今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和2年~4年

 昭和元年がわずか1週間で明けたのち、2年1月の市村座で現雀右衛門丈が大谷広太郎を名のり、6歳の初舞台を飾った。『菅原伝授手習鑑』を子役用に書き直した『幼字劇書初(おさなもじかぶきのかきぞめ)』で八重丸(桜丸)の役。「車引」の場では故梅幸丈の千代童(松王丸)、九朗右衛門丈の春王(梅王丸)とともにセリ上がる大がかりな舞台であった。四郎太夫(白太夫)には菊五郎、菅丞相だけはそのままの役名で、父友右衛門が演じた。雀右衛門丈は、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」の中で当時を回想し、芝居の途中で緊張の余りおしっこをしてしまい、厚手の繻子地のくくり袴をはいていたため、外へ漏れずに足首のところでタボタボする気持ち悪さをがまんしながら最後まで務めた、と微笑ましいエピソードを披露している。

 華やかな襲名興行ではあったが、市村座の経営不振は深刻で、俳優への給金の不渡りから1日初日の予定を延期せざるを得ず、菊五郎が興行主に代わって俳優を説得して回り、ようやく開幕にこぎつけた。3月の金融恐慌を皮切りに不況の嵐が吹き荒れる中、市村座に回復の術はなく、翌3年1月、松竹に合併され、菊五郎一門もとうとう松竹の軍門に下った。

 2年11月の本郷座『高野物狂』では当時10歳の中村児太郎こと現歌右衛門丈扮する花若丸の可憐な姿が大評判を呼んだ。ある日、贔屓連が花若丸をめがけて菊の花を大量に投げ入れ、その小さな身体が埋もれるほどであったという。

 この月、中座で『本蔵下屋敷』に出演していた三代目中村雀右衛門が三千歳の扮装のまま脳溢血で人事不省に陥り、11月15日に急逝した。血圧を上げた原因は鉛毒といわれる。嵐璃笑の子で先代雀右衛門の養子となり、立役から女形に転向し、大正6年10月浪花座で養父の名を襲った。健康状態がすぐれず不満足な舞台が続いていたところ、ようやく体調が回復し、久しぶりで気力が充実した三千歳の好成績に喜んでいた矢先の死。常々「舞台で絶命するのが夢」と語っていた同優の最後の花道であった。

 明けて3年2月の歌舞伎座は、2つの芝居が見物の興味を引いた。1つは岡本綺堂の新作『雷火』。大阪城天守閣が雷火に焼かれた折、番士中川図書が炎の中から持ち出した家康の馬標を我が身を犠牲にして守り抜いた史実を劇化したもので、大詰天守閣火事の場は2分ほどの短い幕であったが、本物の火焔が評判を集めた。花火師に命じて危険率の少ない仕掛物を選び、鉄板の大天上を張って万全の準備を整えていたのだが、ある日、中川図書に扮した左團次の袴の裾に火がついた。驚いて天守閣から飛び降りた左團次の身体に大道具の棟梁が馬乗りになって火をもみ消したおかげで、火傷をすることもなく無事に済んだものの、その後は火勢を弱めざるを得ず、せっかくの火事場の評判も本物の火事騒ぎで立ち消えになってしまった。

 もう1つは小山内薫作『円タクの悲哀』で、当時1円の均一料金で市内を走り「円タク」として親しまれていたタクシーの運転手に羽左衛門が扮し、新聞の三面記事を喜劇風に仕立てた一幕。舞台の上でタクシーを走らせる趣向であったが、自動車が大好きな羽左衛門も自分では運転したことがない。にわか稽古ではどうにもならず、あれこれ試行錯誤の末、本物の運転手が黒衣姿で隠れて下からハンドルを操作する工夫をしたが、いかにも危なげな様子に羽左衛門夫人から待ったが入り、やむなく運転は中止となった。散切り物が数多く上演された時代ならではの話。

 今日では海外旅行などめずらしくもなくなってしまったが、当時は役者が洋行するとなれば一大事件。中でも3年3月の羽左衛門夫婦の欧州漫遊の旅は出発前から大がかりであった。歌舞伎座がわざわざ送別記念興行を打ち、大切を『春霞旅行橘』と題し、羽左衛門羽左衛門に扮して観客全員を送別気分に抱き込む珍しい趣向。送別会の場は、さんざん騒いだ上に羽左衛門を胴上げして幕を閉め、続く横浜出帆の場では、前もって観客に渡しておいた小旗を見送りよろしく振らせるという念の入れようで、千秋楽では羽左衛門が伜家橘を残して行くので何分頼むと口上を述べた後、余興の手品まで飛び出した。本興行の一幕としての上演であったから、さすがにやりすぎという声があがる一方、船上の羽左衛門のネクタイピンがよく光るという評判さえ立ったというあたりが、愛嬌たっぷりな舞台で愛された羽左衛門ならばこそ。

