊ほかと併せてやりつけない『鈴ヶ森』の権八を「悪く言われるのは覚悟の前」で演じざるを得なかった…と、この話は中村歌右衛門山川静夫著「歌右衛門の六十年」に詳しい。ちなみに、五代目歌右衛門の遺言には、現芝翫が七代目歌右衛門を襲名すべきことも記されている。

 日中戦争の勃発から1年半余を経て、すでに入営していた片岡市蔵坂東薪水(十七代目羽左衛門)、尾上松緑らに続き、中村章景、片岡義直(市村吉五郎)らも応召した。章景は三代目雀右衛門の長男で、女形としての経歴が評判となり、望まれるままに日章旗を体に巻き付け菊五郎直伝の道成寺を踊って大喝采を博し、隊で相撲をとる際のしこ名を「姫君山」といい、日頃の愛称も「姫君一等兵」から「姫君上等兵」に昇進したなど、誰からも愛される人柄をうかがわせる微笑ましい近況が伝えられていた矢先、14年12月23歳の若さで戦死してしまった。明けて15年1月に帰還した市蔵は「家からの手紙を見て死にたい - と何故かそんなことばかり考えていた」と語り(「演芸画報昭和15年3月号)、続いて2月に除隊した松緑も、満州従軍中、営内ラジオで日曜の舞台中継を聞くたび、みんなが芝居をやっているのに自分はこんな所で鉄砲を抱いて寝ていると思うと情けなくなり、慰問団のために舞台設営を手伝った夜、衛兵に立つと、たまりかねた思いがこみ上げてきて、誰もいないのを確かめて銃を置き、舞台に上がって口三味線で『三社祭』をしゃにむに踊った、その時の粗末な舞台の板の感触は何とも言えなかった … と述懐している(藤野義雄「現代の歌舞伎芸談」)。

 青年歌舞伎は14年1月に解散したが、松緑に続いて軍から帰った薪水を加えて、若手中心の花形歌舞伎が「歌舞伎会」と名を替え、その第1回公演が15五年11月の歌舞伎座昼興行として行われた。奇数日には『忠臣蔵』の大序から四段目まで、偶数日には五段目から七段目までを上演し、2日続けて観れば通しで楽しめる好企画が観客を喜ばせた。第2回は『菅原伝授手習鑑』を同様の趣向で見せ、第3回は本興行に昇格したが、残念ながら歌舞伎会としての公演は第4回で終わっている。

 この頃から「新体制運動」の名のもとに文化的活動への統制が強まり、8月には「社会主義的な色彩の濃い劇団は国情に適しない」という理由で新協・新築地劇団が解散に追い込まれ、9月には帝国劇場が徴用され、内閣直属の情報局庁舎に転じた。すべての公演に警視庁の許可が要求され、様々な芝居が上演禁止になった。恋愛物のきわどい台詞は削られ、悪人が活躍する芝居は勧善懲悪劇に書き換えられた。当局は「国民演劇」という看板を掲げて、あらゆるジャンルの演劇を一色に塗りつぶそうとしたのである。当局が健全と認めた芝居以外は上演できない。「国民精神総動員」という当時の標語はジワジワと演劇界をしめつけていった。その一方で、国民は娯楽を渇望し、劇場は大入り満員を続けた。「職域奉公」を合言葉に、銃後の役者は各地へ慰問に回り、東宝移動文化隊、松竹国民移動演劇隊等の活動は脅威的な動員数を記録した。これらを統制するために日本移動演劇連盟が結成され、当局発浮フ数値によれば、20年の終戦までに移動演劇が動員した観客数は1500万に達した。しかし、やがて戦況が激しさを増すにつれ、娯楽どころではなくなってしまう。16年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争開戦 - 暗黒の時代は、この時まだ、ほんの序幕にすぎない。