今昔芝居暦

遥か昔、とある歌舞伎愛好会の会報誌に連載させて頂いていた大正から昭和の終わりまでの歌舞伎史もどきのコピーです。

昭和32年~34年

 劇団制の枠を越えて夢の配役を実現した昭和30年7月の第1回東宝歌舞伎以降、劇界は流動的な展開を見せ始める。32年1月、東宝歌舞伎の生みの親である小林一三は84年の生涯を閉じるが、彼の志は受け継がれ、3月の大阪で梅田コマ劇場を舞台に、長谷川一夫の相手役として東宝歌舞伎を支えた中村扇雀(現鴈治郎)を中心とする「コマ歌舞伎」が開幕し、半四郎、越路吹雪有島一郎三木のり平といった多彩な顔ぶれが華やかなエンターテイメントを繰り広げた。12月には、扇雀・半四郎・松蔦(七代目門之助)の『三人道成寺』を目玉に、新宿コマ劇場に進出する。東宝歌舞伎との競合を避けてか東京公演はこの1回きりであったが、梅田では57年10月まで続き、東宝歌舞伎よりさらに大衆化した路線で固定客をつかんだ。

 32年7月には、千駄ヶ谷の東京都体育館において、東京在住の歌舞伎・新派・新国劇の全俳優総出演による一大イベントとして第1回俳優祭が開催された。盛りだくさんの演目の中でも、中央の特設舞台に向かう四方の花道から、8人の花子(歌右衛門梅幸、先代水谷八重子市川翠扇、訥升(九代目宗十郎)、由次郎(田之助)、芝雀(四代目時蔵)、松蔦)が登場し、艶を競った『京鹿子娘道成寺』の壮観さ、華やかさは満場の観客を熱狂させた。翌年7月の第2回俳優祭は、舞台を歌舞伎座に移し、2日間昼夜の4回公演に珍しい顔ぶれの4組が『勧進帳』を競演。34年7月の第3回には、猿之助(猿翁)と新国劇島田正吾とが『修禅寺物語』の夜叉王を交代で演じたほか、幹部総出演の『滑稽俄地獄珍関』で、加賀屋(現中村)歌江が得意の身振り声色で歌右衛門時蔵、喜多村録郎を演じ、大喝采を浴びた。今も俳優祭の名物として愛されている歌江丈の物真似は、実に40年余の歳月をかけて磨き上げられてきた名品なのだ。

 32年8月、幸四郎白鸚)は文学座の『明智光秀』に、勘三郎は芸術座の『秋草物語』に出演し、新劇と歌舞伎の合流を実現する一方、菊五郎劇団の公演には新派の八重子が参加した。

 芝居のジャンルや劇団制の垣根を越えた交流が盛んになる中で、10月の海老蔵(十一代目團十郎)と歌右衛門のフリー宣言は劇界の話題を集めた。海老蔵は形式的にはもともとフリーで、出演の都度「参加」と書き添え菊五郎劇団と行動を共にしていたのだが、以後は袂を分かつことになる。その原因は、海老蔵がいよいよ團十郎襲名の腹を決めたからだとか、松緑と兄弟喧嘩をしたからだとか、いつの世も外野はかまびすしい。一方、幸四郎勘三郎とともに吉右衛門劇団を支えてきた歌右衛門は、数年前から別格の扱いだった点では海老蔵と似た立場にあり、この際、完全に離れて自由に活動したい、というのがフリー宣言の理由であった。菊五郎劇団には関西から鶴之助(富十郎)が加わることになり、劇団色の塗り替えが進んだ。好劇家にとっては、新鮮な配役を期待できる好機でもあった。

 2人のフリー宣言から2か月後の12月、吉右衛門菊五郎両劇団は6年ぶりでファン待望の合同公演を実現させ、海老蔵歌右衛門を加えた大一座に客席が湧いた。同じ月、東横ホールでも両劇団の若手が猿之助一座と組んで顔見世興行を催し、坂東喜の字(玉三郎)が『寺子屋』の小太郎役で初舞台を踏んだ。

