今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

大正4年~6年

 大正4年初春正月、帝劇で三代目松本金太郎が満6歳で初舞台を踏んだ。父七代目幸四郎の山姥に快堂丸で 「親譲りの目千両」 と大喝采を浴びたこの少年がのちの十一代目團十郎である。男らしい名を、と選ばれた金太郎は父の本名でもあり、もともとは藤間の曽祖父が七代目團十郎の門に入ってもらった名だという。快堂丸は九代目團十郎明治天皇の御前で山姥を演じた際に父幸四郎が勤めた光栄な来歴のある役で、干支の卯年にちなんで大勢の子役が兎の姿で舞台を賑わせた。近所の子供を集めては芝居の真似事に興じ、常に座頭役で御満悦だった腕白坊主がやがて一世を風靡する名優となり、宗家襲名からわずか3年半後に56歳の若さで逝ってしまったのは周知のとおりである。

 翌5年11月には三代目中村米吉のちの十七代目中村勘三郎市村座で初舞台を飾った。年の離れた長兄吉右衛門の幡随院長兵衛に菊五郎権八という 「花川戸噂の爼板(通称:爼板長兵衛)」 で長兵衛の伜長松役。口上の席で菊五郎が 「吉右衛門の伜」 と脱線すると、吉右衛門も 「私の伜、いや弟でござりました」 と大真面目な顔で受け、見物の中には 「実の父親は歌六のはずだが…」 と当惑した御仁もあったとか、なかったとか。

 今回とりあげた3年間には、四代目芝翫17回忌、五代目菊五郎13回忌、初代左團次13回忌、九代目團十郎15五回忌と追善が相次ぎ、大正6年11月歌舞伎座團十郎15年祭は、座付俳優に左團次一座と市村座連を加えた総勢300人の大舞台であったという。帝劇も同じ月を團十郎の追善興行とし、5つの候補狂言の中から観客の投票で選ばれた4つ(茶臼山凱歌陣立、大森彦七勧進帳、お夏清十郎)と山姥を舞台にのせた。

 追善によせて、名優の素顔を語るエピソードが当時の演芸画報に多数掲載されている。例えば五代目菊五郎について、十五代目羽左衛門はこんな思い出を語っている。

 羽左衛門が玄蕃、芝翫時代の五代目歌右衛門が松王丸を勤めた勧進帳をみて、菊五郎芝翫のしめていた紫縮緬の病鉢巻はいけないと言った。女形芝翫縮緬では優しくなりすぎるというのである。助六や保名のように恋人がいる色男の役のときには鉢巻も少しダラリとさせて色気を見せる必要があるが、武家の浪人なら黒八丈の袖口の古い品に限る。結び方もきちんとしなければならない、と教えは続く。鮨屋の権太の鉢巻に至っては、上にツンと出る部分の寸法が菊五郎の場合は何寸何分とキッチリ決まっていたという。舞台上の道具の寸法にもうるさく、弟子は物差しを片手におおわらわ。凝り性で有名だった菊五郎らしい逸話である。六代目もこの種のエピソードに事欠かないところをみると、まさに親譲りというところか。

 その芝翫福助時代の思い出は傑作だ。大阪の浪花座に乗り込んだ際、熱狂する群衆に帽子を脱いで会釈を返す福助に、菊五郎が小声で 「オイ福さん! 後生だから帽子を脱がねえでくれ」 と言う。隣で福助が帽子を取っているのに菊五郎が被ったままでいるわけにはいかない。しかし菊五郎は帽子を取りたくないのだ。禿頭を気にしているのである。「小父さんの心持ちでは、芝居が明けば若い綺麗な男になって見せるのに、その前に頭の禿げたところをお目にかけは色消しだという注意からであった」 と、福助菊五郎のために付言している。

 また、息子の六代目梅幸によれば、菊五郎が逝く2年ほど前、名古屋の芝居に出て数日後に父が脳溢血で倒れたことを知り、中1日の休場を幸いと駆けつけたが、菊五郎はそんな息子の顔を見るなり 「何をしに帰ってきた!」 と頭から噛みつくような一喝。泣く泣くその夜のうちに名古屋に戻った梅幸は汽車の中で一晩泣き通した。ようやく千秋楽を終えて東京に戻り、おそるおそる父の病間を訪ねると 「よく無事で帰ってくれた」 と思いもかけない優しい言葉。驚く梅幸に、菊五郎はニコニコしながら 「この間は忙しい中からよく見舞いに帰ってくれた。俺もそのときは実に嬉しかった。が、お前は先方にとっては大事な看板だ。戦でいえば大将だ。その大将たる者が、いくら親の病気だといって戦場から勝手に帰って来る法はない。お前をそばへ引きつけておきたいのは山々であったが、そんなことをして先方の人気でも落としては太夫元にすまないと思ったから、わざとあんなに酷いことを言ったのだ」 と本心を明かし、梅幸はただただ涙にくれたという。梅幸はこの思い出を 「忘られぬ慈愛」 と題している。

