今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和5年~7年

 昭和5年1月1日、大阪で文楽座が開場した。3月29日には梅幸の翁、羽左衛門の千歳、菊五郎の三番叟という華やかな顔ぶれが東京劇場の幕開きを飾った。この『式三番』は、その立派さに開場式3日間だけでは惜しいというので延長され、4月1日の初日から千秋楽まで毎日、序幕として演じられた。

 この3月には、幸四郎が、明治13年4月の初舞台以来50年間、一度も病気で休むことなく舞台を勤めた健康を祝って、楽屋中に蕎麦を配った。この記録の延長線上で、生涯に1600回以上も弁慶を演じるという幸四郎の偉業が達成されている。

 この春のもうひとつの慶事は、寺島幸三すなわち菊五郎を校長とする日本俳優学校の開校である。予科2年本科3年の計5年間という長期プログラムで、狙いは既成俳優の再教育にあったのだが、音羽屋門下の俳優以外は趣旨には賛同しながら入学はせず、この目的は果たせなかった。それでも、入学希望者は予定人員の数十倍にのぼった(8年3月当時の在籍者数約120名。うち女子46名)。菊五郎芸談を語る講義は学外からの聴講者も数多く集め、菊五郎は自ら踊りの指導にもあたった。彦三郎や三津五郎も理事に加わり、一流の講師陣をそろえ、舞踊、邦楽、演技指導にとどまらず、地理、歴史や外国語のほか、劇評家や舞台美術家、舞台監督、演出家等の育成も視野に入れた幅広い内容でありながら、授業料は破格に安く、しかも月1回、校長が出演する劇場の1等席無料見学という特典までついていたから、菊五郎は毎月莫大な赤字を補填せざるを得なかった。菊五郎はそれでも「舞台を退くようなことがあっても、この学校だけは、死ぬまでがんばってやってのけるつもり」(演芸画報昭和5年6月号)で奮闘したのだが、熱意だけで経営難を克服することはできない。東宝が卒業生を引き受けるという話も、その真の目的は菊五郎の引き抜きにあったために破談となり、結局2回目の卒業生を送り出したのみで、11年には閉校に追い込まれた。しかし、国の保護が全くなかった当時に、後進の指導という貴重な仕事に私財を投げ打って取り組んだ菊五郎の意欲は高く評価すべきであると思う。

 昭和恐慌と呼ばれた不況の嵐が吹き荒れる中、250万の失業者が街にあふれ、プロレタリア演劇の加熱とこれに対する弾圧は全盛期を迎えていた。歌舞伎界にもその余波が及び、猿之助を会長とする「優志会」の面々は、階級打破と待遇改善を叫んだ。要求が拒否された5年12月、優志会は松竹を脱退し、翌6年1月に市村座で春秋座の旗揚げをしたが、大方の予想通り直ちに経営難に陥り、猿之助は、羽左衛門左團次の取りなしで、5月に単身松竹に復帰してしまった。猿之助の弟である小太夫は新興座を作って去り、残された河原崎長十郎中村翫右衛門らは前進座を組織して、6月の初公演以来、市村座を本拠地とした。翫右衛門は、松竹や幹部俳優の横暴を批判する雑誌「劇戦」の発行者でもあり、優志会解散後もその戦いを続けた。猿之助の復帰は決して暖かく迎えられたわけではないが、小太夫は、厳しい批判に屈することなく様々な革新的活動を続ける兄と、新国劇との合体に道を見出した自分を比較し「兄のやった仕事は歌舞伎劇のための仕事でした。僕の仕事は、歌舞伎をのがれるための運動です」と語っている(「演芸画報」昭和5年1月号)。

 この一件の背景には、ほとんどの歌舞伎俳優が松竹に掌握されていたため、その層の厚さに出る幕のない若手や大部屋役者の不満があった。これをなだめる狙いもあって、若手に機会を与えるべく、松竹が新歌舞伎座(のち新宿第一劇場)でスタートさせたのが青年歌舞伎である。7年7月の第1回公演では、志うか(十四代目勘弥)が前月に没したばかりの父勘弥の面影を偲ばせた。勘弥は鼻の奇病で入院中に心臓麻痺を起こし、6月16日に48歳の若さで亡くなったのである。

 この第1回公演では、児太郎(現歌右衛門)が初役で『娘道成寺』を踊っている。8年1月から定例化し、13年まで続いた青年歌舞伎は、若手俳優にとってよき修行の場となった。

 松竹は、経営を委ねられた帝劇を何とか建て直すべく奮闘したのだが、不況でどの劇場も不入なときに、座席数1700の大劇場で採算を取るのは容易ではなく、歌舞伎俳優と女優の混成で華やかな舞台を作り続けてきた帝劇も、6年11月に映画館に転向してしまった。この帝劇が東宝の手に移り、宝塚少女歌劇で再開場するのは昭和15年のことである。

 一方、市村座は、7年5月21日、前進座の公演中に焼失し、再建されることなく廃座となり、村山座の名で1634年に創立されて以来ほぼ3百年にわたる歴史の幕を閉じた。中村座の廃座に続いて新富座も映画館と化した後、江戸三座の中で唯一、芝居小屋として生き続けてきた市村座の寂しい幕切れであった。