 このお祭り騒ぎとは対照的に、同年7月、ソビエト政府に招聘されてロシアで初の歌舞伎公演を実現し、11月に帰国した左團次を待っていたのは、海外に歌舞伎を紹介する芸術使節の役割を果たした功績を認めるどころか、左團次のロシア公演は共産主義の宣伝に利用されたのだと言い立てる暴徒の攻撃であった。当局が思想への介入を強め、三月には共産党員が大量に検挙されたばかりで、共産主義反対を叫んで左團次の自宅や松竹本社にねじ込んでくる者もある。それが高じて、12月1日の歌舞伎座は、3階から「日本国民諸君よ」と題して左團次を攻撃するビラを撒布する青年があるかと思えば、1階席では反共産主義者が仕掛けた縞蛇が這い廻り、場内総立ちの大混乱となった。50匹もの縞蛇が風呂敷に包まれて置き去りにされた中から3匹だけが這い出したのだというが、もし50匹すべてが動き廻っていたら…と、想像するだけで身の毛がよだつ。

 その騒ぎも収まらないうちに、12月25日、左團次自由劇場をともにした小山内薫が49歳の若さで他界した。父と同じ医学の道を志していたが、雑俳の師匠宅で左團次と知り合い、帝大入学後、劇界に転じ、多くの作品と功績を残した。晩年の拠点であった築地小劇場には、4年1月元旦付で「観客諸君に懇願す。日本唯一の新劇常設館である築地小劇場を支持して下さい」との絶筆が残されていた。その切なる願いにもかかわらず、小山内の没後、大黒柱を失った築地小劇場は分裂し、幾度かの再編を経たものの、小山内の理想を再現するには至らないまま、戦災でついに姿を消してしまう。

 冬から夏に遡り、2年8月の歌舞伎座は『東海道中膝栗毛』を出し、初日に先駆け、国民新聞では漫画の募集をし、座方は各新聞に弥次喜多の宿泊地を当てる懸賞を出すという大がかりなキャンペーンを展開したところ、応募ハガキが12万通に達する大当たり。友右衛門と猿之助弥次喜多は人気を呼び、二人の道中はこれ以後、夏の定番となる。

 9月5日には、大阪出身でありながら江戸世話物の名人と言われた長老、尾上松助が泉下の客の人となった。享年86歳。父が高麗蔵(五代目幸四郎)の男衆だった縁で高麗屋に入門し、松本小勘子を名乗り河原崎座で初舞台。のち権十郎門下から家橘(五代目菊五郎)門下に移り、橘五郎、梅五郎を経て明治十四年に松助を襲名した。その恬淡とした芸とにじみでる愛嬌で好劇家に愛された名脇役の死は、劇界にとって大きな痛手であった。

 明けて4年4月、歌舞伎座では片岡千代之助が四代目我當(十三代目仁左衛門)を襲名し、帝劇では松本金太郎改め九代目市川高麗蔵(十一代目團十郎)の披露が賑々しく行われた。不況にあえぐ世間とは別世界さながらに、両劇場の楽屋には祝儀の品々が山のように積み上げられ、目もくらむばかりに絢爛豪華であったという。松島屋の口上は、父仁左衛門の大時代な口調から一転して、我當が世話にくだけた調子で笑いを誘う。一方、高麗屋は生真面目な性格そのままに簡潔明瞭な口上で、高麗蔵本人は終始無言のまま、時折おじぎをするのみ。対照的でありながら、いずれも父親の喜びが率直に伝わってくる口上に、両劇場はめでたく満場御礼続きとなった。続いて10月の明治座では、中村勘三郎が米吉から四代目もしほを襲名している。

 12月の歌舞伎座は、師走恒例の忠臣蔵物『赤穂義士快挙録』を出した。屋上の雪の場で、従来の雪布ではどうも実感が出ないというので、あれこれ試した末、猿之助の発案で屋根一面に塩を敷き詰めることになった。その厚さ3寸5分。1回の舞台に20俵近い塩を使った。「豪儀な舞台だね」と揶揄する声に答えて曰く、「赤穂は塩の産地ですから」。

 この当時、市村座のみならず帝国劇場も営業成績が悪く、負債額が70万円を超過し、自立回復を断念せざる得ない状況に追い込まれていた。そこで、松竹が保証金と月々の小屋料を払って10年間、帝劇の経営を引き継ぐことになり、松竹は遂に東京の7大劇場を独占し、すべての歌舞伎俳優を傘下に掌握するに至った。松竹歌舞伎王国の完成であった。

 歌舞伎界の外の動向を見ると、女優岡田嘉子の恋の逃避行と長谷川一夫の映画デビュー(2年3月)、嵐寛寿郎鞍馬天狗シリーズ」第1作封切(4月)、リンドバーグ大西洋無着陸横断飛行成功(5月)、初の地下鉄(上野・浅草間)開通(12月)、大相撲ラジオ実況放送開始(3年1月)、初の普通選挙(2月)などが目につく。一方、3年6月の張作霖爆死事件に続き、4年10月にはニューヨーク株式市場の大暴落を機に世界恐慌が猛威を奮い始める。昭和は動乱期を迎えつつあった。