今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和17年~19年

 太平洋戦争が2年目に入ると、国民はますます耐乏生活を強いられ、娯楽も限定される中、劇場の観客数はむしろ増加した。しかし、衣料品点数切符制の実施に伴い舞台衣裳を新調することが難かしくなった上に、電力節減のため照明にも制約が加わる。資材不足の深刻化につれ、装置も省略設計を余儀なくされた。

 そのような状況の中で、3月の歌舞伎座では十四代市村羽左衛門50回忌追善興行が行われた。十四代目は坂東家橘の名で歿したが、市村家としての追善となったのは当時の十五代目羽左衛門の力によるものといわれる。このとき坂東薪水改め七代目彦三郎を襲名したのちの十七代目羽左衛門によれば、十五代目から「俺に彦三郎をよこさないか」と言われたことがあるという。六代目彦三郎が菊五郎の弟であったため、彦三郎の名跡菊五郎の下にしてしまった。だから自分が彦三郎を継ぎ、いい名前にして薪水に返してやるというのである。しかし、その間に薪水が名乗るべき名前がない。「竹之丞はどうだ」「僕は丞がつく柄じゃないでしょう」十七代目の言葉に十五代目は笑い、この話は立ち消えになった。

 6月には、金属回収運動に応じて歌舞伎座の金属製の装飾具や銅瓦が取り外された。6月5日のミッドウェー海戦で日本は決定的敗北を喫し、敗戦への坂道を転げ落ち始めるが、国民には戦況の実態が知らされることなく、この月、菊五郎満州建国10周年慶祝芸能使節として中国大陸に渡った。「金をもらっちゃぁ辞退するけど只でなら行く」というのがいかにも六代目らしい。

 明けて18年1月、大阪歌舞伎座坂東鶴之助が四代目中村富十郎を襲名し、8月に中座で『鏡獅子』を出した折、長男の現富十郎が胡蝶に扮し、四代目鶴之助として初舞台を踏んだ。このとき稽古をつけたのが九代目團十郎の『鏡獅子』初演時に胡蝶をつとめた二人の娘、旭梅・紅梅(のち翠扇)姉妹であった。

 戦時体制を強化するために密集地域の劇場に強制疎開命令が出た同年3月、情報局の指定を受けた前進座陸軍記念日委嘱公演が大当りし、前進座はこの時期、時代の寵児と呼ばれた。当時の劇場は客層が一変し、国民服の「産業戦士」が大多数を占め、戦時下であればこそ苦しい現実に疲れた心を癒せるような夢のある穏やかな舞台が好まれるかと思えばさにあらず、観客は意気を高揚させる刺激的な作品を求め、この要望に応えた前進座の勢いは低迷する新派とまさに対照的であった。

 5月22日、不世出の名人と呼ばれた五代目清元延寿太夫が81歳で歿する。羽左衛門梅幸のコンビで復活され、今も人気の高い舞踊の『かさね』の哀切な調べは、延寿太夫の美声なくして成功し得なかったといわれる。

 東京が市から都に改められたのは、この年7月1日のことである。翌8月頃から、空襲に備えて上野動物園のライオンや象などの毒殺が開始された。9月8日にイタリアが無条件降伏するが、日本は退くどころか女子挺身隊の動員を決定し、10月には学徒出陣が開始される。

 人心の荒廃に追い打ちをかけるかのように、9月10日の鳥取地震は1千人余の 犠牲者を出し、その中に六代目大谷友右衛門がいた。そもそも友右衛門にとっては気の進まない巡業であったが、不入で同じ興行師に損をさせたことがあり、律儀な友右衛門は穴埋めのために座頭として大黒座に出向き、『義賢最期』上演中に電柱も抜けるような大地震に襲われたのである。友右衛門は全員を避難させ、楽屋に戻った途端、大きな揺り返しが来て落ちた梁の下敷きになった。享年58。歌右衛門門下の中村鷺助を父に持ち、翫兵衛、おもちゃ、駒助、東蔵を経て、大正9年7月に友右衛門を襲名。大名題に出世したのちも些かも慢心することなく、常に謙遜の気持ちを忘れない温和な人柄は信望を集め、どの一座に出ても見事な調和を見せた。舞台にいるだけで芝居が引き締まり、観客が安心する、そんな存在感のある貴重な脇役であった。息子の現雀右衛門は当時スマトラに従軍中で、現地の新聞で父の訃報に接したが、21年10月に帰還するまで詳しい事情を知る術はなかった。

