今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和41年~43年

 ビートルズの初来日に若者が熱狂した昭和41年、歌舞伎界でも若手のパワーが炸裂し、まずテレビドラマ「源義経」に主演した尾上菊之助(現菊五郎)の人気が爆発した。2月の東横ホールは菊之助義経を演じる『勧進帳』が話題をさらい、三之助の活躍で開場以来の大入りを記録した。菊之助ブームは秋になっても衰えることなく、「源義経」を劇化した歌舞伎座9月公演は前売初日に百人近い徹夜組が出る騒ぎとなった。さらに三之助と同世代の若手のうち、市川猿之助は自主公演「春秋会」を成功させ、中村万之助は新装開場の帝国劇場で二代目中村吉右衛門を襲名し、新たなスタートを切った。

 帝国劇場は、東宝に移籍した松本幸四郎一門にとって待望の劇場であったが、菊田一夫が一生の大事業として自ら渡米し、上演権を獲得した「風と共に去りぬ」の和製ミュージカル実現をめざして設計されたその舞台機構は、歌舞伎に適するものではなかった。花道は扇形に広がる客を縫って「く」の字に曲がり、普通の劇場の1.5倍もの長さがあるうえに揚幕に向かって上り坂。弁慶の飛び六法など、いかに鍛練した役者であっても体力が続くものではなく、脇花道で妥協せざるを得ない。大臣柱がない上に大道具を飾る位置が奥まっているため、どのように配置しても舞台裏がのぞいてしまい、カーテンで目隠しをするしかない。スライドステージなどの最新の設備を配していながら、操作が複雑すぎて機能しない。一流ホテル並みに立派な楽屋は劇場ビルの7、8階にあり、3階の舞台との行き来が不便なことこの上ない。しかも襲名披露狂言の『金閣寺』は豪華絢爛な舞台が売物なのに、金紙を貼る代りに絵具を塗っただけの舞台は薄っぺらで、擬宝珠までが書割。制作の千谷道雄が自腹を切って買いに行かせようにも擬宝珠を売っている店から説明しなくてはならないほど歌舞伎の舞台に不慣れな道具方と、次にいつ使うか分からない道具を高い倉庫代を払って保管しておくよりその都度安物で消費してしまおうとする東宝の方針は、ことあるごとに出演者や制作陣を苛立たせ、41年10月の記念すべき新装開場公演は不手際に次ぐ不手際で混乱を極めた。移籍後、納得のいく仕事ができずに悶々としていた幸四郎にしてみれば、自らの城となるべき新しい劇場での愛息の襲名披露に、袂を分かったとはいえ恋しくてならない中村歌右衛門らの同輩を客演として迎え、東宝歌舞伎の明るい前途を示そうと意気込んでいただけに、落胆は大きかった。

 幸四郎にとって幸いというべきは、この年11月に国立劇場が開場したことである。明治の中頃から実に70年に及ぶ設立運動を経てようやく誕生したこの劇場には、何度も国会に陳情に行くなど精力的に尽力しながらその完成した姿を見ることなく故人となった久保田万太郎をはじめとして、様々な演劇人の思いが込められている。歌舞伎俳優のすべてを松竹が掌握している以上、常に松竹の企画が優先され、国立劇場の歌舞伎公演は様々な制約を免れないものの、第1回公演を『菅原伝授手習鑑』通し上演で飾り、以後、古典芸能の復活・保護を旗印として、幸四郎にかつての同輩たちと共演する機会を提供した。

 42年3月にはハワイで2度目の歌舞伎公演が大盛況を博し、定員2,100人のホノルル国際コンサート・ホールを連日満員にした。8月にはカナダ建国百年記念芸術祭とモントリオール万国博覧会への参加を果たし、各国から参集した130余りの芸能団体の中でも歌舞伎が最高と賞賛された。「昭和元禄」と呼ばれるほどの好景気となった43年には、幸四郎中村又五郎とともにニューヨーク高等演劇研究所の講師として招かれた。ここでは以前、尾上梅幸が『鳴神』の指導をしたことがあり、ある程度の予備知識があるとはいえ、歩く練習から始める外国人に『勧進帳』を上演させるまでの苦労は並大抵のものではない。台詞はもちろん英語。長唄はさすがに無理だったので、英訳した詞章を語る形式にした。オーディションで選ばれた外国人たちは、歌舞伎というと錦絵を連想し、化粧もその通りにしようとする。だが、歌舞伎の化粧はもともと日本人の平面な顔を立体的に見せる工夫を凝らしたものなので、彫りの深い外国人には向かない。そこで、ほとんど素顔に近い化粧にしたところ、フランス人とのハーフといわれる十五代目市村羽左衛門そっくりの義経が誕生したという。

 早稲田小劇場に続いて寺山修司主宰の「天井桟敷」が結成され、唐十郎主宰の「状況劇場」は初のテント興行を試みるなど、新しい動きが劇界を揺さぶっていた。この頃、中国大陸に吹き荒れた文化大革命の嵐は、毛沢東に傾倒した河原崎長十郎前進座脱退という思わぬ形で波紋を呼んだ。かと思うと、浪費癖がたたって多額の借金を負った藤山寛美の去就は、松竹新喜劇除籍から半年後の復帰まで、様々に報道を賑わせた。

