今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和50年~52年

 昭和50年という節目の年が明けてまもなく、八代目坂東三津五郎の訃報が劇界を駆け抜けた。南座初春歌舞伎『お吟さま』に出演中のところ、ふぐ中毒による急逝であった。簔助時代には「梨園の反逆児」と呼ばれ、東宝専属の舞台俳優第1号となり、社会部の事件記者に憧れ、上海事変が勃発すると直ちに現地へ渡り、帰国後に「ルポ・ドラマ」と冠して現地報告劇を上演するなど、その大胆な行動は様々に紙面を賑わした。多趣味と博識で有名で「歌舞伎虚と実」「言わでものこと」「芸十野」など著書も数多い。享年68。あまりにあっけない最期であった。

 その約2ヵ月後、第1回NHK古典芸能鑑賞会で、痛風に悩む尾上松緑が本興行は無理でも1日限りなら、と一世一代を期して『勧進帳』の弁慶を演じることになり、十四代守田勘弥が富樫で共演するはずだったのだが、体調を崩し、南座の3月公演を終えて駆けつけた愛息の坂東玉三郎に看取られて68年の生涯を閉じた。「ミニ羽左衛門」と称された若き日。『籠釣瓶花街酔醒』の栄之丞をはじめとする二枚目を得意とする一方、『髪結新三』では手代忠七と家主のどちらも逸品と言われる芸域の広さを持っていた。亡くなった翌日に発表された人間国宝の中に勘弥の名前はなかったが、選考会で勘弥は人間国宝に値するとの合意が得られていながら、危篤の報が入ったために見送られたという。

 この年にはさらに、42年11月の歌舞伎座曽根崎心中』に天満屋惣兵衛役で出演中に倒れて以来、長く病床にあった八代目澤村宗十郎が12月、三津五郎、勘弥と同じ68歳で逝った。その四十九日を待って、長男訥升が九代目澤村宗十郎を、二男精四郎が二代目澤村藤十郎を襲名するとの発表がなされた。

 明けて52年の1月には、市川猿翁の末弟、二代目市川小太夫が73歳で他界した。澤潟屋の一員らしく反骨の精神にあふれ、一国一城の主たらんとする気概を持ち続けた波乱の生涯であった。

 一方、翌2月の歌舞伎座では、90歳を迎えてなお元気な尾上多賀之丞の長寿を祝って20日の終演後に天地会が行われ、目玉の『人情噺文七元結』では、市川門之助の長兵衛に尾上辰之助のお兼、市川海老蔵(現團十郎)の角海老女房に市村羽左衛門の女郎という傑作な顔揃えの中、お兼が本役の多賀之丞が鳶頭の姿で颯爽と現れ、満場の喝采を浴びた。

 あべこべの配役が楽しい天地会は最近では俳優祭でしか見られないが、この時期は盛んで、例えば50年1月の南座では、『絵本太功記』十段目を藤間紫の光秀、市川猿之助の皐、片岡秀太郎の正清らで演じ、片岡我當の初菊が愛らしいと評判になった。

 52年10月、御園座千秋楽前日の天地会は『新版歌祭文』(野崎村)。片岡仁左衛門のお光と羽左衛門のお染をご想像あれ。久松は市川男女蔵(現左團次)で、久松を乗せる駕籠舁きに扮した宗十郎藤十郎の重くて辛そうな様子に客席はいっそう沸き、尾上梅幸の久作には本役でも十分いけると太鼓判が押された。

 今でも本興行で、例えば「助六」の通人が流行語を連発するなど様々な入れ事が見られるが、51年7月の歌舞伎座東海道中膝栗毛』には、洋画「ジョーズ」の大ヒットを背景に、瀬戸内海を渡って四国へ向かう弥次喜多の舟がジョーズに襲われるかと思えば、劇中劇として「ベルサイユのばら」をもじった「弁済湯の葉欄」が登場。門之助の葉欄と坂東竹三郎のオスカーレは大張り切りで臨んだが、終演が10時半を回る長丁場であったため、4日目からカットされてしまった。

 天地会やこの種の趣向は、単なる悪ふざけでは興醒めなのは言うまでもないが、毎月変わりばえのしない演目が並ぶ昨今、普段とは違う役柄を大真面目に演じる天地会ならたまには見せてほしい気もするのだが、いかがなものだろうか。

 ちなみに、50年1月の第16回俳優祭で本格的な義太夫狂言として『白雪姫』が初演され、尾上菊五郎の脚本に中村福助(現梅玉)の演出、辰之助の振付に海老蔵(十二代目團十郎)の美術と若手が制作を担当し、中村歌右衛門の白雪姫に中村勘三郎のお后、中村勘九郎の鏡の精、十三代目仁左衛門の狩人、松本幸四郎白鸚)の王子という配役で絶賛を博し、伝説の舞台としてその後、再々演に及んでいる。

 話は変わって、天保6年に開場した日本最古の劇場として重要文化財に指定されている金丸座(香川県琴平町)の復旧工事が完了し、51年4月に中村鴈治郎を招いて落成式が挙行された。今では春の恒例となっている「こんぴら歌舞伎」の開催までは、さらに約10年の歳月を要する。