 昔の役者にはなぜか火事好きが多い。菊五郎もそのひとりだが四代目芝翫も相当なものだ。ある日のこと、火事の知らせをきいて芝翫がそれっと駆けつけると、火事はとうに消えた後。これに怒った芝翫は居合わせた消防士をつかまえて 「ヤイ! なぜ俺の来ねえうちに消してしまった」 と怒鳴りつけたそうな。

 こんな話もある。世界地図を見ているところへ芝翫が現れ 「日本はどこだい」と言うので番頭が日本列島を指さすと 「フム、そして九州はどこらだい」 ときく。「この小さな点がそうです」 と答えると 「そんな馬鹿なことがあるものか。俺が九州を回ったとき幾日かかったと思う。第一、日本がそんな小せえ筈はねえ」 と大の不機嫌。中国大陸の大きさにも承知しない。「べら棒め、人が知らねえと思っていい加減なヨタばかり飛ばすな。唐がそんなに大きくて日本がそんなに小せえわけはねえ」 と口をとがらせる芝翫に、息子の福助(五代目歌右衛門)が見兼ねて 「日本はこれですよ」と北アメリカ大陸をさすと、芝翫は 「うむ、そうだろう。何といったって日本はどうしてもそのくらいはなくっちゃあならねえ筈だ」 とニコニコし、ようやくその場が納まったという。

 その福助がある日、芝翫を瀧の川へ紅葉狩に連れ出した。ところが秋はまだ浅く樹々はさっぱり染まっていない。それでも芝翫は帰宅するなり家人に 「青々としたいい紅葉であったよ」 と大満足の様子。これが大真面目なので一同は笑いをこらえるのに四苦八苦。「芸以外のことには無頓着で子供のような無邪気な人」 と父を評して福助は言う。「お大名」 と呼ばれた役者、四代目芝翫の鷹揚な人柄があざやかに伝わってくる。

 相次ぐ追善を機として襲名も目白押しの3年間である。六代目彦三郎を継いだ栄三郎は五代目菊五郎の二男、現羽左衛門の父であり、五代目福助となった児太郎は五代目歌右衛門の長男、現歌右衛門の兄。三代目時蔵は三代目歌六の二男で、勘三郎にとっては兄、現時蔵にとっては祖父にあたる。堀越福三郎は九代目團十郎の長女の夫として市川家の養子となり、九代目の没後に31歳で初めて舞台に立った。没後に十代目團十郎を追贈されている。

 話は変わり、大正4年2月歌舞伎座の市川斎入(初代右團次)引退興行を仁左衛門が休演したことから、仁左衛門は兄我童を狂死に至らしめた襲名の一件に斎入が関わっていたことを怨んで休んだのだといううわさが広まった。しかしこれは事実無根で、名古屋興行への出演を病気休養のために断った手前、その後に引退興行の話を知った仁左衛門は出演したくともできなかったのである。興行を終えた斎入を東京駅で見送りながら、仁左衛門は 「斎入は引退しても、その技芸には引退させて下さるな」 と熱く語ったという。その仁左衛門の願いも空しく、斎入は翌5年2月に不帰の人となった。享年74歳。皮肉なことに、引退興行の筋書に斎入自身が 「引退後に長生きをした役者は数えるほどしかいない」 と述べている。

 当時は各劇場が座付俳優を抱え、歌舞伎座歌右衛門羽左衛門を主力とし、帝劇では梅幸を座頭に高麗蔵、宗十郎松助らを中心としながら帝劇が育てた女優連を盛んに共演させていた。明治座には左團次が一座を構え、市村座には菊五郎吉右衛門三津五郎、勘弥などの若手が連日の熱演で小屋を湧かせていた。

 そのような状況の中で、大正4年10月の市村座でアルテミス神殿を舞台とするギリシア悲劇 「軍神」 に川上貞奴が王妃アルタイ役で出演している。座元の田村成義貞奴の後援者の申入を安請合いしてしまい、断りきれずにやむなく出演させたものだが、そんな経緯を知ってか知らずか、貞奴は毎日着飾って楽屋入りをし、出番になると必ず多量の香水をふりまいて、ウイスキーのストレートを一杯。度胸をつけるためでもあっただろうが、当人は 「西洋の名女優はみんなこうして舞台に出ます」 と上機嫌だったという。このエピソードは演芸画報川尻清潭が語っている。

 この頃すでに、菊・吉を争わせて観客の興味を引こうとする田村の戦略によって双方のひいき連が対立し、その激化につれて両優の関係が険悪となりつつあった。吉右衛門市村座を去るのは大正10年のことである。

 最後に、当時の生活を偲ばせるものとして冷蔵器の広告をあげてみた。まだ電気式でなく、冷蔵用の氷が毎日配達されるところがミソである。懐かしさを覚える方もおられることと思う。ちなみに、大正4年末現在、自動車数は全国で1200台を超え、自転車も60万台をゆうに上回る一方、人力車の数も12万台を超えていた。翌5年にはチャップリンの映画が人気を集め、この年、大学は4校(学生数7千人強)、高校は8校(学生数6千人強)あったという。大正3年8月に対独戦線布告をして第一次世界大戦に参戦した日本はこの頃、大戦景気の波に乗っていた。