 42年9月には森繁久弥越路吹雪の主演で『屋根の上のヴァイオリン弾き』が初演され、和製ミュージカルも固定客をつかみ始める。グループサウンズの全盛期で若者はコンサートに詰めかけ、手塚治虫の「火の鳥」、赤塚不二雄の「天才バカボン」、ちばてつやの「あしたのジョー」などの漫画が大ヒットし、娯楽の多様化がますます進んでいた。新派の基礎を作った川上音二郎がかつて歌舞伎座に出演した折、九代目市川團十郎が「舞台が汚された」と激怒し、関係者を慌てさせたものだが、その歌舞伎座の舞台で、三波春夫の歌謡ショーが連続8年、動員数12万人を記録する時代になっていた。歌舞伎界から映画に転身した中村(のち萬屋錦之助大川橋蔵歌舞伎座で単独の定例公演を持つようになり、当時の歌舞伎座は純粋な歌舞伎専門の劇場とはいい難い。大川橋蔵の場合は、42年12月に13年ぶりで歌舞伎座に出演したところ、テレビの「銭形平次」の人気で大入りを記録し、以後師走の恒例となったものである。菊之助ブームと同様、テレビの影響力はすでにそれほど大きくなっていた。

 様々な新しい勢力が台頭してくる中で、新派は創立80周年、新国劇は創立50周年を祝い、菊五郎劇団も結成20周年を迎えた。伝統芸能には伝統芸能ならではの強みがある。華やかな襲名披露興行もそのひとつである。42年4月の歌舞伎座では、中村歌右衛門を筆頭とする成駒屋一門が口上の幕に居並んだ。中村福助改め七代目中村芝翫加賀屋福之助改め八代目中村福助(現梅玉)、加賀屋橋之助改め五代目中村松江、中村玉太郎改め六代目中村東蔵の襲名披露に加えて、新芝翫の長男五代目中村児太郎(現福助)の初舞台。歌右衛門は「一門の名跡がすべて揃うのは初めてです」と感激の涙を見せた。10月には市村家橘が養父十五代目市村羽左衛門の23回忌追善興行で二代目市村吉五郎を、その長男寿が十七代目家橘を襲名した。翌11月には初代中村鴈治郎の33回忌追善を機に、中村扇雀(現鴈治郎)の長男智太郎(現翫雀)と次男浩太郎(現扇雀)が初舞台を踏んだ。

 初世鴈治郎の追善興行はこの年2月の大阪新歌舞伎座を皮切りに巡演したが、前年12月、亡父の追善を前に長男の林又一郎が歿した。往時は踊りの名手として知られながら、生来の病弱ゆえに二代目鴈治郎を継いだ弟の蔭になりがちだった「長ぼん」の不遇な晩年を象徴するような寂しい逝去であった。

 42年6月末の南座公演を最後に、十三代目片岡仁左衛門が私費を投じて続けてきた「仁左衛門歌舞伎」が6年間の幕を閉じ、大正9年の創設以来50年の歴史を持つ福岡の大博劇場は、再建委員会の努力も空しく、43年3月に競売に付された。しかし、関西歌舞伎を盛り立てようとする動きは力強く、関西での歌舞伎興行がほとんどなかった数年前に「つくし会」という研究会を結成し、地道な努力を続けてきた坂東薪車がその熱心さを買われて尾上菊次郎の養子となり、その前名である竹三郎を継いだ。また、41年10月に顔見世を復活した御園座に続いて、43年12月には南座も発祥350年を記念して顔見世興行を催し、1年ぶりに舞台復帰を果たした市川寿海のほか、鴈治郎仁左衛門、延若らの関西陣歌右衛門梅幸勘三郎らに三之助を加えた東西合同の大歌舞伎で芸どころ京都の好劇家を喜ばせた。

 この南座で、43年8月には片岡秀公(現我當)・秀太郎・孝夫の松島屋3兄弟が自主公演「若松会」で気を吐き、同じ頃、東京では国立劇場の第1回青年歌舞伎祭に、市川新之助(現團十郎)の「荒磯会」、澤村訥升(九代目澤村宗十郎)精四郎(現藤十郎)兄弟の「竹生会」ほかいくつかの団体が参集し、研鑚の成果を競った。この公演は、40歳以下の青年俳優が主宰する歌舞伎研究劇団を対象に、国立劇場が劇場使用料と道具や衣裳等の舞台費用を負担し、入場料収入は各団体と折半するというシステムで、自主公演はやりたいが資金が不十分で実現できずにいる若手を国が援助する画期的な試みであったが、それぞれに本興行を抱えている事情もあり、残念ながら定着するには至らなかった。

 若手の活躍の蔭で老優は去り逝く。41年4月に惜しまれながら引退披露をした八代目市川團蔵は、同年6月、四国巡礼の帰路に瀬戸内海の客船から投身して入水自殺を遂げ、43年12月には、俳名の曙山を名乗って隠居していた五代目澤村田之助が66歳で歿した。大柄で古風な顔立ちに気品があふれ、主に和事に長じ、若手のホープと目された時代もあった優で、息子に現澤村田之助・由次郎兄弟がいる。

 42年7月、歌舞伎座の七代目坂東三津五郎7回忌追善興行で三之助が『三人形』を披露した。浅黄幕が振り落とされ、辰之助の奴緑平、新之助の若衆春之丞、菊之助の傾城漣太夫が姿を見せると、3人が3人ともそれぞれの父親にあまりにもよく似ているので、場内にどよめきが起こった。それから30年余を経た平成10年11月の歌舞伎座で、その息子達が『三人形』を踊り、同じどよめきを再現した。新三之助はそれぞれの父の、そして祖父の面影を写している。祖父の松緑・十一代目團十郎梅幸の時代から歌舞伎に親しみ、二世代の三之助の成長を見守ってきた人にとっては、さぞ懐かしい舞台だったことだろう。