今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

大正元年~3年

 大正初期の各座の筋書をみると、市村座は表紙も中味もすべて勘亭流の文字で、少々読みにくいが、いかにも芝居らしい味わいがある。帝劇と歌舞伎座はすでに活字を用い、帝劇は美しい錦絵の表紙が特徴で、80年余り経った今でも色褪せていない。歌舞伎座の筋書きはスポンサーの影響力が甚大で、楽屋話の欄でも役者に宣伝文句を語らせている。三越がまだ呉服店だった時代で、当時の広告を眺めるだけでも十分に面白い。

 たとえば味の素の広告には「旅行の時、御観劇のとき、味の素の一瓶をオペラパックにポケットに携帯して至る所に口にかなった美味珍味を味わい下さい」とあり、ステッキ片手の紳士が背広のポケットに味の素の瓶を忍ばせるイラスト付き。しかも「味の素を茶にまぜて呑めば番茶が玉露」と続く。

 肝心の芝居の内容も、現在とは全く違う演出や今では見られない場面を伺い知ることができ、興味は尽きない。

 これらの筋書きや、古くは「演芸画報」「演芸倶楽部」などの専門誌を手がかりに、近世の歌舞伎の歴史を駆け足でたどってみよう、というのがこの連載のねらいである。

 團菊左なきあとの大正の世は、五代目歌右衛門、六代目梅幸、十五代目羽左衛門、七代目幸四郎などの名優もいまだ劇界をリードするに足る芸域に至っておらず、いわば群雄割拠の時代であった。新派の隆盛や新劇運動の高まりを背景にしながら、既に明治43年1月に新富座を、7月には本郷座を手中にしていた松竹合名社は着々と東京進出を果たし、大正2年には歌舞伎座が、また明治の末に二代目左團次から伊井蓉峰の手に渡っていた明治座は大正8年に松竹の所有となった。

 さらに、菊・吉をはじめとする若手の熱演で人気を集め「二長町時代」を築いた市村座は昭和3年に、壮麗な建物と目新しい女優劇で一時は飛ぶ鳥も落とす勢いを示した帝国劇場も昭和5年に松竹傘下に入った。歌舞伎俳優もほとんどが松竹の専属となり、かくて明治末から昭和の初めにかけて松竹の一大帝国が出現するに至る。

 大正元年4月、帝劇はマチネー興行を始めた。毎週土日と祝祭日の午後のみの女優劇である。帝劇は本興行にも次々と女優を出演させ、松井須磨子川上貞奴、森律子らが人気を集めた。女優熱が高まる一方で、女優と女形の要不要をめぐる論議が盛んに展開された。所詮行き着くところのない議論であったが、新作はともかく、純粋な歌舞伎劇の女性を女優が演じると何となく違和感がある、というのが一般的な見方だったようである。

 女形の未来が問われ、真女形の払底が嘆かれる中で、六代目市川門之助は逝った。鉛毒による脳充血であった。門之助は出雲の漁村に生まれ、田舎廻りの芝居で坂東秀之助と称し、大阪の市川右團次(のち斎入)に入門して市川福之丈と改め、明治18年に初めて東京の舞台(春木座)に上がった。そのとき九代目團十郎の目にとまって入門し、明治21年に二代目女寅、同43年に門之助を襲名した。歌舞伎座の幹部に出世した後も、良い役は梅幸に、梅幸が帝劇に移った後は歌右衛門に取られてしまい、常にワキに徹しながらも決して不満をもらさず、控えめな女形に徹した。しかし、内心は 「実に女形ほど人知れず辛いものはないので、倅はどうか一本立ちにしたい」 と願い、生前から息子男寅を六代目菊五郎の手に委ねた。菊五郎はその願いによく応え、男寅を引き立て面倒をみた。16歳で父門之助に別れた男寅、のちの三代目市川左團次である。

 小宮麒一編 「歌舞伎・新派・新国劇 上演年表 第五版」 によれば、大正元年から3年までの28か月間、帝劇は実に24か月も歌舞伎の興行を開いているが、マダムバタフライのあとにお夏清十郎、吃又のあとに 「ダンス春の宵」 といった具合で、女優陣を出演させるための無理が感じられる。それでも時代の流れにのった帝劇に他の劇場は押され、歌舞伎座の歌舞伎興行は28か月中15か月半でようやく半分を超えたが、市村座は12か月、明治座に至ってはわずか5か月という有様であった。

 連載の始まりにふさわしい華やかな話題として、大正3年4月の 「勧進帳三座競演」 をとりあげてみたい。三座とは、歌舞伎座、帝劇、市村座である。歌舞伎座では十五代目羽左衛門(当時41歳)が初役で弁慶に挑戦し、二代目左團次(同35歳)の富樫、二代目歌右衛門(同50歳)の義経。帝劇は、明治39年5月に初めて弁慶を演じて以来、既に十余回の興行を重ねている七代目幸四郎(同46歳)が六代目梅幸(同45歳)の富樫と七代目宗十郎(同40歳)の義経で幕を開けた。対して市村座は、当時30歳の六代目菊五郎の弁慶、28歳の吉右衛門の富樫、33歳の七代目三津五郎義経という一世代若い顔ぶれであった。