 6年8月の歌舞伎座で、チャップリンの名作「街の灯」を翻案した『蝙蝠の安さん』が上演されたかと思うと、翌七年五月にはそのチャップリンが来日した。歌舞伎に恋い焦がれていたというこの英国紳士の記念すべき初の観劇は、歌舞伎座の『忠臣蔵』と『茨木』で、吉右衛門の定九郎が最もお気に召したようだ。明治座では猿之助幸四郎の『連獅子』を堪能し、特に幸四郎ニジンスキーやアンナ・パブロワにも劣らぬ舞踊家として絶賛している。「キクゴロさんは愉快な子供のような印象」「キチエモンさんは篤実な勉強家らしい」「サダンヂさんには鋭い理知のひらめき」「フクスケさんはつつましやか」「エンノスケさんは生活力の旺盛なる印象」- 楽屋でのわずかな対面から、これだけの的確な評を語ったチャップリン。「カブキは世界一の舞台芸術」と最高の賛辞を残して、名優は帰国の途についた。

 満州事変の発端となった6年9月18日の柳条湖事件に続き、7年1月28日には上海事変が勃発し、日本は戦争へと一直線に突き進みつつあったが、一方では「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉が流行する中、エンタツアチャコの登場、エノケンこと榎本健一の劇団ピエル・ブリリアント旗揚げ、市川右太衛門の「旗本退屈男」シリーズ第一作の封切など、芸能の世界は多様な展開を見せた。7年9月には、東京劇場で異色の翻訳劇『寺切博士と灰戸』上演。殺人鬼の手にかかる美女の役は水谷八重子、ジキルとハイドの二役を演じたのは猿之助であった。

 余談になるが、「河豚の戯言(ふぐのざれごと)」 - これは演芸画報に5年3月号から数回にわたって連載された菊五郎の随筆のタイトルである。「味はとびきりよくても、毒気の強い河豚の戯言」というのがその真意で、芸談とはまた違った楽しい読物となっている。その初回で語られているエピソード。

 菊五郎が六代目を襲名して間もない夏のある日、日課の乗馬を楽しみ、七里ヶ浜で一息ついていると、向こうから近づいてくる馬上の人は、間違いなく乃木将軍その人であった。

 憧れの将軍から気さくに声をかけられ、すっかり恐縮しきった菊五郎、将軍と鞍を並べて松林を抜け、茶店に馬を止めるなり、気を利かせたつもりで冷やしたラムネを数本買うと「閣下、いかがですか」と将軍の前にひざまずいた。すると、将軍は「ヤー、それはどうもありがとう。しかし、馬に乗せてもらっていた私達より、私達を乗せて走ってくれた馬の方がさぞ喉が渇いていることだろうから、私は先に、馬に飲ませてやりましょう」と言い、茶店でバケツを借り受け、氷を割入れてやり、いかにも愉快そうにさすってやりながら、馬に水を与えた。

 菊五郎は、将軍の行いに感動する一方、馬の渇きに思いが至らなかった自分に恥じ入った。馬に水をやり終えた将軍のコップにラムネをつぐ間も、手が震えてとまらない。やがて、話がはずんで将軍から「君は…」と問われたが、とうとう名乗ることができなかったという。そして以後、趣味の狩猟に出かけるときも、猟犬をいっそう大事にするようになったそうだ。この随筆、菊五郎をさす「私」には「あっし」、将軍をさす「私」には「わし」とふり仮名がついている。

 さらに余談になるが、演芸画報の昭和5年1月号に掲載された「俳優恩愛録」と題する特集記事の中に、いくつか意外な発言があったので紹介したい。まずは幸四郎から。

「金太郎に純蔵に豊、子供は3人です。純蔵は播磨屋に預けてありますし、豊は六代目に預けました。金太郎も、まだ実行はしませんが、いずれは猿之助さんに預けるつもりで居ります。」  それぞれ十一代目團十郎、八代目幸四郎白鸚)、二代目松緑となった高麗屋三兄弟であるが、当時、團十郎の名を継ぐべき候補者とされていたのは、末弟の豊だったのである。ちなみに、純蔵は、6年4月の歌舞伎座で『車引』の梅王を披露狂言として、五代目市川染五郎を襲名している。

 「広太郎の方は、また至って女形ぎらいでして、まだこんな子供でございますが、女形をさせると言っただけで泣き出す位」

 これは、大谷友右衛門の弁である。女形として雀右衛門名跡を継ぎ、75歳を数えてなお、道成寺という大曲を本興行で踊りぬく息子の姿に、父は泉下で驚嘆しているだろうか。(平成15年現在83歳を数えてなお驚異的な若さを維持しているジャッキーに万歳!)

 最後に、初代鴈治郎

 「『鴈治郎』という名は私一代で誰にも襲がさんつもりでいますさかい。『長三郎』は長三郎で大きなるがよし。『扇雀』は扇雀で大きなったらよろしいのや。」

 こう明言した初代も、近松劇を中心とする上方歌舞伎の重要な継承者たる二代目、三代目の活躍には、きっと目を細めているに違いない。