 金丸座の復旧に続いて、岐阜県の相生座では、51年8月に猿之助を迎えて古風なロウソク芝居が再現された。相生座は、益田郡下呂町にあった同名の舞台と恵那郡明知町の常磐座とを合体し、「美濃歌舞伎博物館」としてゴルフ場の一隅に移築したもので、戸板康二原作の中村雅楽シリーズが勘三郎の主演でテレビ化された際にもロケ地として使用されたことがある。青白い光が混じる洋ロウソクを避け、値段がその10倍もする和ロウソクが大量に用意された。盛夏の中、ロウソクの灯を風から守るために扉という扉を閉め切り、超満員の熱気でロウソクがどんどん溶けていく。特設の水槽を使った本水の立廻りに客席が沸く。電灯の照明では実現し得ない独特の世界がそこにあった。

 猿之助は、前年11月に舞踊の「澤瀉十種」を発表し、『三人片輪』『釣狐』の2種は弟の段四郎に委ねたものの、残る『浮世風呂』『武悪』『夕顔棚』『連獅子』『桧垣』『二人知盛』『すみだ川』および『猪八戒』の8種すべてを自分で、しかも1日で披露するという、相変わらずの猛勇ぶりを見せた。また、辻村ジュサブローの人形によるNHKの『新・八犬伝』が人気を集めるとすかさず『里見八犬伝』を通しで復活上演し、51年10月には、250年ぶりの『雙生隅田川』上演に際しジュサブローのカラス天狗人形を起用するなど、名プロデューサーとしての手腕をいかんなく発揮している。さらに翌52年には、祖父猿翁から受け継いだ『黒塚』と、すっかり定番になった『義経千本桜』川連法眼館の場(四の切)を引っさげ、7月から8月にかけてイギリス、アメリカ、カナダを巡演している。その精力的な活動は目を引かずにはおかない。

 猿之助の海外公演に先駆けて、3月には国立劇場の歌舞伎俳優研修生12名に羽左衛門と市村鶴蔵が加わり、初のアジア公演としてタイ、ビルマ、インドを訪れた。それぞれに古典舞踊を持つ国だけあって歌舞伎への関心はひときわ高く、一行は欧米での公演とは一味違う感動を味わった。

 52年9月の歌舞伎座勧進帳』では、中村吉右衛門海老蔵辰之助が弁慶・富樫・義経の3役を1日交替、6通りの配役で競演し、翌10月には同じ歌舞伎座で、中村雀右衛門中村芝翫實川延若が『鏡獅子』を日替りで踊った。さらに、12月の南座『かさね』では、歌右衛門のかさねに、与右衛門を福助辰之助海老蔵が1日交替で演じ、いずれも評判を集めた。繰り返しになるが、珍しい演目が上演されることが少ない最近、こうした意欲的な企画が見直されてもよいと思う。

 若女形の筆頭としてますます人気の玉三郎は同年12月の日生劇場で初めて『天守物語』を主演することになり、新しい企画として、相手役の図書之助はオーディションにより653名の応募者の中から新人が選ばれた。

 ベテラン勢も負けてはいない。50年9月に藤間流家元を息子の辰之助に譲った松緑は、52年1月の国立劇場で意外にも初役の助六を演じ、4月には新橋演舞場で『オセロー』再演に臨んだ。意欲満々の挑戦であったが、急性アレルギー性皮膚炎と感冒による発熱で休演を余儀なくされ、河原崎権十郎が代役することになった。権十郎は、プロンプターの声を伝える新兵器のイヤホーンに助けられ、歌舞伎とは勝手が違う上に台詞も膨大なシェークスピア劇での急な代役という大任を見事に果たした。

 歌右衛門は、50年9月の国立劇場鶴屋南北作『阿国御前化粧鏡』を120年ぶりに復活し、主役の阿国御前として宙乗りを披露するとともに初めての演出も手がけた。

 西の大御所、鴈治郎は、息子の中村扇雀(現鴈治郎)とのコンビで作り上げた『曽根崎心中』が51年10月の御園座で上演600回に達し、その日の終演後、舞台挨拶の場で感涙にむせんだ。58年に鴈治郎が倒れるまでに父子の記録は645回を数え、以後は孫の中村智太郎(現翫雀)が徳兵衛役を引き継ぎ、現鴈治郎のお初上演記録は平成7年1月16日、阪神淡路大震災の前日の中座で1000回に達する。

 もうひとりの関西歌舞伎の重鎮、仁左衛門は、52年12月の御園座で顔見世連続出演25周年を祝って表彰された。

 若手とベテラン勢とがともに多彩な活躍を見せる中、その集大成ともいうべきビッグな興行が企画された。52年11月、歌舞伎座と中座における『仮名手本忠臣蔵』東西競演である。休演または他座に出演する役者は20人に満たないという、まさに歌舞伎界あげての大イベント。9月には約90名が紋付袴姿で泉岳寺に墓参し、それぞれ自分が演じる義士の墓に線香を手向けた。場割りだけでなく衣裳や装置、型も異なる東西の舞台を見比べようと、はるばる遠征した好劇家も少なくないという。

 50年2月には辰之助、52年には8月に菊之助、12月に新之助が誕生し、平成の三之助が勢揃いしている。世代交代が着実に進む中、昭和の歌舞伎は最後の約10年に向けて、ますますその輝きを強めているように見える。