 33年3月、結成10周年を迎えた菊五郎劇団は、歌舞伎座千秋楽の日に久々で「天地会」を復活する。『義経千本桜』鮨屋の場で、梅幸の権太、松緑のお里、福助芝翫)の梶原に三代目左團次の六代君という配役。一同が大いにはしゃいでいるところへ六代目の声色が一喝、と途端にガラリと雰囲気が変わる鮮やかな趣向に加え、幕間には美空ひばりの唄う「菊五郎格子」が流れ、ひばりと大川橋蔵の特別出演というおまけもついた。

 5月の歌舞伎座では、菊五郎劇団に海老蔵を加えて團菊祭が復活され、『風薫鞍馬彩』に牛若丸で現團十郎が六代目市川新之助を襲名した。次はいよいよ十一代目團十郎の誕生か、と周囲の期待は大いに高まるが、慎重な海老蔵は容易に腰をあげようとしない。

 息をひそめて時節の到来を待っているかのような海老蔵の「静」と対称的に、歌舞伎界はその活動範囲を著しく広げていく。まず野外劇の試みとして、大阪城での『大阪城物語』や『天守閣絵巻』のほか、四代目富十郎が33年2月、奈良の二月堂を背景に『南都二月堂 良弁杉由来』を、翌年8月には高野山の無明橋を舞台に『刈萱と石堂丸』を演じた。このとき石堂丸に扮した富十郎の息子、栄治郎(亀鶴)は、大阪テレビの連続ドラマ「団子串助漫遊記」に主役のチビッコ剣士として出演し、秀太郎関西テレビの「南蛮太郎」で主役の太郎をつとめた。大佛次郎作の連続ドラマ「薩摩飛脚」には、仁左衛門、延二郎(三世延若)ら関西歌舞伎の俳優陣が大挙出演している。

 関西ではさらに、仁左衛門、我童、鴈治郎扇雀親子、高砂屋福助、又一郎、延二郎により「上方かぶきを護る七人の会」が結成され、北条秀司らを顧問に迎え、33年8月に第1回公演を開いた。34年1月には関西歌舞伎陣の「花梢会」も結成される。しかし、前者はなかなか7人の足並みがそろわず、後者は歌右衛門の「莟会」と異なり松竹が介入する組織であるため自主性に欠け、関西歌舞伎衰退の懸念を払拭するには至らなかった。

 34年4月には、幸四郎文楽座の綱太夫・弥七とともに、『娘景清八嶋日記』の三段目『日向嶋』を厳密に文楽の本行に準じて上演しようという意欲的な試演会を開いた。文楽太夫は歌舞伎の舞台に立ってはならないという禁を破っての挑戦である。文楽の丸本そのものを台本にするため、セリフとして喋る部分と義太夫で語る部分との調整が難航するものと思われたが、3人がそれぞれに充分な時間をかけて案を練り、関西から綱太夫・弥七が上京して幸四郎の案と突き合わせたところ、驚くべきことに、セリフと義太夫の区切りがピタリと一致し、一字一句異なるところはなかったという。それほどまでに芸術的感覚の通じ合う3人が綿密な稽古を積み、精魂込めて臨んだ舞台が悪かろうはずはない。この画期的な試演会は高く評価され、幸四郎にとっては大きな自信となった。