 そもそも、なぜこの月に三座が揃って勧進帳を出すことになったのか。当時、勧進帳を出すためには、市川宗家の許可を受け、1千円ないし3千円の版権料を納めなければならなかった。その上、衣装も堀越家から借りなければならず、その借料が加わるから興行主にとっては大した出費である。しかも、この月の興行を前に、歌舞伎座羽左衛門のために新しい所作舞台を造らせ、帝劇は幸四郎のために花道をつけたという(今では当たり前の花道も当時はそうではなかった)。それほどまでして興行を打つからには、必ず成功して投じた費用を回収しなければならない。しかし興行主の側には確かな勝算があった。この月、上野で開かれた大正博覧会である。というのも、明治40年4月に東京博覧会が開かれた際、歌舞伎座は高麗蔵(のちの七代目幸四郎)と2代目段四郎の日替わりによる勧進帳で当てた実績がある。三座は2匹目のドジョウを狙った。そしてドジョウは確かにいたのである。農家の手が空き、花見頃の4月とあって、地方からも博覧会目当ての観光客が押し寄せ、その余波は十分に三座の勧進帳に集まり、三座とも初日以来連日 「満員売切」 の札を出したという。

 弁慶は歌舞伎座羽左衛門、帝劇の幸四郎市村座菊五郎であるが、劇評は 「幸四郎の柄、羽左衛門の力に対して、菊五郎の弁慶は器用さで見せていた。才気に富んだ人だけに、何をさせても器用ではあるが、あの柄と、あの声とでは、余程出し物の選択に心を用いなければならぬ。弁慶は無論失敗であった。後半は派手に面白く踊ったけれど、前半は気の毒な程であった」 (中内蝶二氏・演芸画報)と菊五郎に手厳しい。

 残る2人は、まず素質の点では、幸四郎はやがて1600回以上の上演記録を樹立する弁慶役者であるから、当時すでに、生来の堂々とした顔や体格と太い声に加えて、舞と踊りの素養においても弁慶にふさわしい条件をほぼ完全に満たしていた。一方、羽左衛門の方はというと、その細い顔もやせ型の体も弁慶を演ずるには不向きと言わざるを得なかった。素質の違いは花道揚げ幕から出る一瞬にあらわとなる。幸四郎の堂々とした立派な出端に対し、羽左衛門の見た目の若さも持ち前の損であった。

 しかし、素質の違いはもとより羽左衛門その人こそが身にしみて分かっていることであり、あえて幸四郎を向こうに初役で弁慶を勤める羽左衛門の意気込みは相当なものであったという。3月3日の晩に突然段四郎を訪ねて教えを請い、翌日の昼過ぎまで夢中で稽古を重ね 「平素に似合わぬ熱心さに驚きましたよ」 と段四郎に言わせている。さらに市川新十郎について九代目團十郎の呼吸を呑み込む努力を積み、その上で迎えた初日であったが、何事にも動じない鷹揚さが持ち味の羽左衛門でもこのときばかりは緊張し、別人のように小心翼々として演じた。しかし、その緊張は心の張りとなり、全身にみなぎる力となって羽左衛門の弁慶に魅力を与えた。既に手に入っている弁慶役を余裕で演じる幸四郎に対し、初役の意気込みと緊張感で芯から張りつめた羽左衛門は、彼の強みである度胸でこの大舞台をものにし、気力で素質の不備を補ったといえる。

 勧進帳の読み上げや三段の舞について、評には 「羽左は幸四郎に及ばざること遥かに遠し」 とある。が、幸四郎には味があるものの 「余りに味を持たせようとして間延びになるのが此優の難」 と続き、幸四郎の弁慶も満点ではない。面白いのは弁慶が義経を打擲するくだりの評で、羽左衛門は金剛杖を振り上げる形が素晴らしく、幸四郎には打ち下ろすときに深い趣があったという。「判官おん手を取り給ひ…」 の場面は歌舞伎座の方が遥か に心に沁みる出来だったというから、羽左衛門の健闘ぶりが伺われる。これに続く語りの部分では、努めて踊りにならないようにと苦心する羽左衛門と、手に入りすぎた役ゆえに踊りになろうとする幸四郎。あくまで対照的な二人であった。

 次に、富樫は歌舞伎座左團次、帝劇の梅幸市村座吉右衛門で、意外なことに最年少の吉右衛門が最も高い評価を受けている。台詞がやや間延びしたものの、いちばん見応えがあったという。左團次にとって富樫は、九代目團十郎の追善興行で段四郎の弁慶を相手に勤めて以来であった。そのときに較べて余裕ができ立派になった分、細かいところで欠点が目立った。ただし 「真の理想の富樫役者として、先代の名を辱めないやうに、一層の鍛錬を望んで置く」 とあるから、先代の当たり役ゆえに評が辛くなった面もあるかもしれない。梅幸については 「一言にして云へば失敗である」、大切な台詞をぬかすは 「言語道断」、さらに 「不心得」 「まづい」 「形も悪い」 と散々であるが、押し出しは左團次より立派で品位もあり、山伏との押し合いの意気と形や引っ込みの前の表情が良かった、と辛うじて褒められている部分もある。

 義経は、歌舞伎座歌右衛門、帝劇の宗十郎市村座三津五郎で、これはもう、團菊左の間に入って福助時代から折紙付きの歌右衛門に他の2人がかなうはずがない。劇評は歌右衛門の賛美に尽き、宗十郎三津五郎については 「悪くはない」 と言うにとどまっている。

 何はともあれ、花見月のひととき、三座の勧進帳を総なめにできたら、さぞ幸せな心地がしたに違いない。

 ちなみに、この月の各座の観劇料は、歌舞伎座が特等席3円30銭、3階桟敷50銭、帝劇は特等席3円、4等35銭、そして市村座が桟敷2円、大入場30銭であった。歌舞伎座の上等弁当が40銭、うなぎ鮨が50銭という時代である。