 18年10月、情報局の命令により、当時発行されていた6つの演劇雑誌(東宝、国民演劇、演劇、現代演劇、宝塚歌劇および演芸画報)はすべて廃刊に追い込まれ、演芸画報明治40年1月創刊以来36年余の歴史に終止符を打った。新たに研究評論雑誌「日本演劇」と鑑賞指導雑誌「演劇界」を創刊することが決定され、そのために設立された日本演劇社の初代社長に岡鬼太郎が就任するが、その岡が直後の10月29日に急死し、後任は久保田万太郎に決まった。岡は新聞社出身で、『小猿七之助』『今様薩摩歌』をはじめとする劇作のほか小説や演出でも様々な活躍を見せたが、本領は辛辣な劇評にあり、特に吉右衛門に対しては、吉右衛門の亡母から将来を頼まれた責任から「君を褒める人は他にあろう。悪いところを注意して良くなって貰うことが私の役目だ」と明言して常に厳しい批評を与え、時には吉右衛門が真剣に役者をやめようかと悩むほどであった。しかし、真に歌舞伎を愛するがゆえの辛辣な批評には真心があふれていた。

 18年12月22日、歌舞伎座で『勧進帳』記録映画が撮影された。幸四郎の弁慶、羽左衛門の富樫、菊五郎義経という当時最高の配役。「順に75、70、59という年齢を考えれば最後のチャンスかも知れない。何としても記録に残しておきたい」という関係者の願いが実現したもので、今に残る貴重な資料である。時節柄フィルムは不足していたが、情報局が特別支給の計らいをし、東宝も最新の撮影機を提供して協力した。5台のライトと6台の撮影機を設置して行われた本番では3人とも素晴らしい熱演で、特に幸四郎の弁慶は「延年の舞であんなに飛び上がったのを見たことがない」と言われるほどであった。5月に文部大臣邸で最初の試写会が開かれ、優良映画として文部省選奨の指定を受ける。この時、羽左衛門は「もう2、3度これを見てからやれば、アッシの富樫はもっとうまくなりますね」と言ったというが、考えてみれば、ビデオなどない当時の役者は自分の演技を観ることなどできなかったのだ。先輩の舞台を見て、肚に入れ、次の世代に伝えてきた。そのことの重さを改めて感じさせる一言である。一方、菊五郎はこの映画を決して見ようとしなかった。五代目歌右衛門義経が強烈に眼に残っているから、どうにも見たくないと言ったそうだ。これはこれで、やはり六代目らしい言葉と言えるだろう。

 敗色がいよいよ強まる中、19年2月に発令された決戦非常措置要綱に基づき、3月5日付で全国の大劇場が一斉休場のやむなきに至った。歌舞伎座は3月の演目も決定していたが、2月興行を25日に打ち切った。その後、東京都の臨時公会堂として短期の慰安公演が2回行われるものの、歌舞伎座は休場を解かれないまま25年5月の空襲で焼失してしまうため、この2月興行が歌舞伎座にとって戦前最後の大歌舞伎となる。3月の東京では唯一、邦楽座で『忠臣蔵』が上演され、寿美蔵(寿海)が7役早替りで奮闘したが、紙不足で筋書の発行もままならず、廊下の壁一面に配役表を貼り出すのがやっとで、非常措置令に人々はおびえ、客足は伸びなかった。戦意昂揚を図ろうとした当局の措置は裏目に出たと言わざるを得ず、まもなく東京では新橋演舞場明治座2座、全国で合計6座の再開が認められるが、演目の規制はさらに強まり、1回の興行を2時間半までに限定された上、1日2回興行の場合は2回とも同じ演目を繰り返すよう命じられた。思い通りの狂言立ては許されない。衣裳も道具も何もかもが足りない。観客の側にも芝居を楽しむ余裕がない。ないない尽くしの中で必死に舞台を勤めるしかなかった当時の役者にとっては特に同じ芝居を繰り返すことが大きな苦痛を伴い、舞台の意気はあがらなかった。様々な制約を受けながら、どうにか興行を続けていた新橋演舞場を出て、歌舞伎座の前を通ると「一時休業仕候」と書いた札が下がっている。それは、好劇家にとってたまらなく寂しい風景であった。

 マリアナ沖海戦の敗退、サイパン島陥落、東条英機内閣総辞職 …。 そして11月24日、東京は初めて空襲にあう。警報が鳴ればすぐさま興行を中止せざるを得ない。まさに芝居どころではない。劇界にとって未曽有の受難の時代は今や暗澹の度を増すばかりであった。