今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

大正7年~9年

 大正7年1月の歌舞伎座は、中村芝雀改め三代目雀右衛門の東京披露興行で幕を開けた。 新雀右衛門がお光を勤める「野崎村」の2日目、駕舁きの猿之助亀蔵羽左衛門の久松を乗せて仮花道に 掛かったところで客席に転げ込み、危うく久松も一緒に落ちるところを観客に支えられてようやく難を逃れた。翌 日から手慣れた村右衛門と羽太蔵が駕屋を代わり、久松もやっと一安心。

 7月の歌舞伎座で上演された「星合露玉菊」には不思議な話がある。吉原の芸妓玉菊が愛用していた人形が 夜な夜な持ち主の夢に現れるので、気味悪くなって玉菊の菩提所に納めようとした矢先、歌右衛門が玉菊を演 じると知り、持ち主はこの人形を歌右衛門に贈った。歌右衛門の家では、この人形をしまい込んでおくと必ず家 人に病人が出るため、常に床の間に据えておき、陰膳を供えることを家例としたという。人形には魂がこもると いうが、玉菊の寂しさを人形が宿していたのだろうか。

 話は変わって、坪内逍遥を長とする文芸協会の解散後、これを母体として生まれた芸術座、舞台協会、無名 会の3劇団のうち、芸術座を主宰していた島村抱月が大正7年11月に急逝し、その後を追って、翌8年1月、有 楽座で「カルメン」を上演中であった松井須磨子が芸術倶楽部の大道具部屋で縊死による自殺を遂げた。享年 34歳。演芸画報の追悼記事に小山内薫が次のような詩的な一文を寄せている。

 「須磨子は抱月氏がその醸した酒を注ぎ込む酒瓶でした。その酒は既に枯れたのです。骨董品として珍蔵さ れる事の外、その酒瓶にもう存在の理由のない事は明かな事です。抱月氏が桜の木の根なら、須磨子はその 根から生ひ立った桜の幹であり、枝であり花であったのです。その根は既に枯れたのです。桜の花や枝や幹が どうして自分だけで生を続けることが出来るでせう。 役者としての須磨子と舞台監督としての抱月氏との関係は、実にこれ程理想的に密接であったのです。」

 須磨子の死とともに芸術座は解散した。

 新劇運動において上記3劇団よりさらに大きな推進力であった小山内薫左團次自由劇場は、この年9月 、長い眠りから目覚めて久しぶりに第九回公演の幕を開けたが、これが自由劇場の最後の公演となる。自由劇 場の解消はすなわち第1期新劇運動の終止符であった。

 第9回公演に臨んで、小山内薫は新たな決意を述べつつ、日本人の手による新しい創作脚本を熱望し、翻訳 物に頼らざるを得ない状況を嘆いている。一方、左團次のみならず松蔦、左升、壽美蔵、荒次郎、宗之助など、 自由劇場に参加した役者は異口同音に翻訳劇の台詞の苦労を訴えている。西洋との間に現代の我々には想 像もつかないほど大きな隔たりがあった時代に、歌舞伎の水で育った役者が毎月の舞台の合間に見よう見ま ねで外国人の扮装をし、仕草を工夫し、慣れない言葉で綴られた膨大な台詞を必死で覚える。片仮名の名前だ けでもわずらわしいのに、調子も違えばイントネーションもままならない。姿勢や足取りひとつとっても洋服と和 服では動きが全く違うため、女形は長年の修行でようやく身につけた撫で肩や内股の歩き方を意識して変えな ければならない。歌舞伎にはないこれらの苦労は筆舌に尽くし難く、誰もが少なからず神経衰弱に陥るほどであ ったという。

 遡ってこの年5月17日、三代目中村歌六が逝った。吉右衛門時蔵、米吉(勘三郎)兄弟の父である。享年71 歳。かつては五代目菊五郎と威勢を争い、持っていた珊瑚珠を菊五郎に偽物と言われた悔しさに、その場で金 槌で打ち砕き「どうだ、中まで赤いぞ」と見せ付けたというが、 この逸話が伝える通りの勝気な性格から、歌六は周囲と衝突しては座を転々とし、ついに永住の小屋を得なか った。晩年は市村座吉右衛門の後見的役割を果たし、その老巧な芸が観客を喜ばせたという。