 30年代前半は映画の最盛期にあたり、映画の観客動員数は33年に史上最高を記録する。その余波を受けて歌舞伎俳優の映画出演が相次いだ。松竹映画「大忠臣蔵」には、猿之助(猿翁)の内蔵助をはじめ多くの歌舞伎俳優が登場し、このときの大石主税が映画第一作となった團子(猿之助)はさらに「楢山節孝」「朝焼け富士の決斗」「大阪城物語」などに出演した。勘三郎は、歌舞伎座で自ら主演したことがある木下順二原作の「赤い陣羽織」で、また仁左衛門市川右太衛門主演の「あばれ街道」で、それぞれ映画初出演を果たした。32年1月に13歳で初舞台を踏んだ澤村精四郎(藤十郎)は、翌年秋に東映と専属契約を結び、のちに兄の訥升(九代目澤村宗十郎)もこれに続く。すでに大映入りしていた市川雷蔵は「弁天小僧」で勝新太郎らと共演し、浜松屋の場面で指導に当たった雷蔵の父寿海も、「暁の陣太鼓」で富十郎、簑助(八代目坂東三津五郎)らと共に初出演をした。高田浩吉主演の「お役者小僧」を皮切りに、映画界でも扇雀ブームを巻き起こした現鴈治郎は、東宝映画「女殺油地獄」で新珠三千代のお吉に与兵衛を演じて話題を集め、宝塚映画「海の小扇太」で初共演した扇千景と結婚。34年2月に長男智太郎(翫雀)が誕生する。夏の映画出演が恒例となっていた幸四郎白鸚)は、33年6月から8月までの3か月間に松竹映画「謎の逢びき」「太閤記」「大江戸の鐘」と東宝映画「隠し砦の三悪人」の4本に出演する多忙ぶり。撮影が遅れて9月になっても解放されず、歌舞伎座に出演しながらロケ地の御殿場に通う毎日が続いた。さらに、横溝正史原作の東映映画「蜘蛛の巣屋敷」では、時蔵が5人の息子のうち歌昇芝雀(四代目時蔵)、錦之助、賀津雄の4人と共演し、残る三男貴也がプロデューサーをつとめるという親子総出演が実現し、時蔵は劇中劇として『女暫』を演じた。

 五男五女に恵まれた梨園随一の子福者、三代目中村時蔵はこの映画を最後に、34年7月、肝臓ガンのために不帰の客となった。享年64。正統派の立女形として最高峰を極め、古風な伝統と格調を伝える最後の人といわれた。息を引き取る前日、亡き吉右衛門の夢でも見たのか「兄貴、兄貴」と呼びかけていたという。賢妻の誉れ高いひなこ夫人をして「悪くいいようのない人」と言わしめた温厚篤実な人柄。その時蔵が最後まで気にしていたのは、弟勘三郎の長男、勘九郎の初舞台であった。披露口上の席に連なってやれない寂しさ。元気であれば、披露狂言『昔噺桃太郎』の婆役を勤めたかったに違いない。

 勘九郎の初舞台披露興行は当時の子役の初舞台としては異例なほど華やかなもので、表向きは皇太子殿下・美智子様御成婚の奉祝興行と謳い、中村しほみ改め中村小山三の改名披露も併せて行われた。東京での興行を打ち上げた後、大阪歌舞伎座で事件は起こった。桃太郎に扮した勘九郎が2人の鬼を従え、幕開きに舞台中央からせり上がるべく3人を乗せた舞台が下がった途端、舞台とセリとが離れ、セリだけが下がってしまったのだ。舞台が大きく傾く。幼い桃太郎はあわや奈落の底へ・・・・。そのとき、鬼のひとりがガッシリと、小さな勘九郎の体を抱きかかえ、鉄骨にしがみついた。鬼退治に出かけるはずの桃太郎が鬼のおかげで命拾いをしたのだ。幕の向こうには観客がいる。大きな声は出せない。舞台の袖から勘三郎がたまらず「大丈夫か」と声をかける。穴をのぞき込んだスタッフは首を横に振った。「この舞台は直さないと使えない」という意味だったのだが、勘三郎は奈落の底に落ちた愛息の姿を想像し、「あぁダメか」と観念したという。間一髪で初舞台が最後の舞台になるところだった勘九郎を必死で救った大手柄の主は、中村屋の御神酒徳利、助五郎・四郎五郎の名コンビであった。