今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

大正13年~15年(昭和元年)

 大正12年9月1日の大震災で焦土と化した東京では、各劇場が復興を急ぎ、震災に耐えて直後の10月から 興行していた麻布南座に加えて、末広座も麻布明治座と改め、翌13年1月から左團次一座の『鳥辺山心中』等 で開場した。2月の明治座歌右衛門が当たり狂言の『沓手鳥弧状落月』を出し、にわかに芝居の中心地とな った麻布は大いに賑わった。

 四谷の大国座でも、1月に友右衛門を座頭とする一同が古式にのっとり初開場の口上を述べ、吉例の『式三 番』で幕を開けた。3月には、本郷座で左團次一座が『志賀山三番』に続いて『修禅寺物語』『大菩薩峠』等で新 築開場の幕を開け、赤坂の演伎座は澤田正二郎新国劇で開場し、浅草の観音劇場は勘弥一座に帝劇の女 優陣を加えて初開場を飾った。4月には、御国座改め浅草松竹座が歌右衛門吉右衛門三津五郎を迎えて華 々しく開場し、『一谷嫩軍記』『吉野山』『実録先代萩』等の演目を並べた。5月には、常盤座が新派の河合武雄 一座で新築落成を飾り、旧開盛座は千歳座として三升、新之助らの成田屋一門が『義経千本桜』等を上演した 。由緒ある新富座は、5月6日に三津五郎時蔵の舞踊『子寶』で開場式を祝ったが、映画館として再スタートを 切り、昭和14四年の廃座までついに芝居は掛からなかった。

 同じく5月に再築なった市村座は、2階席も廻り舞台もないバラック建築で、雨が降ればトタン屋根がザーザー と音を立て、防音装置がないため隣の印刷会社から毎日決まった時間にサイレンが鳴って舞台が中断されるよ うな状態であったが、市村座の櫓を死守することを観客に誓った菊五郎の熱演は好評を博した。

 6月に入ると、震災直後の乾きをいやした麻布の両座はその役目を終えたかのように、南座は映画館に転向 し、明治座も末広座に復名改築され、やがて映画館となる運命にあった。

 震災の思わぬ産物というべきか、演出と俳優養成の研究を志して10年滞在の予定で渡欧していた土方与志 が震災の報を受けて急遽帰国し、震災で全財産を失ったつもりになって残り8年分の滞在費をあて、小山内薫 と組んで建設したのが築地小劇場である。土方が家族伯爵の御曹司であったことからお坊ちゃん連中の道楽 仕事と見る向きもあり、翻訳物の上演には批判もあったが、6月13日の開場から15年3月の第44回公演まで翻 訳物で押し通し、演劇史上特筆すべき成果をあげた。

 7月には新派の河合武雄一座による寿座の開場に続き、人形町で市蔵、猿之助らが『操三番』で日本劇場の 幕を開けた。邦楽座は吉右衛門三津五郎福助時蔵らで『金閣寺』『夏祭浪花鑑』『勢獅子』を出し、福助初 役の雪姫が大好評を博した。

 10月5日に開場式を迎えた帝国劇場は、震災以来帝劇に礼を尽くして東京の劇場には一切立とうとしたなか った幸四郎のほか、中国から梅蘭芳一座を迎え、華やかに初興行の幕を開けた。

 歌舞伎座は12月15日にようやく竣工し、1月4日、計5千人の来賓を招待して盛大な開場式を行った。吉例の 『式三番』に続き、歌右衛門仁左衛門左團次羽左衛門らの大一座による初興行は、歌右衛門徳川家康 に扮する『家康入国』で始まり、『連獅子』では羽左衛門の倅竹松改め七代目市村家橘(十六代目羽左衛門)の 襲名が披露された。同じ月、帝劇では七代目幸四郎次男純蔵(白鸚)が『奴凧廓春風』の太鼓持ち順孝役で初 舞台を踏んでいる。

 4月には新橋演舞場花柳界の練習場として新築開場し、「あずま踊」で幕を開けた。翌15五年1月に再築 開場のときと同じ澤田の新国劇上演中に失火焼失した演伎座を除き、震災後1年半にして東京劇壇の新しい 時代の舞台がそろったことになる。

 一方、震災では幸いにして犠牲者を見なかった歌舞伎界であったが、大正13年4月7日、大国座の『壺坂霊 験記』に出演していた澤村宗之助がお里の扮装のまま舞台で倒れた。39歳の急逝であった。英語劇もこなす 器用な優で、帝劇女優劇の補導役としては世話好きな面を発揮し、芸に対する厳しいまでの熱心さには定評が あった。10月の帝劇新築開場に際し、長男恵之助が二代目宗之助を襲名し、次男雄之助とともに出勤したが、 長子の小伝次に続いて宗之助にも先立たれた父七代目澤村訥子の失意は深く、宗之助の三回忌を待たず、 15年3月26日に67歳で没した。麻酔なしで盲腸の手術をし、全快直後に本物の鉄棒を使って大立廻りをするな ど、猛優の名にふさわしい逸話を多く残した小芝居の大物であった。翌4月の帝劇で、訥子にとっては甥にあた る七代目宗十郎三男源平が四代目訥升を襲名している。のちの八代目宗十郎。九代目宗十郎・二代目藤十郎 兄弟の父君である。