 唐突ながら「大根役者」という言葉は、大根は生で食べても食あたりしないところから 「芝居があたらない役者」をいったものだそうだ。歌六信州善光寺前の芝居に出た初日、見物からしきりに「 大根、大根」と声が掛かり、楽屋で一同しょげ返っているところへ太夫元が挨拶に来て、大入り間違いなしとホ クホク顔。合点がゆかずに訊ねてみれば、当時の信州は大根が不作なために非常に大事がる土地柄で、うま い役者には「得難いもの、尊いもの」という意味で「大根」と声を掛ける由。聞いてビックリ、所変われば何とやら 。一同さぞ安心したに違いないが、「大根」の掛け声が乱れ飛ぶ中、御満悦で見得を切る歌六の姿を想像する と何ともおかしい。

 5月29日には浅草観音の境内で團十郎「暫」の銅像除幕式が盛大に行われた。参会者の数3千余。明治38 年9月の追善興行以来その純益で記念物を作ろうという話はあったものの、 三升文庫の製作、写真帳の出版など様々な案が出て棚上げされていたところ15年目にしてようやく銅像建立に 決まったものである。袴羽織の立像では平凡すぎるし、弁慶や助六は商家の広告に用いられていて紛らわしい というので、「暫」の元禄見得の形となった。この銅像は戦争中に行方知れずとなっていたが、当代團十郎の襲 名を機に昭和61年に復活され、現在も浅草観音堂の左手奥に威風堂々と立っている。

 大正7年春から世界的に流行したスペイン風邪は、15万余の死者を出した。翌8年には流行性脳膜炎が1400 人近い人命を奪い、その中に市村座の立女形、三代目尾上菊次郎がいた。同座ではほんの2週間前に若女形 河原崎國太郎が病没したばかり。2人とも余りに若すぎる最期であった。

 菊次郎の享年は記録上は38歳とされているが、本当は2つ上の40歳。本人と両親以外には妻さえ実年齢を 知らなかったという。亭主役の菊五郎吉右衛門が自分より年下なので、少しでも若い女房でいたいという心が つかせたいじらしい嘘。立女形の地位を得たのちも、菊五郎女形をするときには必ず衣裳つけを手伝い、身 の回りの細々としたことにも気を遣った。平素から女房役に徹しようとする女形であった。

 三津五郎が言う。

「あの人の舞台には、溢れるような人情がありました。私はいつもその人情に打たれて、惚れ惚れとするのが 例でした。役者には、殊に女形には、惚れまいと思っていても、自然に情が移ってきて惚れ切れる人と、幾ら惚 れようと思ってもどうしても惚れられない人とがあります。岡田君(菊次郎)は前の方で、きっと惚れさせなけれ ホ承知しない方でした。また私はいつも惚れられずには居れませんでした。」

 吉右衛門もまた「こうひしひしと、喰い入るように迫ってくる情愛と云ったらありませんでした。つまり芸の力で す。それが恐ろしい位に舞台を流れていました。」と語っている。

 翌9年3月19日には、初代中村又五郎が36歳の若さで没した。子供芝居では吉右衛門と人気を二分し、成人 してのちも羽左衛門金閣寺の久吉をすれば雪姫を勤め、團十郎への書き下ろしである「鏡獅子」を初めて許 されて演じたほどに将来を嘱望されていたのだが、紆余曲折を経て浅草の公演劇場に移ってからわずか3年後 の死であった。最後の1年だけで12もの新作を手掛けた開拓精神と、恐ろしいまでの気迫のこもった舞台で観 客を魅了する一方、平素は温厚で柔和な人柄であったという。全く危なげのない舞台、達者な技芸、熱心さ、控 えめで、本来なら受け入れがたい役を振られても事情を話せば快く引き受けてくれる気の良さ…。追悼に寄せら れたこれらの言葉はそのまま、わずか5歳で父に別れた当代又五郎丈に当てはまるような気がする。

 将来ある若き俳優の死が相次ぐ中、大正8年10月の帝劇で松本幸四郎の三男、豊が6歳で初舞台を踏んだ 。「出世景清」の力若を勤めた松本豊、のちの尾上松緑であるが、松緑のみならず、その息子である初代辰之 助さえも既に亡いのは寂しい限りである。

 大正も中期にさしかかると、いわゆる「舶来品」の勢いがめざましく、7年1月のパイロット万年筆発売に続き、 10月には森永ミルクチョコレート、9年にはメンソレータムと、現在もおなじみの製品が続々と登場してくる。

 大正8年の発売後まもなく演芸画報に掲載されたカルピスの広告には、コピーライターというべきか、与謝野 晶子が2首の歌を寄せている。

   カルピスは幸しき力を人に置く 新しき世の健康のため

   カルピスを友は作りぬ 蓬莱の薬といふもこれに如かじな