 大正15年1月には、四代目坂東玉三郎(のちの十四世守田勘弥。現玉三郎の養父)が帝劇序幕の『鞍馬山』 牛若丸の役で三世坂東志うかを襲名している。

 大正15年5月の市村座は、菊五郎の次男右近(九朗右衛門)が『助六曲輪菊』の福山の役で初舞台を踏み、 梅幸松助を加えた音羽屋一門総出の興行となったが、6日の夜、梅幸のもとに、呼吸器疾患で療養中の長男 栄三郎の容態が急変したという知らせが届いた。夜11時近くに芝居を打ち上げ、次男泰次郎をつれて金沢の別 荘に駆けつけると、栄三郎は前年4月に生まれたばかりの息子のことをくれぐれも頼むと言い残し、翌朝早く逝 ってしまった。わずか27歳の夭折。涙が渇く間もなく東京に引き返し、舞台に立った梅幸の胸中はいかばかりで あったか。何を演じても形が良く、台詞の歯切れの良いことは無類で、生世話物でタンカの切れるイキな女形と して、いずれは菊五郎の女房役になることを期待されていた栄三郎のあまりにも早すぎる死であった。

 大正13年11月、吉右衛門が大阪の中座で亡父歌六の七回忌追善興行を開くにあたり、30年来絶えていた船 乗込みが催された。当時の大阪は不景気続きで芝居の成績も思わしくなく、吉右衛門の久々の興行が不入り では気の毒だから、との配慮による企画であったが、これが大変な大当たり。大伝馬船七艘立てで、本船には「 中村吉右衛門一座」と勘亭流で大書した行灯を飾り、緋毛氈の上に時蔵・米吉兄弟も行儀良く並び、紋付袴姿 で挨拶をする。中之島を発して堂島川、木津川、長堀川、東横堀、道頓堀と回り、えびや橋から上陸するまで、 行く先々の熱狂的な歓待に、見守る吉右衛門の母親と妻女はもちろん、下船した一行を迎えた支持者ともども 、吉右衛門は感涙にむせんだ。歌舞伎座でも昔は船乗込みがあったというが、近代化とともに永遠に失われて しまった情緒豊かな風景に、深い憧憬を覚える。

 この時期、警視庁の取締は厳しさを増し、大正13年5月、本郷座で『摂州合邦辻』が上演されると、嘘を趣向 の根本にした不倫の恋は風俗を乱すものであるから今後一切上演不可との通告がなされた。岡鬼太郎は演芸 画報の連載「漸太平記」の中で、このような当局の態度を「時代錯誤」と評し、「素ッ裸に風呂敷を着たやうなる 洋装婦人」の服装をこそ取り締まるべきだと皮肉っている。15年1月の明治座左團次が『鳴神』を復活した際 も、鳴神上人が雲絶間姫の色香に迷う場面が風紀に触れるとの干渉を受け、ようやく上演許可が出るまで再三 にわたり台詞の訂正を余儀なくされた。当局のお達しとあればやむなしとはいえ、例えば新派が侠客物と警官 の美談を並べて出したときには、侠客物は血も刺青も御法度としながら、警官に襲いかかる凶漢には毒々しい 刺青も滝のごとき流血も厭わず、盛んにやれとの勝手な言い分。殉職警官の家庭のわびしさを見せて観客の 同情を引けとの指図までついた。そうかと思えば、邦楽座の『嬰児殺し』に対しては、巡査の食膳が貧しいと惨 めに見えるから、もっと裕福な食事をとらせろと横やりが入る。戦時中の全面的禁止ほどではないにしても、こ れが当時の現実であった。もっとも、今でも芸術と猥褻の境界線をめぐる当局の干渉はなくなってはいないが… 。

 大正13年1月26日、裕仁親王久邇宮良子様御成婚。14年5月には大正天皇が銀婚式を迎え、演芸画報が「 私が結婚した当時の憶ひ出」と題する奉祝の特集記事を組んでいる。その中で歌右衛門いわく、大正天皇の御 成婚日に生まれた長男に、慶事を祝してつけた名前が「慶次」。銀婚式当日はすなわち「慶ちゃん福助」25歳の 誕生日であった。

 梅幸羽左衛門とは、二人とも明治三六年暮に結婚式を挙げたことから、15年目の大正6年に、二人一緒の 意を洒落て「同婚式」をすることにした。ところが、招待状の注文を受けた活版屋が「銅婚式」の間違いだろうと 気を利かせ、勝手に直して印刷してしまった。「それじゃあ面白くないじゃないか」と梅幸。結局直させ、帝国ホ テルでめでたく披露とあいなった。

 銀婚式からわずか1年半の大正15年12月25日に大正天皇崩御。昭和歌舞伎の幕が上がる。